ピアノがない
ティグリス学士院の寮は、男子と女子の二棟に分かれていて隣り合っている。玄関口を前に、右が男子棟、左が女子棟。中の造りはまったく同じらしく、二つの寮の間には渡り廊下のごとくガラス張りの天井の食堂が挟まっていて、オープンテラスまで付いている。これだけでもかなり立派だけど、寮の中もかなり豪華だ。
玄関を入ってすぐのエントランスには白い大理石が敷き詰められ、わかめっぽいものを胸に巻きつけた等身大よりやや大きめの人魚の像が金メッキされた状態で迎えてくれる。天井にはこれでもかというほど水晶を散りばめたシャンデリアがぶら下がっていて、学院の寮監さん(ふっくらしたおばさん)がすぐ脇の部屋に常時いてくれる。
一階部分は共有スペースと先生方の部屋になっていて、大浴場は学院の背後にそびえ立つ山の中腹から湧いている温泉を引いているらしい。自習スペースと書庫(図書館は別にあるみたい)、それにだだっ広い談話室はまるで高級ホテルのラウンジみたいで、どこもかしこも足元にふわっふわの毛の長い絨毯が敷かれている。
――もうね、これはホテルだわ。ホテル。
わたしの中高時代といえば、狭苦しく小汚い教室で、足のがたついた椅子に座って効きの悪い暖房器具に生徒がみんなしてへばりついていたことを思い出す。ここが夢の中だとしても、こんな豪勢な寮に子供の頃から住むなんて、ちょっと贅沢すぎやしないだろうか。
そこでわたしはハッとした。これだけ立派な高級ホテル並みの寮なのだ。きっと、アレがあるに違いない!
クリスティーヌはわたしに一階の共有スペースを案内してくれている。ちょうど今は、談話室だった。学校の教室二つ分はありそうな談話室には、火の消えた暖炉があり、そこかしこに座り心地のよさそうなソファが幾つも置かれている。
――あれ?
わたしは首を傾げた。ここならあってもよさそうなものだけど・・・・・・。
クリスティーヌはどこのソファが上級生のものかを丁寧に教えてくれているところだった。上級生の座るソファに下級生が座ってはいけないとか何とか。
「ね、クリスティーヌ」
「なぁに、パール?」
説明の声を止めて、クリスティーヌが小首を傾げる。
「あのね、こんなに立派な寮なら、アレがあると思うんだけど、どこにあるの?」
「アレ?」
「うん、アレ」
わたしは両手を前に出して、ピアノを弾く仕草をしてみた。
「これよ」
「これ?」
クリスティーヌが奇妙な動きをするわたしの指を見つめ、眉を寄せる。
わたしはついに口にした。
「だから、ピアノよ。ピアノ!」
だが、クリスティーヌが放った言葉は、わたしの想像の斜め上というか、むしろ常識の壁を粉々に破壊したというか、それぐらいの衝撃をもたらした。
「ぴあのって何?」
「・・・・・・」
絶句したわたしと、純粋なまなざしで首を傾げているお人形のようにかわいい金色の髪の少女が見つめ合う。
「・・・・・・えっ?」
「えっ?」
顔面がこわばって硬直したわたしに、さすがにおかしいと思ったのか、クリスティーヌはぱちぱちと瞬きした。
「だから、ピアノだよ?」
「うん、それは聞いたけど、ぴあのって何?」
「ピアノって何って・・・あれっ? ピアノっていうよね、あの楽器・・・」
思わず混乱するわたしに、クリスティーヌがぱちんと両手を合わせた。
「ああ、楽器のことなのね。でも聞いたことない楽器だけど。パール、記憶をなくしたのに、楽器のことは覚えているの?」
「えっ? うん、覚えている・・・よ? いや、ちょっと待って」
「うん?」
「ピアノはヴァイオリンと同じぐらい有名な楽器だと思うんだけど」
「バイオ? ってなぁに?」
「そ、それも訊き返すの?」
「パール、一体どうしちゃったの?」
う、ううむとわたしは思わず呻いた。
「もしかして、この世界にはピアノもヴァイオリンもないのかな?」
それはかなり恐ろしい。そんな世界、想像したこともない。でもこれってわたしの夢じゃなかったっけ?
――だとしたら、これはわたしの願望?
受験に落ちたショックで、ピアノのない世界を望んだから、そんな夢を見てるってことかな。あり得ないわけじゃないけど、やっぱりあり得ない。だって、ピアノが弾けないわたしに価値がないってことは、わたしが一番知ってるんだもん。
思わず青ざめているわたしの肩に、そっとクリスティーヌが触れてきた。
「パール、やっぱり具合が悪いのね。大丈夫、もう部屋へ行こう」
わたしは半ば茫然としたまま、クリスティーヌに手を引かれて行った。
三階のパールの部屋に入ると、わたしはちょっとだけ気分を切り替えた。もしかしたら、ピアノとかヴァイオリンという名前ではないだけで、似たような楽器があるかもしれない。いや、きっとあるに違いないと思ったからだ。
それについてはまた後でしっかりと聞こう。そう決意して、部屋の中に足を踏み入れる。
パールとクリスティーヌの部屋は、思っていたよりもずっと質素だった。
木製の学習机が二つ並んでいる向かいに、間にサイドテーブルを挟んでベッドが二つ置いてあった。掛け布団もマットも、わたしが使っていたものより厚みが倍くらい上等なものだったけど、天幕がひらひらしているとか、ベッドの枠が金ぴかとか、そういうことはなかった。
戸口を入ってすぐにクローゼットとトイレ(元の世界とそう変わらない水が流れる椅子式)があり、クリスティーヌはまずクローゼットの前で履いていた靴を脱いだ。代わりに取り出したスリッパをわたしにも渡してくる。
「裸足じゃダメ?」
わたしが訊ねると、クリスティーヌは顔をしかめた。
「記憶がないんじゃなかった?」
「どういう意味?」
クリスティーヌは少し口ごもった後、言い難そうに答えた。
「パールはいつもスリッパを嫌がるでしょう。でも今日は記憶がないから履いてくれるかと思ったんだけど。何か思い出したの?」
「ううん」
わたしは首を振った。何も思い出すわけはない。だってわたしはパールじゃないし。でも、パールもスリッパが嫌いだったのなら、わたしと少し気が合うかもしれない。
こんなにふかふかの絨毯が敷いてあるのに、スリッパを履かなきゃならないなんて、絶対に変。それに裸足って言っても靴下は履いている。せっかく靴を脱げたのに、また足をきゅうくつなところに押し込めるなんてイヤだ。
わたしはスリッパをクローゼットの前に放り出して、クリスティーヌが顔をしかめるのも無視して、部屋の奥のガラス戸に近づいて行った。黄色いひよこの柄のカーテンを開けると、ガラス戸の向こうに申し訳程度の狭いベランダが付いていた。そこには出て行かず、ガラス越しに外を眺める。
午後の暖かい陽射しに、青空と鬱蒼とした木々、その林の中をくねくねと曲がりくねって続く一本の道路が見えた。
道路は傾斜した山の中に建つ学院まで続いて、そこで途絶えている。そこからは五つ、いや六つ以上かも、とにかくたくさんのいろいろな形の建物が木立の中に乱立して広がっていた。とんがり屋根のある円柱形の建物や、平屋建ての長方形の建物、ドーム状の屋根がついた建物もある。幾つかは渡り廊下などで繋がっているようだった。
学院と道路のずっと遠方は、谷のようになっていて、底は見えない。その向こうにはまた山々がそびえ、ここはどうやら山地のど真ん中のようだった。
――町って聞いてたけど、山の中にしか見えないなぁ。
ガラス戸に手をついて、わたしはクリスティーヌと歩いて来た校舎沿いの小道を見下ろした。校舎からここまで、思っていたより距離があったようだ。
物珍しくきょろきょろしてたからかな、全然距離感がなかったんだけど。
ここから見る限り、この学院は相当広そうだ。わたしがガラス戸越しに、ふんふんと興奮しきっていると、クリスティーヌがくすくす笑って言った。
「ねぇ、パール。休みに来たんじゃないの? 寝ていなくて大丈夫なの?」
「全然、平気よ」
わたしは部屋の方を振り返って、壁際に据え付けてある大きな姿見を見つけた。そこに今の自分の姿が映っていた。
ようやくガラス戸から離れ、今度は鏡にへばりつく。
「ちょっと、パール、本当に大丈夫?」
「うんうん、大丈夫だからちょっと待って」
どう見てもおかしな行動を取っているのだろう。クリスティーヌは心配そうにしているが、わたしは自分の全身を、それから丸い顔をまじまじと見た。
身長はおそらく140センチもない感じ。髪は黒だけど、ちょっと緑色がかっている気がする。肩につかないぐらいの短めだ。くせっ毛なのか寝癖なのか、毛先がはねている。それから、もちろんというか、見た目通り胸はぺったんこ。太ってもいないし、痩せてもいないけど、ちょっと顔が丸い。ほっぺたなんておもちを引っ付けたみたいに、ぽわんぽわんしている。
自分でほっぺに両手でそっと触れてみると、すべすべつるつるでびっくりした。高校三年生女子とのこの違いよ! ちょっと悲しくなるけど、気を取り直してチェックチェック。
目の色は濃い緑色だけど、ふちが青っぽい。ついでにアーンと口を開けてみた。
「パール、何してるの?」
クリスティーヌが見ているけど、気にしない。
虫歯の一つもなさそうな真っ白な歯が並んでいる。舌の色は健康なピンク。わたしは続いて足元を見た。靴下を履いた足は小さくて、そこからにょっきりと棒切れのように細い脚が短パンの裾まで伸びていた。
わたしは着ている服装にも注目した。胸に五角形を上下逆さにしたエンブレムが付いていた。青い糸で刺繍されているのはドラゴンらしい。着ている水色の制服は厚手の生地で、ものはよさそうだった。とはいっても、生地の種類なんてわからないけど。でも高校のときに着ていた制服とさほど変わらない。ベストの中に着ているのは白いシャツ。これも中高と着ていたものと同じように見える。
服装に関しては、元いた世界と変わり映えしないのかもしれない。
そこでわたしは、はたと思った。
――そういえば、まだ夢から覚めないなぁ。
――ピアノがないなら、もう起きたいんだけど。
――でも、もしかしたら、トラックに撥ねられて瀕死の重傷だから目覚めないのかも。
無理に起きたら痛い思いをするかもしれない、なんて納得して、わたしは夢生活をもうちょっとだけ続けることにする。
ずっと黙ってわたしを見ていたクリスティーヌが服の裾を引っ張ってきた。
「ねぇ、パール、もういいでしょ。そろそろ休んで」
「んん、でもわたし本当に元気なんだよね。眠れないかも」
さっきまで保健室で寝ていたこともあるし、ベッドに横になっても眠れない気がする。わたしがそう告げると、クリスティーヌはやさしく手を取って窓側ではなく、ドア側のベッドに引っ張って行き、座らせてくれた。
「じゃあ眠れるまで、わたしがお話してあげる。カーテンを閉めれば部屋も暗くなるからね」
そういえば、この部屋には電灯というものがない。わたしはベッドに転がってようやく気づいた。横のサイドテーブルに置かれた蝋燭立てに使いかけの蝋燭が残っている。不思議に思ってわたしは訊ねた。
「クリスティーヌ、明かりは蝋燭しかないの?」
「えっ? 明かり?」
クリスティーヌはわたしの身体に薄手の毛布を一枚だけ掛けながら答える。
「ええっと、それも忘れちゃったの?」
「そうみたい」
「そっか。うん。明かりはそこにある蝋燭と、あとはオイルランプがあるのよ。でもオイルランプは高価だから、わたしたちみたいな子供は使わせてもらえないの。でも、ここの大浴場の明かりはオイルランプよ。談話室は暖炉があるし、廊下は壁に燭台が付いているから、怖がらなくてもそれほど暗くないわ」
わたしが暗いのが怖いと思ったようだ。別にそうでもないんだけど。
クリスティーヌはカーテンを閉めに行き、すぐにベッドの横に戻って来る。
「さ、目を閉じて」
「うん」
素直に目を閉じると、クリスティーヌはわたしのベッドの端に腰かけた。
「何のお話がいいかなぁ。思い出すかもしれないから、前に話した精霊の物語とか、悪い魔女のお話がいいかなぁ」
考え込んでいるクリスティーヌにわたしは提案した。
「じゃあ、何か歌を歌って」
「歌?」
「うん、流行りの歌とかさ」
「流行りの歌? 子守唄じゃなく?」
「うん」
「・・・・・・」
クリスティーヌが黙ってしまったので、わたしは目を開けてちらりと彼女を見た。すると、クリスティーヌは眉をひそめて困った顔をしていた。
「騎士様の出立のときの歌なら歌えるけど」
「じゃあ、それでいいよ」
「う、うん」
そこでようやく口を開いたクリスティーヌの喉から出て来たのは、わたしが思ったものとはまったく違うものだった。
「ぐ・・・っ!」
思わずわたしがそう洩らすぐらい、それは低くて平淡で、なんというか、そうアレにそっくり。
――お経!!
お坊さんの姿が閉じた瞼の裏を駆け抜ける。いや、駆け抜けるお坊さんっておかしいな。手に木の棒(名前は知らない)を持って、魚の形の木の彫り物をぽくぽくする、例のアレ。
かわいいクリスティーヌの口からアレが流れている。地の底を這うような声で。わたしは目をかっと見開き、掛かっていた毛布をはねのけて飛び起きた。