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氷撃のカイ・フィリード  作者: 狼花
4章 【水と夜光の絢爛 サレイユ】
102/202

◇警笛は鳴る(2)

 まだ時刻は午前で、今日は晴れている。だというのにこの瞬間、議会場は真っ暗になった。夜の闇程度ではない。漆黒の闇。壇上にいたアスールやダグラスの姿も、すぐ傍にいるはずのカイやチェリンの姿も見えない。ひとりで底なしの闇の中に取り残されたような感覚。


 けれどひとりではない。議会場内にいたヒトたちのどよめきの声が聞こえるのだ。それに、近距離でニキータの怒声が響いた。


「無闇に動くな! 全員伏せろ!」


 肩に添えられていた手に、ぐっと力が込められる。チェリンの手だ。しゃがみこむと、イリーネの手を別のヒトが握ってくれる。チェリンより大きい、しかしごつごつというわけではない手――カイだ。カイやチェリンは、多少の夜目が利いているのかもしれない。


「イリーネ、大丈夫?」

「は、はいっ」


 カイの声は落ち着いている。それを聞いてイリーネも冷静になれた。この闇もきっと晴れる――そう思ったとき、遠方で激しい物音がした。音がしただけで、何が起きたのかは分からない。誰か転んだとか、そういうことだろうか。


 次第に闇が晴れた。長いこと闇に包まれていたような気がしていたが、実際は一分と満たない短時間のことだった。気分の悪さも、もうない。明るさに目が慣れてから、なんだったのだろうと立ち上がってみる。周りの皆も、拍子抜けしたようにきょろきょろしている。

 けれど、突如として怒号が響いた。


「――父上ッ!」

「何者だ……ッ!?」


 ダグラスとアスールの声だ。はっとして視線を壇上に向け――イリーネは悲鳴をあげかけた。カイも隣で息をのんでいる。

 車椅子に座っていたオーギュストの心臓の真上に、ナイフが突き立てられていた。オーギュストが既に息をしていないのは、遠目にも明らか。


 そんなオーギュストの前に立っていたのは、ひとりの男だった。二十代から三十代、身を隠すつもりが微塵も感じられない、堂々とした立ち姿。豪奢な金髪や白を基調とした衣服は、むしろ非常に目立つ。

 男の手には、オーギュストに突き立てられたナイフと同じものが握られていた。間違いなく、彼が刺客。


 アスールが剣を抜き放ち、じりじりと男との間合いを詰める。男の方も、巧みに位置を変えてアスールの間合いに入らないように動いた。アスールは険しい表情をしているが、男の顔に感情らしいものは何も浮かんでいない。淡々と、碧玉のような瞳でアスールを見つめている。


 先手はアスールが取った。アスールの繰り出す斬撃を、男はひらりと躱す。続く第二撃を、そのナイフで受け止める。さらにはアスールを押し返してしまった。アスールが舌打ちをする。

 今度は男がナイフを片手に飛び込んだ。速い。あっという間に懐に潜り込まれ、下から斬撃が振り上げられる。間一髪でそれを回避したアスールに、容赦なく遅いかかる追撃。よろめいた瞬間、アスールの左袖がばっさり斬り裂かれた。下の皮膚から、僅かに出血が生じる。アスールだからその程度で済んだ、常人ならば間違いなく左腕一本持って行かれていただろう。


「まずい、あの男――強い!」


 ニキータが駆け出し、カイも追いかけた。アスールが圧されるなど、そんなことがあるのか。彼ほど剣技に秀でた剣士は、そうそういないと思っていたのに。


 態勢を立て直したアスールが、初めて後退する。アスールは無謀ではない。一対一が無謀であることを、彼はすぐに悟ったのだ。ニキータとカイが援護に入ってくれるのを見て、無理に攻めることをやめたのだ。


 ――その時、にわかにアスールの足が止まった。止めたのではない、止まってしまった(・・・・・・・・)。驚愕のあまり、アスールは目を見開いた。


「な、なに……っ!?」


 それから少し遅れて、カイとニキータも駆け出していた姿のまま停止してしまう。イリーネたちの身体もまた、金縛りにあったかのように硬直した。手も足も、自分のものではないかのようだ。辛うじて動くのは目と声帯のみ。他のみなもそのようだった。


 満足に動けるのは、刺客の男だけ。彼は悠々と、アスールの目の前まで移動した。動けないアスールはなんとか身体の機能を取り戻そうとするが、効果がない。


『――勇ましいなぁ、アスール。そしてしぶとい。昔の泣き虫とは別人のようだね。思わず声をかけたくなってしまったよ』


 突如、そんな声が響いた。若い男の声だが、壇上にいる男の声ではない。そう思ったのは、その声が遠く離れたイリーネの耳にまで鮮明に届いているからだ。まるで天井から声が降ってきているような――。

 反応したのはアスールとダグラス、そしてカイだった。


「その声、メイナード……ッ! どこにいる、姿を見せろ!」

『そう怒鳴るなよ。ちゃんと聞こえている』

「なぜこんな暴挙に出た。何をするつもりなんだ!?」

『おやおや、音に聞こえた騎士王子とも思えない台詞だね。戦場において手っ取り早く敵を滅するには、指揮官を消すのが一番。君も分かっているだろう?』


 どこからともなく聞こえてくる声は、心底愉快そうに笑っている。無邪気で、悪いことをしているなど少しも思っていない気配――悪質だ。


『それに、むしろ君とダグラスには感謝してもらいたいくらいなんだけどなぁ。優柔不断な父王のせいで、望みもしない王位継承権争いに巻き込まれたんだろう? だから僕が、悩みの種を消してあげたんだよ。もっと喜べばいいのに』


 アスールがぎりっと奥歯を噛む。――怒っていた。こんなに怒るアスールは、初めて見た。


「――貴様ぁッ……!」

『ふふ、無力だねアスール。そんなに僕のことが憎いのに、指一本動かないなんて』


 男が、ゆっくりとアスールの前まで歩み寄る。手の中のナイフは、アスールの血で僅かに赤い。


『僕はこの大陸のすべてを手中に収める。手始めにまず、サレイユから――いまこの場に、この国の幹部たちが揃っているのは好都合。手っ取り早くて助かるよ』


 ナイフがアスールの首元へあてがわれる。アスールは身動き一つ出来ぬまま、眉をしかめた。アスールの名を、ダグラスが叫んだ。


 アスールの首から一筋の血が流れ出た時、男の目の前をナイフが通過した。驚いたように男が後ろへ飛びのく。ナイフはそのまま、壁に突き刺さる。

 はっとしてナイフが飛んできた方向を見やった。議会場の別の扉が開いて、そこにヒトが立っている。あれは――。


「ソレンヌ様……!」


 いつもの豪奢なドレスに身を包み、髪も綺麗に結い上げているソレンヌだったが、その手には無骨なナイフがいくつも握られている。距離があるのに寸分違わずナイフを投げるなど、とんでもない腕前だ。ソレンヌの後ろにはレティシアもいる。


「次は、眉間に行くわよ」


 ソレンヌがナイフを構える。騒ぎを聞きつけて駆けつけてくれたのだ。だが、この部屋は――。


「駄目です母上、逃げて!」


 アスールが叫ぶのも遅い。一歩議会場に入った瞬間、ソレンヌもまた硬直の術に捕らわれてしまったのだ。


「くっ……!?」

『次は眉間――だったかな?』


 男が投擲の構えになる。ナイフを一直線にソレンヌに向けて投じようとしていた。狙うは真正面の、ソレンヌの顔。ソレンヌの表情が苦痛に歪む。

 その瞬間、男の頭に凄まじい勢いで何かがぶつかった。さすがの男も、これには態勢を崩す。床に落ちたのは、凍った水の入ったグラスだった。


 ずっと黙っていたカイの身体が、青白く発光している。彼の足元の床も、一瞬で凍結していく。ニキータがぎょっとした顔で逃れようとするが、残念ながら不可能だった。

 カイは先程から術を破ろうと集中していた。そしてようやく、卓上に置いてあったコップの水を凍らせて操ることに成功したのだ。カイの身体から立ち上る魔力の光が、いっそう強さを増した。


 そこからはあっという間だった。一度成功してしまえば、抜け出すのは簡単。

 カイの硬直が解ける。それと同時にカイは化身し、男へ向けて猛然と駆け出した。男のダメージも相当のものだったのだろう、術は弱くなっていた。時間差でアスールやニキータの硬直も解ける。男がカイの牙を辛うじて躱したところで、アスールの斬撃が襲い掛かる。それもナイフで受け止めると、今度は横からニキータの“黒羽の矢(ヴォルト・アロー)”の一撃が飛来する。


 それでもすべて避け切って、男はカイたちと距離を離す。メイナードが軽く溜息をついた声がした。


『力づくで破るなんて、無茶をするね。少し侮っていたようだ。今日はこれでお暇しよう。オーギュスト陛下を弔う時間も、必要だろうしね』

「どの口が……!」

『焦るなよアスール。またすぐに会える。……すぐに、ね』


 その声に応じて、男の足元に黒い炎が現れた。それに包まれて、男の姿は一瞬で消えてしまう。


 後に残ったのは、憔悴した皆の呻き声や無念の声だけだった。





 剣を鞘に納めたアスールは、しばらくその場に佇んでいた。一度目を閉じたダグラスが、アスールに代わってオーギュストの遺体をその場から運び出させ、兵たちに周囲の警戒に当たるよう命じる。

 化身を解いたカイは、ふらりとよろめいた。傍に歩み寄っていたイリーネが慌てて腕を掴んで引き留める。


「大丈夫ですか……?」

「ああ、うん……さっきの術を破るのに力を使いすぎたみたいだ。じっとしていれば平気」


 カイは力なくそう呟いて、柱に寄りかかる。ニキータも疲れたように息を吐き出す。


「……間違いない、あれはリーゼロッテの城にかけられた闇魔術と同じ力だ」

「ということは、あの男が……」


 クレイザの言葉に、ニキータが頷く。


「――おそらく、奴は【獅子帝(ししてい)フロンツェ】。賞金ランキング第二位、二億四千万ギルの賞金首だ」


 その名に、一同が息を呑む。【獅子帝フロンツェ】――賞金ランキング第一位は詳細不明(アンノウン)だから、実質的には当代最強の化身族。それが、あの男だというのか。メイナードが、それほどの強者を従えていたというのか。


「奴は闇魔術の使い手だったはずだ。でなけりゃ、あれだけ広範囲かつ強力な術を使えるわけがない。“拘束(ホールド)”も“遠隔(リモート)”も、闇魔術だしな」

「でも、あいつ……一言も喋らなかったわよね。まるでメイナード王子の操り人形みたいに」

「おかしいのはそれだけじゃねぇ。どうしてあいつは化身しないで、ナイフ一本で戦っていたんだろうな」


 言われてから、確かにそうだと納得する。化身族は戦いの際、基本的に化身して獣体を取る。化身せずとも戦うことはできるだろうが、力の差は圧倒的だ。獅子ともなればかなり強力だろうに、化身しなかったのか、できなかったのか。

 ――とはいえ、そんなことはいつでも議論できる。いま問題なのは――。


 イリーネはアスールを振り返る。棒のように突っ立っていたアスールは、その時ようやく身動きした。いつも通り静かな表情だ。


「アスール……」

「すまない、イリーネ。大丈夫だよ」


 小さく微笑んだアスールの姿が痛々しい。大丈夫なはずがないのに。目の前で父を殺され、愚弄されたのだ。怪我はたいしたことがなくても、心はずたずただった。

 あんな酷いことをするのが――イリーネの、実の兄だなんて。


「ひとつはっきりしたことがある。メイナードは、敵だ」


 アスールが断言する。


「あいつは『世界を手中に収める』と言った。『敵を滅するにはまず指揮官を消す』とも。つまり、各国首脳を暗殺する気なんだろう。国家元首だけでなく、国を構成する重鎮たちまで残らず。そうすれば国は瓦解する」


 途方もない計画だが、多分実行できるのだ。あの【獅子帝フロンツェ】には。


 それを聞いたローディオン卿が顔面蒼白になる。アスールやソレンヌと本当に血が繋がっているのかと疑いたくなるほど、強面で恰幅の良い老人だ。


「なんたる暴挙……! 王を弑するなど、サレイユへの宣戦布告に他ならぬ! 今すぐにでも軍を編成し、神国に報復措置を取らねばなるまい!」


 怒りはもっともだったが、猛然と反対したのはミュラトール卿である。こちらもダグラスとレティシアと本当に血が繋がっているのか――要するにローディオン卿とそっくり。さすが兄弟だ。


「イーヴァンとの同盟が正式に結ばれるまで待つのだ! サレイユ王国軍だけで神国を相手にできるものか!」

「そんなものを悠長に待っていられるか!」

「頭を冷やせ馬鹿者!」

「たったひとりの兄に向かって『馬鹿』とはなんだ!」

「貴様のことを兄と思ったことは一度もないわ!」

「……さては貴様、メイナード王子を引き入れたのではあるまいな? 議会の時から過ぎた慎重論ばかり口にして、イーヴァンとの協力に反対していたではないか」

「何を言うか! そういう貴様こそ、手引きをしたのではないのか? 陛下の死をも利用して、国を開戦へ傾けようと――」


 激論を交わしはじめた老臣ふたりに、アスールとダグラスが叱責を投げかけようと口を開いたとき、怒号を掻き消すほどの大音量が議会場に響いた。


「――お黙りなさいッ!」


 その一言で、ミュラトール卿もローディオン卿も沈黙した。恐る恐る振り返ると、そこにいたのは鬼の形相のソレンヌである。

 父親であるローディオン卿が、ぽつりと娘の名を呼ぶ。


「そ、ソレンヌ」

「こうして残った者たちの間で意見が割れることもメイナード王子の思惑の内だとなぜ気付かないの、このぼんくらどもがっ」

「ぼ、ぼんくら……」

「みっともない喧嘩は他の場所でやってちょうだい! なんとしてでもサレイユはイーヴァンと同盟を結び、そしてメイナード王子に責任を取らせる! あのボンボンの思う通りになってたまるものですか! そうよね、アスール、ダグラス!?」


 母の剣幕にぽかんとしていたアスールが、耐え切れなかったのか吹き出した。この場でソレンヌの存在は有難かった。悔やむことも嘆くこともそこそこに、今やるべきことをやれと促してくれるこの声が、アスールにも本調子を取り戻させたのだ。


「はい、母上。……予定通り、イーヴァンとの連携の確立を急ぐ。ダグラス、そちらは任せる」

「ああ、分かっている。ファルシェにも身の回りを気にするように連絡するよ」


 頼もしく頷いて、ダグラスは議会場を駆け出していく。若者たちの様子に己を恥じたのか、ミュラトール卿とローディオン卿も口を開く。


「……街の警備を強化するよう、各地の監察官に促しておこう。物資や軍備の提供も要請する」

「軍編成は任せておけ。アスールとダグラスの号令一下、いつでも出撃できるよう整えよう」


 このふたりは、協力するととんでもない結束力を発揮する。何せ行政のトップと軍のトップだ。


 彼らはみな、切り替えが速い。あまりに突然だったからか、オーギュストが死んだということをイリーネは実感できていない。アスールやダグラスもそうなのかもしれないし――それを感じさせないだけかもしれないが。

 優しい、イリーネにも父親のように温かく接してくれたオーギュストだ。もう二度と会えないなんて、実感が――。


 ぽろっと、イリーネの瞳から涙がこぼれた。慌ててイリーネはそれを拭ったが、後から後からこみ上げてくる。止まらない。

 気付いたアスールが、そっとイリーネの目元に溜まった涙を指で拭ってくれる。


「ご、ごめんなさい……アスールのほうが、ずっと辛いのに……」

「……そんなことないよ、イリーネ。親しいヒトが亡くなったら、泣くのが当然だ。私は……どうも涙が出ないようだからな。イリーネが父のために泣いてくれるのなら、父も喜ぶ」


 アスールが優しく微笑んで、イリーネの頭を撫でた。イリーネもなんとか涙を止め、顔をあげる。


「――許さない」

「イリーネ……」

「メイナード王子と【獅子帝】を……絶対に、許さない」


 その決意の言葉を聞いたアスールの表情は、どんなものだったのだろう。俯いたアスールの表情は読み取れない。ただ一度、固く握った拳が震えていた。


 と、窓の外でばさばさと物音がした。クレイザが不思議に思って窓を開けると、黒い影がそこに現れた。それを見てクレイザが目を見開く。


「アーヴィンじゃないか」

「クレイザ様、お久しぶりです――って、なんだか一騒動あったみたいな……」


 エルケから下りて室内に入ったアーヴィンが、室内の異様な雰囲気を察して声をすぼめる。構わずアスールが進み出た。


「わざわざ王宮にまで来るなど、ただごとではないようだな。何があった?」


 殆ど話したことのないアスールに詰め寄られ、アーヴィンはこくこくと素直に頷いた。表情を改め、告げる。


「……南の国境から、ケクラコクマ王国軍が攻めてきた」

「なんだと……!?」


 隣国の侵攻――どうやら、世界はアスールたちを休ませてくれるつもりがないようだった。

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