◇警笛は鳴る(6)
ブランシャール城塞は南の国境の要として、百年以上の歴史を持つ砦だ。現在この城塞に常駐しているのは南方軍、約二万人の部隊である。半数以上が歩兵で、騎兵や化身族も少数ながら在籍している。投石や弩といった大掛かりな装備も備え、リゼットの街からの支援物資の搬入も容易。城塞内で農耕や牧畜も行われていた。地下水を汲める井戸も複数存在し、飢えとも無縁だ。こと防衛においてこの城塞を凌ぐものはそうないだろう。
そんな城塞内部は、慌ただしいながらも比較的落ち着きを保っていた。怪我人でごった返している様子もない。粛々と、戦闘準備を整えているようだった。
大ホールにはジョルジュの姿があった。傍には恰幅の良い中年の男性もいる。身なりからして、南方軍の司令官だろうか。
「ジョルジュ」
声をかけると、軍装のジョルジュは振り返って深々と一礼した。隣にいた男性の反応は、シメオンと同等のものだ。「アスールが来るとは聞いていたが、まさか本当に来たとは」といったところか。
「アスール殿下、お変わりないようで」
「ああ、そちらもな、カルノー司令。相変わらずの肥満体型だね」
「はっはっは、これが意外と便利でしてね。腹の脂肪が刃を防いでくれるんですよ」
カルノーはおおらかに笑って、ぽっこりと前に出ている腹を叩く。地方軍の総司令を任されているのだから相当の実力者だとは思うのだが、どうにも酒場にいそうなおじさんにしか見えない。アスールとも、軽口を叩けるくらい親しい間柄なのだろう。
「で、事情はフェレール殿から聞きましたが、本当にメイナード王子が襲撃してくるとお考えで?」
「可能性は高いだろう。状況はどうなっている?」
「四日ほど前に索敵部隊同士の衝突がありましたが、損害は軽微です。それ以降、この地域一帯では雨が続いておりましてな。互いに兵を出さずに様子を見ておったのです」
「つまり、殆どまだ何も起きていないということだな」
アスールはそれを確認して、ひとまず安堵の息を吐いた。けれどもジョルジュのほうは厳しい表情だ。
「しかし、斥候の報告で気になることがあります。どうもケクラコクマ軍のほうには、戦象部隊がいるようなのです」
「戦象部隊だと!?」
驚愕したアスールの後ろで、カイとニキータも嫌そうな表情になる。振り返ると、クレイザが説明してくれた。
「トライブ・【エレファント】の部隊です。ケクラコクマ軍には象の化身族が多くて、主力部隊としてリーゼロッテも手を焼いている存在ですよ」
「象の化身族なんているんですね……!」
「っていうか、あんたなんでそんなに国事情に精通しているのよ」
常々思っていたらしいことを、チェリンが突っ込む。そう言われてみればクレイザは、元公爵とはいえ現在は流浪の身。その国の政治体制とか、軍の組織とか、どこで情報を手に入れているのだろう。
「ファルシェやニキータからちょくちょく。索敵のスペシャリストみたいなものですからね、ふたりとも」
クレイザは朗らかにそう微笑む。するとニキータが腕を組んだ。深刻な表情だ。
「ケクラコクマの戦象部隊はやばいぞ。でかい、強い、重いの三拍子だ。ある意味、竜や獅子なんかより戦いたくねぇ」
「踏まれたら一貫の終わりだし、でかぶつのくせに意外と俊敏。突撃されたら生半可な攻撃じゃ阻止できないよね。っていうかまず遭遇したら逃げるよね」
「炸裂型の魔術とか砲撃とかで足元狙えば、横転させることもできるだろうが……」
「あの巨体の横転に巻き込まれたら、もう死ぬしかないし」
「それで魔術なんて使われた日にゃあ」
「打つ手なしだよね」
ニキータとカイは妙に意見が合っている。ふたりがそれほど象を危険視――もとい嫌悪――しているなど、相当厄介な化身族なのだろう。象というだけで巨大なのは分かるし、化身族ということは一般的な象より遥かに大きなはずだ。
「サレイユとの国境紛争で戦象部隊が投入されたことなど、滅多にないぞ。あの部隊はもっぱら対リーゼロッテのために鍛えていたはずなのだし」
アスールの言葉に、ジョルジュが応じる。
「しかし、ここ最近リーゼロッテの中枢は機能していません。今ならサレイユに攻め込んでも、リーゼロッテからの救援など来ないということを、ケクラコクマは察しているのではないでしょうか」
「……つまり、本気でサレイユを呑み込みに来たというわけだな」
重苦しい緊張感が漂う。ざわざわとあらゆる音がする中で、雨の音があまり聞こえないことにふと気づく。先程までは城塞内にいてもかなりの音で降っていたが、だいぶ弱くなってきたようだ。
同じことに気付いたのだろう、アスールが呟く。
「この雨も、今夜中には止みそうだな」
「動きがあるとすれば、明日ですね」
「ああ。……カルノー司令、ジョルジュ、そのつもりで戦闘準備を。夜間の警戒も忘れるな」
「はっ!」
カルノーとジョルジュはアスールに敬礼を施し、その場から立ち去った。それを見送ったアスールが振り返り、打って変って優しい笑みを見せた。
「さてと。これで明日までは休むことができるな」
「本当に大丈夫なの?」
チェリンが疑わしげに眉をしかめたが、アスールははっきりと頷く。
「大丈夫。ケクラコクマ軍は夜襲などせず、堂々と宣戦布告をした上で戦闘を開始するのだ。しかも、王自らがな」
古風なのね、とチェリンは肩をすくめたが、カイは何か思い当ったようだ。
「もしかして、ケクラコクマ王が護衛もつけずひとりになる瞬間って、それ?」
「察しが良いな。宣戦布告は両軍の兵士が見守る中で行われる。多くの注目が集まり、かつ王は無防備――絶好の機会だ」
「――ぶえっくし!」
突如として豪快なクシャミが飛び出した。城塞内部に反響して、こだまのように音が残っている。驚いて振り返ると、ニキータがずびずびと鼻を啜っていた。隣にいたクレイザは察知していたかのように耳を塞いでいる。
「誰か俺のことを噂しているな」
「……そこは『風邪引いた』って言わないんだ」
「これはちょっとした自慢なんだが、俺は生まれてこの方、風邪を引いたことは一度もねぇ」
「なんだ、やっぱり馬鹿――いたいいたい!」
またしてもニキータに羽交い絞めされたカイを見て、張りつめていた緊張感が少し緩むのを感じた。アスールも苦笑してイリーネたちを見やる。
「とにかく、服が濡れたままでは本当に風邪を引いてしまう。まずは着替えを」
「お召し物を替えられるんですね? 浴場へご案内しましょうか? なんなら私がお手伝いを――」
「ジョルジュ! いいから、お前は自分の仕事をしろ!」
どこから湧いて出たのか、にゅっと姿を見せたジョルジュをアスールが叱りつける。ジョルジュは「失礼しました、つい」と楽しそうに笑って、城塞の奥へと消えていく。本当に、どこにいてもブレないヒトだ。
「いいのかなぁ、戦いの前だっていうのに和やかで」
クレイザがそう呟いたので、イリーネは頷く。
「いいんじゃないでしょうか。緊張でがちがちに固まってしまうより、よほど」
「はは、イリーネさんもだいぶ肝が据わってきましたね」
「そうでしょうか?」
そうかもしれない。悪くない変化だと、イリーネは自分の気持ちを受け止めた。
★☆
アスールの睨んだ通り、雨は深夜のうちに止んだ。それでも天気は不安定なまま回復せず、翌朝の空は曇天。この時期にしては珍しいくらいの湿気が空気中にあって、息苦しい感じもする。
ブランシャール城塞は、早朝からフル稼働状態だった。手早く食事だけは済ませ、出撃準備を整えた兵士たちが整列する屋外の広場へ向かう。正面には巨大な城門。いまは閉じられている扉が開いたとき、水壕を挟んで向こう側には広大なエルネスティ平原が広がっている。
そんな城門のすぐ傍で待機しているアスールの元に、ニキータの姿だけがなかった。ニキータは上空から戦場の警戒に当たっているのだ。そうすれば地上で何か起きても、ニキータが空から対処できる。
時刻は朝七時。灰色の雲の隙間から、うっすらと太陽の日差しが差し込んでくる。
アスールが時間を確認したとき、緩やかにそれはやってきた。
僅かに地面が揺れた――ような気がした。周りのみなが何も言わないから、イリーネもそれを気のせいだと思い込む。しかし、同じ揺れがもう一度イリーネの足元に伝わってきた。一回目のそれより、大きい振動だ。
「……揺れてる? 地震かしら」
チェリンが気付いて身構える。またもう一度、ずんと重い揺れが来る。間隔を開けて、もう一度。どんどん近づいてきている。
次第に、その揺れは激しさを増していく。掴まるものがないとすぐよろけてしまうほどだ。サレイユは地震とは無縁の国である。地面が揺れるという未知の経験に、兵士たちがざわつく。
「違う、地震じゃない。これは――」
カイが何か言いかけた時、城壁から見張りの兵士の大声が響いた。
「戦象です! ケクラコクマの王旗を掲げた象が一頭、こちらへ向かって来ています!」
「……ってことはこれ、象の歩く音? 一頭でこれだけの地響きがするなんて……」
チェリンが愕然としている横で、イリーネも絶句してしまう。正確な大きさは分からなくても、相当巨大だということを理解するには十分だった。カイとニキータほどの猛者が恐れるわけである。
やがて地響きが途絶える。それと共に兵士の報告が飛んだ。
「城塞南、約二百メートルの地点に停止! 周囲には一個小隊が布陣。攻撃を仕掛けてくる様子はありません」
それを聞いたアスールが、傍に控えていたカルノーとジョルジュを振り返った。
「私も出よう。開門を」
「はい」
カルノーが部隊に声をかけ、ジョルジュが城門を開けさせる。その間に、アスールはイリーネらを改めて見回す。今更アスールは、イリーネたちに対して遠慮などしなかった。
「我が軍の兵に紛れて待機していてくれ。何か起こった時には、援護を頼む。イリーネとクレイザは、ともかく自分の身を最優先に」
全員がその言葉に頷いた。それを確認して、アスールはひとり開け放たれた城門から平原へと歩み出た。カルノーとジョルジュが続き、カルノーの部下の一個小隊も共に向かう。
イリーネたちも時間差で、城門から外へ出た。濠に架けられた跳ね橋を渡った先に、一個小隊が展開している。と、そんなことよりも先に強烈な物体が視界に入り、イリーネは思わず立ちすくんでしまう。
巨大な象――普通の象でも体高は四メートルがいいところだというのに、このときそこにいたのは五、六メートルはありそうな象だった。躰は白一色で、装飾品も身につけて何やら気品がある。長い鼻に、鋭く尖った立派な牙。太い肢を見れば、踏まれたら一貫の終わりということが一目で分かる。
「うわ、これはやばい感じの象だ。戦いたくないなぁ」
隣でカイが、早速そんな弱音を吐いた。昨日の口ぶりからしてカイは象の化身族と戦ったことがあるのだろうけれど、一体どんな酷い目に遭ったのだろう。
自軍の兵士たちに背後を守られて、アスール、二歩ほど離れてカルノーとジョルジュが進み出る。対するケクラコクマ軍のほうも同じで、象を中心に少数ながら歩兵が控えている。
その時、象の背中からヒトが飛び降りた。鞍が取り付けてあるのだとイリーネが気付いたのはその時だ。
飛び降りたヒトはふたり。そのふたりがアスールの前に進み出て――イリーネは思わず息を呑んだ。
一人はケクラコクマの王だろう。それと分かる豪華な装飾品を身につけ、颯爽とこちらへ歩み寄ってくる。身の丈ほどある大剣を背に負った――女性だった。
「じょ、女王さま……?」
思わず呟くと、クレイザが小さく頷く。てっきり屈強な男性が登場するものだとばかり思っていただけに、美しい女性の登場にイリーネは呆気にとられてしまう。年齢は二十代後半から三十代前半くらいだろう。黒い肌――典型的なケクラコクマ人。宝石のように綺麗な長い赤髪は、高く結ってあるにもかかわらず背の半ばほどにまで伸びている。赤い鎧を身につけていながら露出の多い姿はどこか挑戦的で、むき出しの肩や腿には多数の古傷が見える。女性が大切にする肌に傷をつけ、なおかつそれを隠そうともしない――傷をも名誉に思う、戦士の女だ。
女王に付き従っているのもまた、女性だった。こちらも戦士のいでたち。ケクラコクマは女系王国なのだろうか。
カイが隣で軽く足を肩幅に開く。両国の司令官が揃った――ここからが正念場。本当は化身しておきたいのだろうが、この状況ではそれもできない。何が起きてもすぐ反応できるよう、最初から構えているのだ。そういう意味では、カイもかなり警戒しているようだ。
アスールと女王が対峙する。それぞれの背後には臣下たちが控え、こちらも油断なく相手を見ている。アスールは非常に静かな面持ちだ。
先に口を開いたのは女王だった。にっと楽しそうに笑い、腰に手を当てる。
「やあ、久しぶりだね。フローレンツ以来か。姿をくらませたと聞いていたが、元気そうで何よりだ」
「女王もお変わりないようで」
「にしても、第一王子自らが出張ってくるなんてね。ちょっと予想外だよ」
「なに、傍にいたから偶然、ですよ」
アスールもにっこりと微笑んで応えている。――だが、この女王はアスールがこの場にいることにさほど驚いていない。どこかで情報が漏れたのだろうか。
「私も、貴国が戦象部隊を持ち出してくるとは思いませんでした。いいんですか、リーゼロッテ側の警戒は? こうしている間にも、本国が攻め込まれるかもしれませんよ」
「そっちこそいいのかい、王都のごたごたを放っておいて。あんたの祖父さんと大叔父さんが、またどんぱちやらかすかもしれないよ?」
「さあ、どうでしょうねぇ。ま、大臣たちもいい大人ですので、時と場合くらいは弁えてくださいますよ」
両者とものらりくらりと、相手の問いを交わしていく。女王は心底楽しそうだ。
「あんたと話すのは嫌いじゃないよ、アスール王子。虫も殺さぬ優美な顔をしているくせに、私と同じかそれ以上の血の匂いがするからね」
「それは喜んでいいのかどうか、判断に困りますね」
「喜んでくれよ。少なくともあんたの兄弟と話すより、ずっと気が楽だ」
女王は言いながら、背負っていた大剣を片手で持ち上げた。切っ先をアスールへと突きつける。大の男でも片手では振るえないほどのそれを、女王はいとも簡単に振るっている。凄まじい膂力だ。
「ケクラコクマ王イル=ジナが、サレイユ王国に宣戦を布告する! 返答はいかに?」
それを聞いたアスールも腰に佩いた長剣を抜き放つ。だがアスールは剣を抜いただけで、その刃をイル=ジナのものと交えようとはしない。
「その前にひとつ」
「あん? なんだい、出鼻を挫かないでおくれよ」
「すみません。ところで、今回のこの戦いは、貴方が主導したものですか?」
「当然じゃないか」
「本当に、貴方自身が? なぜ?」
イル=ジナはむっとしたように眉を寄せて、大剣の切っ先を僅かに下ろす。
「くどいねぇ。何が言いたいんだい? サレイユはリーゼロッテに絶対服従、この数十年間ずっとそうだった。きっとこれからもそうだろう。あの国が堕落を続けても、サレイユは立場を覆すはずもない。そうしないと、あんたたちは潰れるからだ」
後ろでジョルジュがじりっと一歩踏み出たのが見える。アスールは視線だけでジョルジュを制し、イル=ジナの話を聞き入れる。
「サレイユ王国は、仇敵リーゼロッテの属国! それだけで十分なんだよ、サレイユを攻める理由はね」
「ほう」
「ついでにラーリア湖も接収できたら、私らとしては万々歳だ。砂漠の国じゃ、水はありすぎて困ることがないからね。納得したかい?」
アスールは笑みを浮かべる。その笑みの理由が分からないイル=ジナは、油断なく身構えている。
「……なら、今回の戦いはまったくの無意味ということだ」
「なに?」
「サレイユ王国はリーゼロッテ神国との同盟を破棄し、かの国へ報復措置を取ります。イーヴァン王国との連盟でね」
「!?」
これにはイル=ジナも、背後に控えている側近の女性も動揺を見せた。アスールはさらに続ける。
「敵の敵は味方。味方とは断言できないかもしれないが、少なくとも敵ではない。そうでしょう?」
「……それを信じて、兵を退けと言うんだね」
「無理でしょうか。我々としても、神国を相手取る前に兵を死なせたくはありません」
イル=ジナは難しい顔で思案している。アスールは最初から交渉を持ちかけるつもりだったのだ、共にリーゼロッテと対しようと。そうできなくとも、せめて争うのはやめようと。つまりこの女王は、話の分かる人物ということ。
そして彼女は、メイナードの思惑とはまったく別の意志で、この戦いを始めようとしていた。これだけリーゼロッテを憎む彼女が、いかに損得を考えたところでメイナードと組むとは考えにくい。
そのとき――あの悪寒が、イリーネの背筋を駆け抜けた。
はっとして顔をあげる。咄嗟に、傍にいたカイの腕に触れた。
「……カイ!」
カイも当然気付いていた。カイは構わず、普段の彼らしくもない大声を張り上げた。
「アスール! 気をつけろ!」
その声と同時に、至る所の地面から黒い煙が吹き出しはじめた。