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氷撃のカイ・フィリード  作者: 狼花
4章 【水と夜光の絢爛 サレイユ】
108/202

◇警笛は鳴る(8)

 ――イリーネには、それ(・・)が何か分からなかった。


 真っ赤な池。鉄の匂い。その液体は音もなく、イリーネの足元まで広がってくる。履いていた白い靴が赤く染まって、じんわり中まで滲みてくる。生暖かかった。

 すとん、と腰が抜けてそのままへたりこむ。この場でイリーネを現実に留めているのは、隣にいてくれる義兄――カーシェルだけだった。しゃがみこんだイリーネの視界には、カーシェルの足元だけしか見えていない。それでも、そこにいるのは確かにカーシェルだった。


「メイナード、お前は……何を……?」


 カーシェルの声が、弱々しい。聡明な彼も、目の前の状況を理解できていないのだ。呆けてしまった自分の反応は、そんなにおかしいものでもなかったのかもしれない。


 真っ赤な池の中心に立っているのは、真っ赤に染まった実の兄メイナードだった。メイナードは左手にそれ(・・)を持ち、右手には鋭いナイフを持っていた。


 メイナードはそれ(・・)を無造作に放り棄てる。赤い池の中に落ちたそれ(・・)の衝撃で、赤い滴が一滴跳ねた。頬に生暖かい滴を受けたイリーネは、無意識にそれを掌で触る。

 べったりと、掌に張り付く液体。鉄の匂いが、さらに強くなる。


「血……」


 ぽつりと呟いたイリーネに構わず、カーシェルは赤い池の中に飛び込んだ。そしてメイナードの胸ぐらをつかみ、締め上げる。


「お前がやったのか――」

「……義兄上(あにうえ)

お前が(・・・)父上と母上を(・・・・・・)殺したのか(・・・・・)!?」


 池の中に転がっているそれ(・・)――手足を切断され、腹を割かれ、首を斬られた死体。

 ひとつではない、ふたつ。二人分の、死体――。


 神国王ライオネル。

 ふたりの王子と、姫の父。

 熱心で敬虔な女神教教徒で、気が弱いのは困ったものだったが、それでも優しい父であり王。


 王妃エレノア。

 カーシェルの実母。

 イリーネが、本当の母より愛していた、義理の母。


 それを認識しても、イリーネは何も言えない。悲鳴も、涙さえ出てこなかった。感覚が麻痺したかのように、無残に殺されたエレノアと、その傍で組みあうカーシェルとメイナードを見つめるしかできない。ただ、ぽつりと呼ぶ。


「お父様……お母様……?」


 メイナードが、自分の胸ぐらを掴んでいるカーシェルの腕に手を置いた。息が詰まって苦しいだろうに、メイナードは笑う。


「義兄上、なぜ剣を抜かないんだい? なぜ僕を斬らない? その剣は飾り物だったのかな?」

「な、に……?」

「僕は、貴方の最愛の父と母を殺したんだよ。反逆者だ。殺しても誰も文句は言わないんじゃない? ……ああ、もしかして許してくれるの? そうだよね、僕は貴方の『弟』だから。優しい義兄上は、僕を斬ることなんてできない」

「メイナード……!」

「それが貴方の限界だよ」


 カーシェルの腹を、メイナードはナイフで貫いた。赤い池に、さらなる水が追加される。よろめいて倒れ込んだカーシェルの腹からは、大量の出血があった。

 ほぼ条件反射的に、イリーネは義兄の傷に手を触れた。傷は瞬時に塞がったものの、そう簡単には立ち上がれない。カーシェルはイリーネを抱き寄せ、歩み寄ってくるメイナードから守ろうと背を向けた。


 傍にしゃがんだメイナードは、カーシェルと、カーシェルの腕の中にいるイリーネの肩に手を回した。その様子は傍から見ると、仲の良い三兄妹が、身を寄せ合っているように見えたかもしれない。

 そのまま、メイナードは兄と妹に囁く。


「王妃陛下は病でお亡くなりに(・・・・・・・・)、国王陛下はその死に心を痛められ、教会で鎮魂のため(・・・・・・・・)祈っておられる(・・・・・・・)――いいね?」





★☆





『そう。思い出したかい? 病没だったはずの王妃陛下は、実は殺された。教会に籠り政治を放棄したはずの国王陛下は、既にこの世にない。どちらも僕が殺したんだ。三年前、君と義兄上の目の前でね』


 脳裏に、その時の光景が蘇る。


 ああ、そうだ――三年前のあの時、カーシェルと共に父王に呼び出されて、城の中にある王の私室へ向かったのだ。そうしたらそこにいたのはメイナードで、呼び出したはずの父王も王妃も殺されていて――。


「……イリーネさん、しっかりしてください!」

『滑稽だよね。義兄上は政治を放棄した陛下を嘆きながら、もう死んでいる人間の代理でずっと働いていたんだ。神姫として教会にいた君も、一度も祈っている陛下の姿なんて見なかっただろうにね』

「イリーネさん!」

『本当にあっさり術にかかってくれたよ。考えてみればおかしなことだらけなのに、疑問ひとつ持たないでさぁ』


 傍でクレイザが、必死でイリーネの名を呼んでいる声がする。気付けばイリーネは地面にしゃがみこんでいた。父と義母が殺された、あの時のように。


 聞きたくない。聞きたくない。聞きたくない。


 耳を塞いで、イリーネは身体を折り曲げた。うずくまって、力なく頭を振る。


「いや……やめて……!」





★☆





「……メイナードお兄様、カーシェルお兄様は本当にご病気なのですか?」


 イリーネは馬車から降りるなり、メイナードをそう問い詰めた。もう何度目の問いだろう。メイナードのほうもうんざりしていたのか、軽く手を振る。


「だから、何度も言ったじゃないか。義兄上は数日前から風邪気味で、こじらせてはいけないからと今回の首脳会議出席は見送られた。神都を出るときにもそう説明しただろう?」


 メイナードの背後にあるのは、リーゼロッテの王城には劣るものの、歴史の重みを感じさせる古城だった。

 フローレンツ王国王都ペルシエ。イリーネも何度か訪れたことのある、北の小国。今回の首脳会議の場である。


 リーゼロッテからは非常に長い旅だった。陸路と海路を使って、出発して一か月近くは経つ。そしてこの一か月、事あるごとにイリーネはメイナードを問い詰めてきたのだ。どうしてカーシェルではなく、メイナードが首脳会議に出席するのかと。


「カーシェルお兄様が、風邪気味程度で……?」

「性質の悪い流行りの風邪にでも罹ったんだろうよ」

「でも……でも、お兄様はとてもお元気そうで……」

「イリーネ、君はここ数年ずっと教会暮らしだっただろう。義兄上と直接会ったのも、しばらく前だ。義兄上の風邪は数日前からだと、僕は今言ったよね」

「うぅ……せめて言付けくらい預かってくだされば良かったのに」

「無理を言わないでくれよ。僕だって急に代理でフローレンツへ行けと放り出されたんだ。いい迷惑だよ、まったく。普段鍛えているのはなんだったんだ」


 反論できず、イリーネは黙り込む。メイナードはペルシエの王城を振り返った。


「ほら、早く城へ入るよ。予定より少し遅れている、待たせてとやかく言われるのは御免だ」


 歩いていくメイナードの後姿を、釈然としない気持ちでイリーネは見つめる。この兄をどうにかして言いくるめられないかと、浮かぶ考えをそのまま口に出す。


「カーシェルお兄様に、何かしたのではないでしょうね?」

「……何かって?」


 メイナードはイリーネに背を向けたまま立ち止まる。その背中へ、イリーネは濁流のように湧き出る言葉の数々を浴びせた。


「カーシェルお兄様に怪我をさせるとか、騙して幽閉するとか……本当はカーシェルお兄様は、体調など崩していなかったのではないですか!?」

「僕がそんなことをすると、本気で思っているのかい?」

「だって! だってメイナードお兄様は、お父様とお母様を――っ!?」


 知らないことを(・・・・・・・)、勝手に口が喋り出す。そのことに驚いて口をつぐんだ瞬間、メイナードがイリーネのところまで戻ってきた。そして手を伸ばし――イリーネの口を手でふさいでしまう。


「!?」

「参ったな、義兄上に続いてイリーネもか。記憶を封じる術というのも、そう長い期間効果があるわけではないんだね。三年がいいところか」


 イリーネはもがいたが、メイナードの力は思いの外強い。幼いころはお転婆姫としてカーシェルたちの手を焼かせたイリーネでも、今となっては男性の力に敵う訳がない。

 というか、どういうことだ。周りには付き人とか、護衛の騎士とか、たくさんいるのに。どうして誰も、助けてくれない?


「予定は狂ったけど、まあいい。イリーネ、君にひとつ任務をあげよう。十五年前に君が『ミルク』とか名付けた豹の化身族が、オスヴィンという地方にいる。久しぶりに会って来てほしいんだ」


 忘れるはずもないその名を聞いて、イリーネは驚く。ミルク――ずっと探していた。化身族だったというのは、後からカーシェルたちに教えられた。無事でやっているのか、できればもう一度会いたいと探していたのだ。でも、分からなかった。カーシェルのもとにさえ、ミルクの居場所は届いてこなかったのだ。

 メイナードがその情報を握りつぶしていたと直感したのは、この時だ。


「僕はね、彼が欲しいんだ。彼の魔力は他に類を見ないほど強い。君は、彼を釣るための『餌』だよ」


 餌――ミルクは、イリーネのことを覚えているのだろうか。


「でも、彼は難しい性格らしくてね。君が君のまま彼に会いに行ったら、厄介ごとの匂いを嗅ぎつけて逃げてしまうかもしれない。だからイリーネ、君にはすべてを忘れてもらうよ」

「……!」

「ふふ、彼はイリーネのことを覚えているかな? 記憶のない女性を目の前にしたらどうするんだろうね? もしかしたら、人間は残らず殺すタイプかもしれないね?」


 メイナードの声はそこで途切れた。

 正確には『イリーネ』という意識が、そこで消失したのだ。


「また会おう、イリーネ。今度こそ【氷撃】を逃がさないようにするんだね」





★☆





『「釣り」は大成功だったよ。彼は僕の望み通り、君と契約を結んでここまできてくれた。あんなにも必死で戦ってくれるってことは、律儀にも君のことを覚えていたんだろうね』


 聞くに堪えなくなったのか、ジョルジュが剣を一閃させる。だが相手は幻だ。剣は何の手応えもなく空を切る。


 カイは、戦っていた。【獅子帝】を相手に、傷だらけだった。

 どうしてあんなに――アスールやチェリンはほぼ無傷なのに、カイだけ怪我をしているのか。


 それもこれも、自分が巻き込んだせい――。





★☆





 小刻みに身体が揺れている。

 それに気づいて目を開けたが、どうしてだろう、目の前は真っ暗だった。視界が霞んでいるのかと目をこすってみたが、変化はない。下ろそうとした肘がすぐ傍の壁に当たって、少し痛い。


 折り曲げた足を伸ばそうと思っても、足は既に壁に当たっていた。とても狭い空間に、身体を折り曲げた状態で入れられているのだ。体勢を変えることさえ難しい。


 揺れているのは、なぜだ。馬車――そう、馬車だ。かなりの悪路を、強引に進む馬車の中。


 狭い。暗い。寒い。怖い。


 一度開いた目を、ゆっくり閉じる。何も見たくはなかった。

 自分が何者かなんて、どうでもいいから。





★☆





『そろそろ頃合いだね』


 メイナードの声がする。それと共に、すぐ傍に何者かの気配を感じた。そっと顔をあげてみると、そこにいたのは白銀の豹。血でところどころ赤く染まっていたが、間違いなくカイだった。カイはイリーネの傍に来て、化身を解くために淡い光に包まれていく。


 何の頃合いだ――そう思ったとき、メイナードが片手をあげてフロンツェに合図を送っていた。それを見て、イリーネは咄嗟に叫ぶ。


「だめ……やめて! やめて、お兄様ぁッ……!」


 声と同時に、閃光が戦場を貫いた。クレイザがイリーネを地面に引きずり倒し、その上から化身したままのカイが覆いかぶさる。





 ほんの少し、気を失っていたかもしれない。本当に、僅か数秒程度だ。

 

 イリーネは身体にかかる重みで目を覚ました。

 重いと思ったのは、カイがイリーネの上で倒れていたからだ。化身は自然に解け、ヒトの姿のまま、目を閉じて動かない。傍にはクレイザもいて、彼も気を失っていた。

 顔をあげると、立っている者はひとりもいなかった。暗鬼は消滅している。だが、アスールも、チェリンも、ジョルジュも、カルノーも、イル=ジナも、両軍の兵士たちも――全員倒れている。あの光のせいだろうか。


 いや――立っている者はいた。【獅子帝フロンツェ】。そしてその傍にいる、幻影のメイナード。


 フロンツェがこちらに向かってくる。真っ直ぐ、イリーネの方へ。後ずさりしようとしたけれど、恐怖のせいで身体が言うことを聞かない。

 目の前にフロンツェがしゃがみこんだ。そうして見ると、白銀のカイとは正反対の黄金のフロンツェは、なかなか顔立ちの整った若い男だった。しかし無言で無表情なその様子は、カイとはまるで違う。ただ、怖いだけだ。


 フロンツェがイリーネの顔に手を伸ばしてくる。手でフロンツェを払おうとしても、呆気なく抑え込まれる。そうして彼が触れたのは、イリーネの右耳――そこについている、カイとの契約具。紫色の耳飾り。


「これはだめ……!」


 そう叫んで首を振った途端、フロンツェが何かを察して急遽飛びのいた。今の今までフロンツェがいたその場に上空から突き刺さったのは、雷撃を帯びた太く黒い矢。


「! ニキータ、さん……!」


 急降下してきたニキータの鉤爪が、フロンツェの背を抉る。鮮血が噴き出たその傷を、容赦なくニキータは追撃した。さすがにこれにはフロンツェもたまらず、膝をついてしまう。


『ちっ、【黒翼王】……退くよ、フロンツェ』


 メイナードの言葉と共に、フロンツェは闇に包まれて消え去った。それを見送って化身を解いたニキータが怒号を浴びせる。


「――いいか若造、覚えておけ。年長者を甘く見て、調子に乗るもんじゃねぇってなぁッ」


 ずっと戦線に参加していなかったニキータは、この瞬間を待っていたのだ――。


(助かった――)


 そっとカイの口元に手をやると、カイの温かい息が手にかかる。肩の深い傷に触れて、とりあえずの治癒もできた。隣にいるクレイザの胸も、呼吸でしっかり上下している。


 契約具も奪われることなく、カイたちも無事。メイナードとフロンツェは退けられた。


 戦場に仁王立ちしているニキータの黒衣が、遠く霞んだ。

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