◇警笛は鳴る(4)
翌朝、イリーネたちはグレイドル宮殿の東門に向かった。ここはサレイユ王国軍本部に最も近く、軍人たちが有事に使用する、いわば軍通用口だった。この門を出て緩やかな坂道を真っ直ぐ下っていくと、そのまま王都グレイアースを出ることができるのだという。
その門の傍でアスールが待っていた。アスールだけでなく、なんとダグラスとソレンヌ、レティシアまでいるではないか。見送りに来てくれたのだ。
「イリーネちゃん、チェリンちゃん! 本当に行くのね」
「無理だけはしないでねぇ。身体に気を付けるのよぉ」
ソレンヌとレティシアに手を握られ、イリーネとチェリンは礼と共に頷いた。それを見ながらダグラスがアスールに告げる。
「お前も気をつけろよ。先走って、イリーネ姫たちの身を危険に晒さないように」
「これだけお目付けがついてるから、大丈夫だよ」
アスールより先にカイがそう答える。アスールの後ろにはカイ、クレイザ、ニキータがいるのだ。ダグラスは微笑み、頷いた。
「不出来な弟をよろしく頼む」
否定できなかったらしいアスールが咳払いをする。弟の無言の要求に沿って、ダグラスは話を戻した。
「まさか全面的な戦争にはならないだろうけれど、戦況に変化があれば伝令をよこしてくれ。援軍の手配はしておくから」
「ああ。……それとダグラス、イーヴァンとの連携の件は……」
「心配するな、順調だよ。【黒翼王】殿とアーヴィン少年の尽力のおかげで、昨日のやり取りが捗ったからね」
アーヴィンは昨日、ダグラスの親書を携えてイーヴァンに飛んだのだ。その返事はフローレンツでニキータに託され、昨夜にはダグラスのもとへ届いた。翼ある存在は便利である。
「いいかアスール、もう一度言っておくよ。イーヴァンとの連携が正式に取れるようになるまで、勝手な行動をするな。国家間のやり取りでは踏まなければならない手順も多いんだ。リーゼロッテに向けてサレイユとイーヴァン連名の書状を送り、その返答次第でこちらの態度が決まる。だから決定が下されるまで、サレイユから出るなよ」
「分かっている。国境紛争に収拾がついたら、そのまま私たちはブランシャール城塞で待機しているよ」
「それなら良し」
「……またしばらく留守にする。こちらはよろしくな」
「心の広い僕に感謝してほしいね、まったく」
「いつも感謝していますよ、兄上」
アスールは慇懃にダグラスに頭を下げる。その様子にダグラスは肩をすくめ、追い払うように手をひらひらと振った。自分でアスールに言わせておいて、照れたのだろうか。
ともかくも、イリーネたちはダグラスとソレンヌ、レティシアに見送られて東門から出発した。緩やかな坂道の両側は一面がだだっ広い芝生である。この場所は軍人たちの訓練場として使われていて、彼らは日々ここで演習をしたり、出陣式をしたりするのだそうだ。
「行き先はサレイユとケクラコクマの国境地帯、エルネスティ平原。そこに南方軍拠点のブランシャール城塞がある」
サレイユとケクラコクマは、他国より国境を多く接している。警備もさぞ大変だと思ったのだが、実はそうでもないそうだ。国境の西側部分は、サレイユでも唯一といっていい高山地帯。カミーユ山脈というらしいが、とにかく戦闘どころか行軍もままならない場所だ。イーヴァンと同じように、山が天然の要塞になっているのだろう。
そのため、ケクラコクマとの国境紛争が行われる場所は限られている。それがエルネスティ平原。広大な平地で、昔から多くの血が流されてきた戦場だ。この平原はサレイユとケクラコクマ、どちらのものでもない。街もなく、通常は旅商人やハンターが通過する程度。まさに「戦うための土地」なのだそうだ。
そして、そのエルネスティ平原に築かれたサレイユ軍の軍事拠点。それがブランシャール城塞だ。ここで日夜、ケクラコクマの動向を監視している。サレイユ王国軍は王都常駐の中央軍の他に、東方軍、南方軍が存在し派遣されているが、南方軍が地方派遣の軍では最大規模だ。
南方軍の兵士たちは、これまで数えきれないほどの国境紛争を経験し、どれも見事に退けてきた歴戦の戦士だ。けれどもそれは全面戦争ではなく、斥候部隊同士の小競り合いのようなものだ。だから南方軍だけで対処できていた。しかし今回は何が起こるか分からない。そのために、アスールは念のためジョルジュを遣わしたのである。
「ブランシャール城塞は王都の真南だが、徒歩で行くとなるととんでもない日数がかかるのだ。そこで、申し訳ないのだが――」
アスールは言いながら、急に坂道から外れて脇に逸れた。追いかけた先には、巨大な建物。大きな扉をくぐって感じたのは、獣独特の匂い――。
厩舎だ。立派な体格の軍用馬たちが、朝早く厩舎に入って来た人間たちをつぶらな瞳で出迎えている。
「ここからは馬での移動だ。……大丈夫か?」
アスールが視線を向けたのは、カイやチェリンである。ふたりは微妙な表情だ。乗ったことがないから分からない、ということだろう。
こんなにたくさんの馬を見たのは初めてなので、イリーネはそれだけで興味津々だ。よく見てみると、色や体格だけでなく、馬ごとに顔つきも違うのだ。
「この馬たちは、化身族じゃないですよね」
トライブ・【ホース】は軍用馬にされることが多いとカイが言っていたことをふと思い出して問う。アスールは微笑んで頷いた。
「ああ。化身族を軍用馬として利用しているのは、主にリーゼロッテやフローレンツだ。サレイユは名馬が多いことで有名だから、安心してくれていい」
アスールはイリーネの目の前の馬房から、その馬を連れ出した。栗毛の穏やかそうな馬だが、躰は大きい。アスールが鞍を取りつけてくれたので、好奇心のまま乗ってみようとしたところ、カイが慌てたように口を出した。
「ちょ、大丈夫なの、イリーネ?」
「大丈夫だよ。イリーネは乗馬の名手なのだから」
「そうなんですか!?」
予想外の事実に驚いたのはイリーネ本人だった。アスールの手を借りながら鞍に跨り、足を鐙にかけて手綱を持つ。動きは、教えられずとも覚えていた。馬腹を軽く蹴ると、馬は呆気ないほど簡単に歩き出してくれたのだ。手綱を引けば、きちんと馬は止まる。
ぽかんとしていたのは、イリーネ本人を含めて、アスール以外の全員だった。馬を乗りこなすイリーネを見て、アスールは懐かしそうに目を細める。
「ふむ、相変わらずの手綱捌き。昔からサレイユに遊びに来ては、よくカーシェルと私とダグラスを引き連れて遠駆けに出かけたものだよ。ふふ」
「ははあ、さすがの運動神経」
カイが感心している横で、イリーネはぽくぽくと馬を歩かせている。そう言われてみれば、だいぶコツを思い出してきた。
「問題はそちらの四人だ」
アスールの視線の先に、所在なさげに佇んでいる四人。カイ、チェリン、クレイザ、ニキータである。するといち早くニキータが口を開いた。
「俺は飛んでいくぜ! 上空から周囲の安全を確かめられるし、馬は一頭空くしで一石二鳥だろ!」
「あ、じゃあ僕はニキータに掴まっていきます」
「おいこら、お前は乗馬できるだろうがよ」
ニキータが恨めし気にクレイザを見やったが、クレイザは聞かなかったことにしたらしい。乗馬はできるが、あまり自信がないということだろうか。
アスールは苦笑して頷き、カイとチェリンを振り返った。
「というわけで。カイとチェリンは、イリーネか私のどちらかと同乗ということになるな」
「……乗れないなんて一言も言ってないんですけど」
カイが超低音で脅すように主張するも、アスールはにやりと笑みを浮かべる。
「ほう? 己の身を獣へと変化させられるお前が、わざわざ乗馬を嗜んでいたとは知らなんだ」
「……じゃあ、分かった。俺は化身して並走……」
「却下だ。豹が馬と並走したらどうなるか、普通に分かるだろう」
確実に、馬が怯えて動けなくなる。それでもまだ乗馬できないと認めたくないらしいカイが唸った時、素早くチェリンが手を挙げた。
「あたしイリーネの後ろに乗る!」
「よし決まったな。カイ、諦めて大人しく乗れ」
「うう……屈辱」
やっと話がまとまって、アスールの乗る黒馬の後ろにカイ、イリーネの後ろにチェリンがおさまった。化身してクレイザを背に乗せたニキータも、上空へ飛び立つ。
「それなりに駆けるぞ。イリーネ、しっかりついてきてくれ」
「はい!」
馬腹を蹴って駆けだしたアスールを、イリーネの馬が追いかける。上空には付かず離れずの距離でニキータが飛行中だ。周囲に異変があればすぐ気付いてくれるだろう。
「こらっ、カイ、ちゃんと掴まれ! それでは落ちるぞ!」
「掴まれって言ったって、これじゃアスールに掴まるしかないじゃない」
「だからそうしろと言っているんだよ」
「え、やだな、結構無理なんですけど」
「なら前に乗るか? 鞍があったほうが当然安定するし、私もそのほうが楽なのだが」
「前!? もっと嫌だよ、お姫様じゃないんだから」
「いいではないか。お前は私より小柄なのだから、お前の頭で前が見えないということもなさそうだ」
「分かったよ掴まればいいんだろ、掴まれば! それに俺は小柄じゃない!」
前方でぎゃあぎゃあ騒いでいるアスールとカイを見て、チェリンが呆れたように溜息をつく。
「何張り合ってるんだか。案外カイってプライド高いのね」
「多分、アスールと対等でいたいんですよ」
微笑んでから、イリーネは後ろのチェリンに問いかける。
「それより、チェリンも大丈夫ですか? 後ろの方が揺れが大きいから、辛かったら言ってくださいね」
「平気平気! 慣れて見せるわよ」
チェリンのプライドの高さも、ヒトのことを言えた義理ではないと思う。乗馬初心者が同乗するときには、前に座らせて後ろから手綱を持つのが鉄則だ。鞍があろうとなかろうとそういうものなのだが、おそらくカイもチェリンもそれは拒否するだろうと思って提案はしなかった。
「にしてもイリーネ、本当に馬の扱いが上手ね。『乗馬が趣味』って程度の上品な手綱捌きじゃないわよ、それ」
「殆ど感覚なんですけど……アスールの言う通り、私は昔から乗馬が好きだったんだと思います。これまで散々『お転婆』ってアスールにもカイにも言われていたのは、本当のことなんですね。実感なかったです」
「あら、あたしはなんとなく感じてはいたわよ。あんたは『深窓の姫君』って肝じゃないってね」
得意げに言うチェリンに、イリーネは苦く笑う。幼いころ、カーシェルやアスールを振り回しまくった自分の姿がぼんやりと浮かんでくる。明確なイメージができるあたり、これもあながち間違ってはいなさそうだ。
乗馬にやたら詳しい自分が奇妙で仕方がないのだが、いまは何も考えないことにした。先行するアスールの馬は、気を抜けば置いて行かれるほど速いのだ。
まず目指すは王都グレイアースのすぐ南、ジュネスの街。そこでオレント川を渡り、カトレイア半島から内陸地方へ入っていく。行きに通ったデリア大橋の西の終着点、タロンの街を経由し、ラーリア湖を左手に見ながらさらに南下。ふたつほど街を通過して、ようやくブランシャール城塞に到着できるという。馬に乗っての旅だから徒歩より何倍も速いが、馬は生き物だ。途中で休ませないといけないし、無理をすれば死なせてしまう。イリーネたちにも休息は必須である。どんなに急いでも、到着までは四、五日かかる。
先行して昨日の夕方には王都を経ったジョルジュの騎士隊も、まだ行軍の最中だ。ジョルジュたちが戦場に到着したとき、戦況はどうなっているのか――誰にも予想できない。急がなければならなかった。