◆警笛は鳴る(7)
地表には割れ目などひとつもないのに、どこからか黒い煙が噴き出てくる。その煙はやがて集合して形を作った。それは幼い子ども。
「……暗鬼!」
霊峰ヴェルンで見たのとまったく同じ暗鬼だった。真っ黒な身体、赤く光る生気のない眼、口から黒い煙を吐きながら近づいてくる姿――。
暗鬼はいつの間にか、この場にいる全員を取り囲んでいた。見たことのない怪物の登場に、サレイユ兵もケクラコクマ兵も、敵だということを忘れて怯え、互いに背中を預けあってしまう。ダグラスの言った、「大事の前の小事は些細な問題」であることを実感する。
突然、ふっと嫌な風がカイの横を通り抜けた。それが何なのかは分からないが、条件反射的にカイは防御の構えを取る。
“凍てつきし盾”が発動する。いつものような小規模のものではなく、ここにいる数十名全員を覆う半球状の壁だ。誰を狙ったのか分からない以上はこうするしかない。魔力の消費も半端ではないが、構ってはいられなかった。
その壁に、何かが凄まじい勢いで激突した。その衝撃はまるで、鳩尾に重い一撃を食らったかのようだ。息が詰まり、思わず地面に膝をつきかける。
「くうッ……!?」
「カイ!」
イリーネが腕を掴んで支えてくれる。それと同時に術が解け、壁が消える――カイが解いたのではない、勝手に壁が消えてしまった。あの一撃でカイの術を破るなんて、どれだけの力だったのだ。
その時、聞き覚えのある声が響いた。この空間すべてに――グレイドル宮殿の時と同じだ。
『咄嗟に、しかも生身のままでよく防いだね。けれど、二撃目はどうかな』
刹那、カイの足元に黒い光が発生した。危険を悟ってイリーネを押しのける。足元の光から鋭い槍が突き出してきて、カイの身体をかすめた。ただの槍ではない。多分、一撃でも喰らったらおしまいだ。
跳躍して避けたものの、着地点から第三撃が襲ってくる。素早く化身して、氷の魔術で槍を打ち消した。着地したカイを守るように、化身したチェリンとアスールが前に進み出る。自然、イリーネやクレイザから離れた地点に仲間たちが輪を作る。
『……へえ。思っていたよりやるな』
何の前兆もなく、目の前に男が現れた。金髪に白い服――あの時と同じ、【獅子帝フロンツェ】。
だが今回、フロンツェの隣にはもうひとりの若い男がいた。瞳の色は淡い紫だったが、髪の色はイリーネと同じ赤みのある茶髪。少々長めのそれを、首元で小さく結っている。年齢は二十代半ば――切れ長の目も、均整の取れた体格も、甘い声も、何か見る者を惹きつけるような力があった。
アスールが剣を握る手に力を込めた。カイも態勢を低くして唸り声をあげる。
覚えている――何十年経っても、忘れるものか。
「メイナード……」
イリーネの隣にいたクレイザが、ふとしゃがんで地面の小石をつまみ上げた。何をするのかと思えば、クレイザはそれを全力でメイナードへ向けて投じたではないか。慌ててイリーネが止めようとしたときには遅い。
クレイザが投じた石は、メイナードの顔にぶつかる――はずだったのだが。どういうことだろう、石はメイナードの身体をすり抜けて、向こう側の地面に落ちてしまう。
「“映写”って魔術ですよ、これ」
するとメイナードはクレイザに視線を向け、いっそ穏やかに微笑む。
『よく気が付いたね。さすがだ』
「側面からだと、少し貴方の姿が揺らいで見えたんですよ。貴方が神国を離れるはずもないし、この場にいるのはおかしいと思っただけです」
これほど精巧な幻覚とは、恐れ入る。それに気づいたクレイザの観察眼も鋭い。
とはいえ、妙だった。確かに“映写”の魔術はカイも知っている。遠方にいる者の姿を、空間に映し出すものだ。けれどその魔術は、闇魔術ではない。【獅子帝】が使っている術では、ない――?
すると、暗鬼の一匹がイリーネとクレイザのほうへ向かった。カイが動くより前に、イリーネたちの前にジョルジュが割って入った。そして剣を一閃させ、暗鬼を振り払ってしまう。その一撃はアスールと似て、はっと目が覚めるくらいに苛烈だ。
さすが、アスールの乳兄弟。アスールには及ばなくとも、ひとりの騎士としては申し分ない実力だ。正直、この初代変態紳士の力は如何にと思っていただけに、嬉しい誤算だった。
「大丈夫。貴方がたのことは、私が命に代えてもお守りします」
ジョルジュが頼もしく笑い、近づいてくる暗鬼を斬り裂く。見れば、サレイユ兵もケクラコクマ兵も暗鬼を相手に奮闘していた。特にあの巨大象の戦いぶりは強烈で、一歩踏み出すことにその大きな足で暗鬼をまとめて数体葬り去っている。味方となると非常に頼れる存在だ。そんな彼らのおかげで、カイたちはメイナード、フロンツェと対峙できている。
『まったく、根回しが速くて困ったよ。やはり鳥族の化身族は脅威だね。戦場なら警戒が薄いかと思って来てみれば、女王の傍には君たちがいる。ついてないよ』
本当に残念そうにメイナードは頭を振る。大剣を構えたイル=ジナは、この事態でも楽しそうに笑っている。アスールの言葉を信じたかどうかはともかく、この状態ではメイナードを共通の敵と認識したようだ。豪快で猪突猛進なだけの女王ではないらしい。
「事情は分からないけど、そう簡単に首をくれてやるわけにはいかないね。神国のメイナード王子とくりゃ、尚更だ」
『そうだね。不意打ちならともかく、手練れがこんなに揃っているんじゃ、さすがに討つのは難しい。できるかもしれないけれど、フロンツェが怪我をしたら可哀相だからなぁ』
「……やけにあっさりだな」
アスールはいよいよ警戒して身構えた。メイナードはそれを見てくつくつ笑う。
『まあ、王の首をとる以外にも手はある。……さしあたっては』
メイナードがイリーネを見た。庇うように立つジョルジュが、剣先をフロンツェからメイナードへ向けた。クレイザもまた身構える。
『イリーネ、随分と久しぶりだね。一言も声をかけてくれないなんて、少し寂しいよ』
「わ……私は」
『記憶がない君は、そんなに静かなんだね。まるで別人だな』
「え!?」
イリーネが驚愕の声をあげる。それはアスールたちも同様だった。アスールがじりっと前へ進み出る。
「メイナード、貴様……イリーネの記憶のことを知っていたのか」
『知っていたも何も、彼女の記憶を封じたのは僕――というか、僕の指示を受けたフロンツェだからね』
「なんだと……!?」
メイナードはゆっくりとイリーネに向けて歩き出す。
『思い出させてあげるよ。君があの時、何を見たのか』
その言葉を聞いて、メイナードの姿を真正面に捉えた時――イリーネがびくりと身体を震わせた。よろめいたところを、クレイザが支える。
メイナードがイリーネに何をしようとしているのかは分からない。だが、良いことであるはずもない。
「イリーネ!」
アスールやカイが駆け出そうとしたのを妨害したのは、フロンツェだった。彼らの間に立ちふさがり、ナイフを抜いて身構える。メイナードの邪魔はさせないということだろう。
「邪魔だ、どけッ!」
アスールの凄味の声にも、フロンツェは無反応だ。
怒りのままに立ち向かっても勝てない相手だということは、カイも分かっている。アスールは舌打ちして剣を構えた。
アスールとフロンツェが激突する。不意を突かれ、相手が何者か分からなかった初戦時とは違う。真っ向から斬り結んでも、アスールは一歩も引かなかった。それどころか押し返し、フロンツェを後退させる。凄まじい気迫と膂力だ。
間合いを取ったフロンツェを追撃したのは、イル=ジナ女王だ。その大剣に一度でも直撃すれば、おそらく骨まで真っ二つだ。フロンツェもそれを察しているのだろう、受け止めはせずに跳躍して躱す。
アスールが突き出した剣が、フロンツェの脇腹をかすめる。イル=ジナの大剣が、金髪を数本まとめて散らす。対して、フロンツェの振るうナイフは、アスールたちにかすりもしない。
やはり――圧倒された前回とは違う。剣の腕前は、アスールやイル=ジナのほうが上だ。
けれど、フロンツェはただ押されているだけではない。積極的な攻撃を仕掛けてこないのだ。つまりこれは、ただの時間稼ぎ。
「――いや……やめて……!」
カイの耳に、泣きそうなイリーネの声が届く。
イリーネは地面に崩れ落ちていた。激しい頭痛を感じているのか、頭を抱えて。クレイザが何か必死にイリーネに声をかけ、ジョルジュは険しい顔つきのままイリーネたちを庇って剣を構え続ける。そんな三人に、ゆっくりと歩み寄るメイナードの姿。
「カイ、避けろ!」
アスールの声が、カイを現実に立ち戻らせた。はっと我に返った瞬間、目の前にフロンツェのナイフが迫っている。咄嗟に飛びのいたものの、距離が足りない。ざっくりと肩口を斬り裂かれ、白銀の体毛が赤く染まった。
無様に転がってしまい、なんとか跳ね起きたものの、フロンツェの追撃が襲い掛かる。アスールやイル=ジナには攻撃を仕掛けないくせに、カイには猛攻してくる。カイは始末しろと、メイナードの指示されているのか。
ナイフの一閃を避け、なんとか態勢を整えられる位置まで逃れようとする。だが跳躍する足に力が入らない。肩の激痛も効いている。一度移動するごとに傷が増えるばかりだ。チェリンが捨て身の体当たりを横から仕掛け、アスールが前に割って入ってくれて、やっとカイは敵の猛追を逃れることができた。
「カイ、どうしたんだ、動きがおかしい……!」
アスールがフロンツェに剣を向けながらそう問い質す。この場面での不調は、とにかく死まっしぐらだ。糾弾されるのも当然だった。
理由は分かっている。
フロンツェの強力な魔術を、咄嗟にひとりで受け止めた反動。消費した魔力はすぐには戻らず、簡単な魔術を扱うのも難しいほどだ。
そして、契約主イリーネの心の動揺。
メイナードがイリーネに何を告げているのかは分からない――それも聞き取れないほど、カイの能力は激減している。イリーネは何かの事実に混乱し、恐れ戦いている。それがこんなにも、カイの能力に直結して影響を与えるのだ。
足が重い。いつもなら見切れるはずの攻撃が見切れない。攻撃を受けて立ち直るまでに時間がかかる。
戦いの場で、致命的なことだった。
覚悟はしていた。契約したときから、いつか契約の本当の恐ろしさを知ると。それでも良いと考えたのは自分だし、動揺しているイリーネを責められるはずもない。ただ、心の結びつきとはこんなにも強く、ある意味で弱いものなのか――自分が動けるのはイリーネ次第だなんて、情けなくて仕方がない。
チェリンは分かっているのだろう、なぜカイがいつものように動けないか。だから傍で守ってくれている。チェリンの俊敏な動きを見ていれば、アスールが動じていないのも分かる。このふたりは大丈夫だろう。
(それとも、イリーネに揺さぶりをかけて弱った俺を、仕留めるのが目的――?)
荒い息をなんとか収める。と、さりげなく隣に移動してきていたイル=ジナがぽつりとカイに囁いた。
「私が突っ込むから、あんたはあのお嬢さんのところまで走りな。契約主なんだろ?」
意外な言葉に、思わずカイは女王を見上げてしまう。イル=ジナは茶目っ気たっぷりに片目を閉じて笑って見せる。案外気の良いヒトじゃないか。
(そうだな。血が昇った俺を止められるのはイリーネだけ。だったら、動揺するイリーネを落ち着かせられるのは、俺だけだ)
そこにいるメイナードは幻。いかに本物のようでも、空間をまたいで干渉はできない。……なら、いないも同然ではないか。
イリーネが落ちついてくれれば、カイも戦える。そのあとで、いくらでもフロンツェの相手をしてやろう。
イル=ジナが宣言通りフロンツェに斬りかかる。チェリンも強烈な蹴りを叩きこむ。カイは力の入らない足をありったけ動かして、イリーネのもとへ駆けた。妨害しようと投じられた闇の槍は、残らずアスールが叩き落とす。
三人の援護のおかげで、カイはフロンツェの攻撃から脱してイリーネの元までたどり着いた。幻影を斬ることもできずになすすべがなかったジョルジュが、僅かに目を輝かせる。クレイザに支えられているイリーネの前にしゃがみ、化身を解こうとした、そのとき――。
『そろそろ頃合いだね』
メイナードが笑う。それまでぴくりとも動かなかったイリーネが、その言葉を聞いた途端に顔を上げた。その眼は涙に濡れて真っ赤になっている。
「だめ……やめて! やめて、お兄様ぁッ……!」
お兄様――その呼び方が気にかかり、カイが慌てて振り返ろうとした瞬間。
カイの意識は、そこで唐突に途切れた。