暗い廊下での出会い2
「聞いてます? パール?」
ミシェルが訊ねてくる。
「あ、ひゃ、ひゃい!」
わたしは思わず舌を噛んでしまった。
「ううう・・・痛ひ・・・」
「どうしたんです?」
「し、舌を噛みまひた」
「しょうがない人ですねぇ」
呆れた声が降ってくる。
「明るいところへ出たら看てあげます。血が出てないといいですけど」
ミシェルは心配そうに言っているけど、わたしはまだ頭の中が「どうしよう!」でいっぱいだった。
だって、そんな質問されると思っていなかったから。
――どこの曲って言われても、別の世界の歌ですよ! なんて言うわけにはいかない。
記憶喪失な上に、妄想癖まであると思われたら最悪だ。
――だからって、わたしが作った歌です! なんて言いたくないし。
そういう嘘はつきたくない。
わたしがパニクって、あたふたしている間に、暗い廊下の終点が見えてきた。
出口の明るい光が大きくなってくる。
「あ、あの!」
わたしはまだお互いの顔があまりよく見えない間に、ごまかしてしまおうとした。
「この歌はですね、人が歌っているのを聞いたことがあって、それで覚えていたんです」
「ああ、やっぱりそうでしたか」
思っていたより、あっさりとミシェルはうなずいた。
「あなたの出身地は港町ですし、そうじゃないかと思っていました。やはり異国の歌なんですね」
「そ、そうなんです! 港町です! 異国の歌です!」
見たこともない出身地のことだけど、話を合わせておく。
「でも不思議ですねぇ」
ミシェルが言い、わたしはまだ何か疑問に思うことがあるのかと、ぎくりとした。
「記憶喪失なのに、そういうことは覚えているものなんですねぇ」
「・・・・・・はぁ、そうみたい、です」
これ以上の質問は心臓が縮み上がるからやめて欲しい。
内心そう思っていたわたしは、ようやく暗がりから下級生の教室棟の端っこに出た。
すでに授業が始まっているのか、一階の端の教室から先生の声が聞こえてくる。
「パール、大丈夫ですか?」
ミシェルが立ち止まり、訊ねてくる。わたしは目をぱちぱちさせた。
「な、何がですか?」
「何がって、舌を噛んだんでしょう?」
「あ、そ、そうですね。もう大丈夫です。全然平気です」
「ならいいですが」
不思議そうにミシェルに見つめられ、わたしは視線をそらした。
まだわたしとミシェルは手を繋いだままだ。
ミシェルがきゅっと握っているので、わたしが力を抜いても手が離れない。
すると、ミシェルが視線を合わせるために、わたしの前にしゃがみ込んだ。さらさらの黒髪にキューティクルな天使の輪ができている。
――ううん、ミシェルさんの髪、つやつやだなぁ。
顔を上げたミシェルの黒い瞳にじっと見つめられる。近くで見ると、女の人みたいに肌がきれいだ。鼻筋もすっと通っていて、まばたきするたびに長い睫がばさばさ上下している。
――この人、もしかしてかなりの美形?
――アイドル顔ってやつかな?
男子の顔なんて、こうもまじまじと見たことがなかったので、思わず見入ってしまう。
わたしが、まったくもって余計なことを考えていると、ミシェルが深刻な顔で言った。
「パール、あなたに話しておきたいことがあるのですが」
「・・・・・・は、はい?」
もはや視線をそらすこともできず、わたしは蛇に睨まれたカエルになる。
「異国の歌をあまり大っぴらに人前で歌うのはやめておいた方がいいと思います」
「どうしてですか?」
驚いたわたしに、ミシェルはちょっと口ごもった。
「・・・・・・そうですね、あなたは記憶がないので、そういったことにも無頓着にならざるをえないのでしょう。少し説明してもよろしいですか?」
「もちろんです」
ミシェルはわたしにこの国のことを説明してくれた。
モルガナイト公国はこれまでの歴史の中で、何度も外海からの侵略者、異国人たちに襲われたことがあり、王族と上流貴族の間には海の向こうの国に対する嫌悪感が根強く残っていて、彼らの文化すら受け入れがたいと思う者がたくさんいるらしい。
わたしの出身地であるシャンペインは辺境の小さな港街なので、異国からの船も受け入れていて、公王も少しの交易ならと目をつぶってくれているけれど、ここは貴族の集まる学校だ。
そんなところで、異国の歌を高らかに歌っていると、上流貴族の子弟の中にはわたしをよく思わない人も出てくるだろう。
ミシェルの話はそんなところだった。
「でも・・・・・・」
わたしはうな垂れた。
言っていることは理解できた。だけど、それを受け入れるのはちょっと難しい。
だって、わたしは知っている。
文化は交流して初めて進化するものだ。
元の世界では、三百年前までクラシックが主流の音楽で、他には民族音楽、その国ごとの流行りの曲が大勢を占めていた。
だけど、今やネットで繋がれた地球では、どこにいても、どの国の音楽でも聴こうと思えば聴くことができる。ブルガリアのきれいな民族音楽を聴いたり、ケルト地方の魔法のように不思議な歌を聴いたり、中国の様々な古楽器を使った演奏を聴くこともできる。
しかも、それによって新たな音楽も生まれている。
クラシックを取り入れた現代音楽。ヘビメタと融合したポップス。三味線で弾かれるロック。
日本に溢れているのは、60年代にアメリカのロックを聴き、電撃を浴びたように痺れた人たちが始めた音楽だ。
小さな世界で、せこせことやっていただけでは、文化はなかなか発展できない。
聞いたことのない物、見たことのない物、それに触れて初めて人類は成長する。
わたしがうな垂れていると、ミシェルが溜め息をついた。
「パール、すみません。ちょっとおこがましいことを言ってしまいましたね」
わたしは慌てて首を振った。
「いえ、ミシェルさんが心配して言ってくれてよかったです。わたし、何も知らなかったので。ただ、ちょっと寂しいなって思います」
「寂しい?」
「はい。この世界には、あまりに音楽がなさすぎるので」
「・・・・・・」
「わたし、もっともっといろんな歌や曲を聞きたいんです。それに、ピアノも・・・・・・」
「ぴあの?」
「い、いえ・・・それは・・・いいんですけど・・・」
わたしはまたうな垂れた。
ピアノを弾かなくなって、もうどれだけ経ったのか、日にちを数えるのは悲しくなるのでやめていた。
わたしの指はどんどん死んでいく。動かなくなっていく。価値がなくなっていく。
――このままじゃ、元の世界に戻っても・・・・・・。
あまりに悲しくて、涙が出そうになった。
そんなわたしの様子を見ていたミシェルが、ポケットから何かを取り出した。
「パール、これをあなたに」
差し出されたものは、手に握り込めるぐらいの白い石だった。いくつか穴が開いている。
「これ・・・・・・オカリナ?」
小さなオカリナに見える。石は空洞になっていて、息を入れるところと、出るところに大きな穴が開いていて、その間にぽつぽつと小さな穴が開いていた。
「おかりな? いえ、これは呼び笛です」
「呼び笛?」
「ドラゴンや大鷲を呼ぶときに使う笛なんですが、音色を奏でることもできるんですよ」
ミシェルは石に口を当てると、ぴゅ~と吹いてみせた。
「簡単な曲だけですから、楽器とは言えないんですが」
口を付けた場所を服の袖口でさっと拭き取り、ミシェルがわたしに差し出してくる。
「受け取ってください」
「え、でも、これはミシェルさんの・・・・・・」
「お願いします。さぁ、受け取って」
呼び笛をわたしの手にぎゅっと握らせてくる。
「あなたに悲しい顔をさせてしまいました。すみません、パール。許してください」
わたしよりミシェルの方が悲しそうな顔をしていた。
「い、いえ・・・あの・・・・・・」
受け取らないわけにはいかなくて、わたしは呼び笛をいただくことにした。
「ありがとうございます、ミシェルさん」
微笑んでそう告げると、ミシェルも笑ってくれた。
「今度それで何か曲を吹いてくれますか?」
「はい!」
元気よく答える。
いつものようにミシェルは、ふふっと笑った。