◇警笛は鳴る(9)
傍で話し声がする。
それに気づいてゆっくり目を開けると、まず見えたのは自分の顔を覗き込んでいるチェリンだった。不安そうな彼女の顔が安堵に変わり、背後を振り返る。
「アスール! 気が付いたみたいよ」
その声に応じて、足早にアスールも傍にやってきた。ふたりとも怪我をしている様子はない――なんともなさそうだ。
「良かった。イリーネ、大丈夫か?」
「アスール……チェリン……」
イリーネは身体を起こす。寝ていたのは清潔なベッドの上。質素なブランシャール城塞の部屋ではない。もっと暖かなぬくもりのある、どこかの広い客室だった。
「ここは?」
「リゼットの街の、ローディオン家の屋敷だ。城塞だと少々落ち着かないのでな、ここまで戻ってきたのだ」
「あたしたちはあの場ですぐ目が覚めたんだけど、あんたたちがまったく起きないから心配したのよ」
あんたたちと言われて、イリーネは横を見やる。隣のベッドに寝ていたのはカイだった。すっかり穏やかな顔で、静かに眠っている。怪我はイリーネが治癒したのだろう、おぼろげながらそんな記憶が残っている。
「とにかく、ニキータとクレイザを呼んでくるわ。待ってて」
チェリンがそう言って席を立ち、部屋を出て行った。残ったのはイリーネとアスール、眠っているカイだけだ。
口数の少ないイリーネの表情をそっと覗き込んだアスールは、居住まいを正してイリーネと向き合った。
「イリーネ」
「……はい」
「もしかして、記憶が戻ったのか?」
アスールは本当に察しが良い。
顔をあげて、真っ直ぐアスールの顔を見つめた。透き通った青の髪と瞳。優しい目元、白い肌、均整の取れた長身――最後に見たのは三年前。そう、まだ父も義母も元気で、両国王族の親睦の会食がリーゼロッテで開かれた時以来だったか。成人男子が、数年で劇的に変わることはそうない。記憶のままのアスールの姿と、目の前にいる共に旅をしたアスールの姿が、ぴったり重なった。
「うん。……ごめんね、アスール」
そう言うと、アスールは首を振った。
「何を謝ることがある。良かったよ――本当に」
すぐにチェリンは、クレイザとニキータを連れて戻ってきた。一通り無事を確かめあってから、ニキータが口を開く。
「大体のところは、一緒に聞いていたクレイザやジョルジュから聞いたが……イリーネも話してくれるか? メイナードが何をしてきたのか」
ニキータの声はどことなく優しかった。気を遣ってくれているのだ。クレイザやジョルジュが断片的にでも過去の記憶について話したのなら、その凄惨さは伝わっているだろうから。
イリーネの説明はたどたどしかった。思い出した記憶が本当に自分のものであるか正直自信がなくて、見た光景を口に出して説明するのも難しかったのだ。それでも事実はひとつ。王妃は殺され、国王は既にこの世にいないということだけだ。
元々王妃エレノアは病気がちで、国王ライオネルは敬虔な信者だったからこそ、こんな嘘がまかり通ったのだ。誰もが、「ああ、そんなヒトだ」と納得してしまえた。それを、カーシェルとイリーネが本人の口から告げるのだから、誰が疑うだろう。結果的にその発表を、アスールやファルシェといった諸国の王族たちも信じたのだ。
「記憶を操作する術――そんなものがあったのか」
「【黒翼王】殿でも、ご存じなかったですか?」
「ああ。知識だけは持っているつもりだったが、生憎とな。闇魔術ってのは扱いが難しくて、使い手も殆どいないらしいし」
ニキータが難しい表情で腕を組む。イリーネは話を続けた。
「首脳会議にカーシェルお兄様が出席できなかったのは、メイナードお兄様の仕業です。おそらく、その時になって封じていたはずのお兄様の記憶が蘇ったんだと思います。それを妨害するために、メイナードお兄様はカーシェルお兄様を拘束した。……そして、私も……」
「イリーネも?」
チェリンの問いに、イリーネは頷く。
「ペルシエに到着したとき、私の記憶も戻りかけたんです。それで今度はすべての記憶を消されて、私はオスヴィンに放り出されました」
「それは、どうして?」
「……カイを、おびき寄せるために」
アスールが驚いて、ベッドで寝ているカイを振り返る。そして顎をつまみ、呟いた。
「そうか……メイナードも、あの時の豹がカイだと気付いていたのだな。記憶を消したのは、人間社会の権力を嫌うカイの抵抗をなくすためでもあり、メイナードに注目が向くのを先延ばしにするためでもあるということか」
「相手がイリーネってだけで放っておけないのに、記憶まで失っているからいよいよカイも無視できなくなった。結果的に神国を避けて行動して、それもまたメイナードにたどり着くのが遅くなる要因になった……か。ここまでは全部向こうの思惑通りみたいだな」
ニキータもそう推測する。多分、それが正しい。カイはまんまと、イリーネという餌に食いついてしまったのだろう。
ついでに、イリーネの馬車恐怖症も説明がつく。護送されるときのトラウマが、知らないうちに焼き付いていたのだ。
「けど、なんでカイを欲しがるの? その前は『王狩り』をして、各国を崩壊させようとしていたわけじゃない。リーゼロッテの王と王妃を殺したのも、その一環ってわけでしょ。わざわざその記憶を消して、カーシェルやイリーネにリーゼロッテを統治させたのはなんだったの?」
チェリンの疑問に答えられる者はいなかった。メイナードが何をしようとしているのかは、イリーネが記憶を取り戻しても謎のままだ。
カイを欲しがる理由は、『強い化身族を配下にしたい』ということ以外にあるだろうか。カイは魔術にも秀でた強力な化身族だ。ニキータやヒューティアよりも手に入れやすいと考えたのかもしれない。
「メイナードお兄様は……平気で、あんな残酷なことをできるヒトだったんですね……私もカーシェルお兄様も、ずっと知らないで……」
カーシェルとメイナードの間には確かに確執はあったけれど、ここ数年は比較的穏やかに両者は協力していたのだ。メイナードも、昔のような攻撃的な性格は鳴りを潜め、カーシェルやイリーネには家族として接してくれた。元々が冷淡な性格であるだけに辛辣な物言いもしてきたけれど、確かにメイナードはイリーネの兄だったのに。
あれが全部、化けの皮だったなんて――。
「私がもっと早く気付いていれば、こんなことには……!」
どうしてペルシエで、イリーネは過去の記憶を取り戻しかけてしまったのだろう。メイナードの目の前でなければ、イリーネも裏から根回しで来たかもしれないのに。結果的に、カイやアスールなど、たくさんのヒトを巻き込んで迷惑をかけてしまった。
ぽろぽろと涙をこぼすイリーネの肩を、チェリンが優しくさする。アスールも身を乗り出し、イリーネの手を握った。
「イリーネ、それは違う。君のせいではないよ」
「でも……」
「何年も前から計画を練ってきたメイナードだ、どんな形であれ我々は彼と敵対することになっていただろう。ここにいる私たちは、何があろうとメイナードに味方することはなかったよ」
アスールはそう断言する。
「私の父の問いに、みなが何と答えたかを思い出してくれ。私たちは全員、それぞれの理由を持ってメイナードと戦うことを決めたのだ。我々は君に巻き込まれたわけではないし、嫌々ついてきているわけでもないんだよ」
「……カイやチェリンを巻き込んでしまったのは、事実でしょう?」
「だ、そうだ。どうなんだね、チェリン?」
話を振られたチェリンが、ぎょっとしたように目を見開く。そんな風に考えたことはなかった――そういう表情だ。
「え、ええっと……そうね。まあ、ニムにイリーネとカイが来なかったら、一緒に旅をしていなかったかもって言うのは確かよね」
そうだ。イリーネたちに出逢わなかったら、チェリンは平穏に暮らしていたはずなのに。
「でもね、あたし最近思うんだけど、どうしたってあたしはあんたたちと旅していたんじゃないかなって」
「え?」
「運命、って言ったら安っぽいんだけどさ。なんか想像できなくなっちゃったのよ、みんなと旅していない自分が。元々あたしも旅に出ようと思っていたし、その道の途中でイリーネに出逢ったんじゃないかなってね」
照れているのか、チェリンは目線を適当な方向へずらしている。
「だからあたしがここにいるのは、当然なのよ。……っていうのは、ちょっと無理矢理すぎるかしらね?」
アスールは苦笑した。不器用なチェリンらしい解釈だと微笑んでいるようだ。視線をイリーネに戻して、アスールは口を開く。
「起きたらカイにも聞いてみると良い。私の予想だが、こいつは何があっても共に来てくれたと思うよ。メイナードの思惑が最初から分かっていたとしてもだ。冷酷だとか残忍だとかハンターの間では言われているが、実際は甘すぎるくらい優しい男だからね」
それは分かる。カイは、本当はすごく優しいのだ。
けれど、それが辛い。カイはずっと傍にいてくれるのだろうと、イリーネも分かっている。傍にいてくれて、カイが傷ついていく――そんな未来が、目に浮かんでくる。
振り返ると、カイは相変わらず眠ったままだ。こんなにも傍で普通に話しているのに、身動き一つしないとは。いつものカイらしくない。どこか悪いのではないかと、心配になるくらいだ。
「カイ、大丈夫なんでしょうか。全然起きない……」
「まあ、ダメージはカイが一番でかかったろうよ。フロンツェの強力な魔術をひとりで防いで、そのあとも狙い撃ち状態だった。しばらく休息は必要だろうな」
ニキータがそう説明すると、そんな彼の背中をクレイザが肘でつついた。
「それが分かっていたのに、なんだってニキータは空からずっと傍観していたの?」
「馬鹿野郎、わざと敵の注目から外れたんだよ。だからこそ、地上のお前らが全員ぶっ倒れたあとに俺が動けたんだろうが」
「要は、一番美味しいところを狙っていたってことよね。あたしたち全員を囮にして」
「そういう言い方はないわぁ。いいじゃねぇかよ、結果的にみんなで助かったんだから」
大袈裟に肩を落としたニキータの様子に、イリーネも思わず微笑んでしまう。しかし確かに、ニキータが自由に動けたからこそイリーネはカイの契約具を奪われずに済んだのだ。メイナードやフロンツェでさえ、ニキータの存在をすっかり忘れていたようだから。
「って、んなことはいいんだけどよ。ひとつ気になることがある」
ニキータが改まってそう前置きしたので、イリーネも姿勢を正す。
「あそこにいたメイナードは幻影で、“映写”って魔術を使っていた。だが、あの術は光属性のものなんだよ」
「光属性……?」
「【獅子帝フロンツェ】は闇属性。今の時代、ひとりで二属性を操れる存在はいない。……とされている」
その言葉に、みな沈黙する。ニキータは難しい表情で腕を組んだ。
「だとしたら、あの術は誰が使ったんだ?」
★☆
それから数時間経っても、カイはちっとも目覚めなかった。
辺りはすっかり暗い。部屋にはベッドがふたつしかないので、アスールやチェリンたちは別の部屋に移っている。普通ならこの部屋はアスールが使うはずなのだが、今日はカイの傍にいたいというイリーネの気持ちを汲んでくれたようだ。
眠気は全くなくて、一度は横になったイリーネもすぐ諦めて起き上がってしまう。灯りをつけるわけにもいかず、もうだいぶ長い時間イリーネはぼんやりとカイの寝顔を見つめていた。
怪我はない。熱もない。ニキータはあまり心配しなくていいと言っていたけれど、それでも心配になる。こうしているうちに、ふと目覚めたりしないだろうか。そんな期待を込めて、イリーネはひたすらカイの看病を続ける。
――『十五年前の約束』
しきりに口にしていた言葉。
退屈で窮屈だった城での生活に対して、ぽろりとこぼした愚痴を――カイはちゃんと拾ってくれていた。いつか城を出て旅をしてみたいんだという、幼子の言葉を。
昔はカイのことを犬だと信じて、なんだか色々やらかした覚えがあるのだが――そういうことも、カイはしっかり覚えているのだろうか。だとしたら恥ずかしすぎる。
(……でも、あの頃は充実していた。カーシェルお兄様もお母様もアスールもいて、みんなでカイと遊んでいられた)
自分たちが子どもだったというのもあるだろうけれど、何も気にせず楽しく暮らせていた。メイナードや実母シャルロッテの嫌味なんて、些細なものだった。
毛布から出ていたカイの右腕をしまおうと持ち上げる。――その時、何かの映像がイリーネの脳裏に映った。
「!?」
驚いて手を放す。それからもう一度、恐る恐るカイの手に触れてみる。目を閉じたときに浮かんだのは――過ぎ去った時間の、カイの記憶だった。