観劇の始まり
もし、この世界にママがいたら、わたしの傷だらけの指を見た瞬間、悲鳴をあげるだろう。
ピアノを習っていた間、一応、指先はわたしにとってもママにとっても大事にしなければならない部分だったから。
でも、ここにピアノはない。
そして、ピアノの代わりに、今のわたしはギターを持っている。
だから一所懸命にギターを練習していて、そのせいで指の皮がべろ~んと剥けてしまったのは、仕方がないことなのだ。
クラシックギターには二通りの弾き方がある。
爪で弾く方法と、指の頭で弾く方法だ。
わたしは指の頭で弾いているので、血豆はできるし、皮が破れるし・・・なんだけど、爪で弾くのも結構大変だ。
爪を適度に伸ばして、弾きやすいように手入れし続けなければならないから。
まぁ、爪で弾く方がいい音が出るのは確かなので、ほとんどの演奏者は爪で弾いていると思う。
けど、わたしは爪で弾くのが苦手。
爪で弦を弾いた瞬間、指先に震動が響いてぞわぞわするし、何よりわたしの爪は短すぎる。
ピアノを弾いていたせいで、わたしはいつも爪を短くするクセがついていて、急遽ギターの演奏をするはめになったとき、爪が指先よりも短いくらいだった。
この五日間、一度も爪を切っていないから、そこそこ伸びてきた気はするけど、それでも弦をひっかけて弾くほどではない。
だから、否応なしにわたしは指頭奏法で弾くしかなかった。
それも今日で一段落する。
今日の演奏が終われば、プラムにギターを返すことになるだろうし、宝玉祭の後は中間試験があるらしく、それに向けて勉強しなければならないから。
この世界に来てから、がんばって補習を受けてきたから、大丈夫な科目もある。
けど・・・・・・魔法とドラゴンの騎乗については・・・・・・・・・。
か、考えないようにしよう。今はとにかく今日の演奏がうまくいくことだけを願っていよう。
うんうん、とわたしが大きくうなずいていると、前の席でユキノシタカエルモドキのジュース――カエルっぽい植物の汁――を飲んでいたクリスティーヌが首をかしげた。
わたしはクリスティーヌと朝食を摂ると、並んで寮を出て、校舎へ向かった。
ほとんどの子供たちがぴしっとした制服を着て、楽しそうにおしゃべりしながら坂道を下りて行く。
ウキウキしている子供たちの雰囲気に、わたしもワクワクしてきた。
教室へは行かず、すぐに校舎棟の中央部にあるドーム型の屋根をした大ホールへ向かう。
途中でクリスティーヌは、学院の正門で来客の案内があるからと行ってしまった。
わたしは大ホールに入ったことがなかったけど、その大きな建物のことは知っていたので、一人でも迷わずに着くことができた。
けど、入ってすぐに思わず「うわぁぁぁぁ!!」と声を上げてしまった。
だって、とてつもなく広かったんだもん。
大ホールには下級の一年生から九年生までと、上級の一年生から五年生までが一同に集まることができる広さどころか、規模からすると三千人ぐらいは優に入れる大きさがあった。
正直、学校の体育館ではない。コンサートホールって感じ。
渡り廊下から建物に入ると、まずロビーというにはちょっと狭いけど、玄関ホールがあって、いくつもの二重扉が並んでいた。
その内の一つから入って行くと、湾曲した高い天井がまず目についた。
何百もの白い発光体が天井付近にふわふわ浮いている。
――魔法だよね、あれ・・・・・・。
明かりを灯す魔法があるのは知っているし、授業でも習ったけど、これだけ大量に浮かせているのは初めて見た。
ちなみに、あの十五センチぐらいの白い発光体を一つ出現させて浮かせるだけで、わたしは疲労こんぱい、全力疾走した後みたいにぜぇぜぇ息切れしてしまう。
――そ、それが何百個も・・・・・・。
わたしは目をぱちぱちさせて、辺りを見回した。
すでに何百人もの子供たちが集まって、さざめきあっていた。
席は段々畑みたいな階段上にあって、クラスごとに決められている。
通路ではしゃいでいる子供たちを掻き分け、なんとか自分のクラス席へと向かう。
正面の舞台は黒い緞帳が下がっていたけど、見るからに幅は広いし、奥行もかなりありそうだった。
なんとかクラス席に着くと、すでにルビーとサフィーが座っていて、わたしを見るとくすくす笑った。
「どこかに置いてくればよかったのに」
と、ルビーが呆れ顔で。
「本当に大切にしているのね」
と、サフィーがやさしい笑顔で言う。
わたしが大きなギターケースを持っていたからだ。
わたしはギターケースをぎゅっと抱いて、言い返した。
「時間があったら、練習したいから」
「まだ練習するの?」
「パールはすごいわねぇ」
ルビーだけじゃなく、今度はサフィーも少し呆れている。
わたしは席に座り、前の席との間にギターケースを押し込んだ。
子供体型で足がマッチ棒みたいなおかげで、横倒しにするとなんとか収まった。
隣の席まで侵入して、男の子にぎろっとにらまれてしまったけど・・・・・・。
でも、特に文句は言われなかった。
数分後、天井に浮いていた白い発光体がさらに輝きを増し始めると、舞台の上、黒い緞帳の前に一人のおじいさんが上がって来た。
わたしの科目の担当ではないけど、学院の先生だ。
何度か見かけたことがあった。
サンタクロースみたいに灰色がかった、もふもふの髭が口の周りを覆っている。
「え~~~っ、ゴホン! 静粛に! 静粛に!」
おじいさんが声を出すと、マイクを持っているみたいにホール中に声が響き渡った。
――そういえば、マイクないよね。
この世界でいわゆる拡声器的なものを見たことがない。
でも、おじいさんが髭を上下に揺らしながら、話し始めると、その声はうわんうわんとホールに反響した。
「え~~~っ、今年もこの季節がやって来ました! おい、そこの子! 早く席に座りなさい」
おじいさんが指差した方を、席についた子供たちが一斉に振り返って見る。
わたしも振り返った。
そして、思わずぎょっとして目を見開いた。
わたしの席は結構、前の方だったから、振り返った瞬間、たくさんの人が見えた。
階段席がわたしの後ろにずうっと続いていて、そこに子供たちが、さらにその後ろに大人たちがびっしりと座っていた。
まさしく寿司詰め状態。
おかしなことに、自分が入って来たときより、席数が増えている気がする。
かなり天井に近い場所まで席がせり上がっている。
「ど、どうなってるの?」
わたしが思わず呟くと、隣にいた男の子が言った。
「後ろの方は親とか町の人とか、王都の人たちだろ。いつもは後ろの方の席は床下に入ってるから見えないんだよ」
「へ、へぇ・・・・・・」
教えてくれてありがとうと言おうと、男の子の方を見たわたしは、今度は別の意味で目をひん剥いた。
「ちょ、ちょっとぉぉぉっ!!」
男の子がわたしの横にしたギターケースに足を乗せていたのだ。しかも、土足! 汚い便所に行ったかもしれない靴のままで!
「何してるのよ!!」
わたしが男の子の足をべしっと叩く。
「痛っ! 何すんだ、パール!」
「『何すんだ』はこっちのセリフよ! 楽器を踏まないでよ!」
「だって邪魔なんだよ!」
「だったら口でそう言えばいいじゃない! 楽器を足蹴にするなんて、お天道様が許してもわたしは許さないわよ!」
思わず立ち上がり、わたしは腰に手を当て、男の子を睨みつけた。
ふんぞり返ったわたしに、男の子も立ち上がる。
「言ったって、どうしようもないだろ! 通路に置いたら他のやつらに迷惑だし、大体、おまえがそんなもんを持ってくるのが悪い!」
「そうだけど、ちょっと置かせてくれるぐらいいいでしょ!」
「嫌だ!」
「ケチ!」
「ケチで結構、コケッコーだ!」
ああ言えばこう言うで、わたしと男の子は段々、ヒートアップしてくる。
すると、舞台の方から声が飛んで来た。
「そこのぉ!! 緑のおかっぱと紺のツンツン頭! 何を騒いでいるんだねっ!!」
わたしも男の子も舞台の上のおじいさん先生を見て、それからまた互いを見て、一気に血の気が引いた。
「あ、いや・・・その・・・・・・」
男の子が口ごもり、もじもじし始める。
わたしはわたしで、周囲からすさまじい視線を浴びて、石のように固まった。
「まだ始まってもいないのに、そんなに大騒ぎして! 騒ぐならみんなの迷惑だよ! 出て行きなさい!」
怒られて、男の子はしょんぼりとうな垂れた。
わたしも肩を落として、うつむく。
「ふむ・・・・・・。静かにできるなら、座ってよろしい!」
おじいさん先生がそう言ってくれたので、わたしたちはそろって、神妙な顔で席についた。
舞台の上では今日の観劇についての説明が始まる。
わたしは恥ずかしいやら、みっともないやらで、口をへの字にして黙っていた。
すると、通路側からトントンと誰かがわたしの肩を突いた。
見ると、しゃがんだ姿のジェダイドがいた。
「ジェダイド?」
何してるの? と訊ねる前に、ジェダイドはわたしを追い越して、その隣の男の子に言った。
「おい、ソック。おれが席変わってやるよ」
「えっ?」
ソック、と呼ばれた男の子が顔を上げて通路にいるジェダイドを見る。
「いいのか?」
「ああ。おれの席はこの二つ後ろだ」
「あ、ありがと」
ソックはわたしの前を身を屈めて通り抜け、通路に出ると後ろへ移動していく。
代わりにジェダイドがわたしの隣に座った。
「ったく、しょっぱなから騒ぎを起こすなよな」
ジェダイドが溜め息をつきながら言った。