記憶喪失になりました
あらゆる乗り物という乗り物に乗ったわけではないけど、わたしは断言できる。ドラゴンは乗り物としては最低最悪。快適さなんてものはどこにもなく、正面から吹き付ける風と轟音と、たった一本の手綱とやらでわたしの命は危うく空にかき消えるところだった。二度と乗りたくない。
気持ち悪さマックスの状態で、わたしはようやく地上らしき場所に降りたドラゴンから転げ落ちた。降りたというより、まさに転げ落ち、半分気を失いつつあった意識は、頭をごちんと打って完全に途絶えた。
「つまりなんだ、おまえはパール・ブラックストーンが飛行中のステラから落下し、それを探していたから授業に遅れ、昼の掃除にも間に合わなかったとそう言うんだな」
不機嫌そうな低い男の声が聞こえた。
わたしはまた寝転がっているようだ。身体はふわふわ、ぽかぽか、リラックスできる環境にある。
すると、聞き覚えのある子供の声がした。
「はい、そうです。ブラックストーンがステラの上で身を乗り出して、あっという間に落ちたんです。おれのせいじゃありません。それに、見つけたときはピンピンしてました。どこも痛がらなかったし、まぁ、ちょっと言ってることがおかしいかなとは思いましたが」
「なるほど」
男の人が納得したように呟いている。
それに続いて今度は女の人の声が聞こえた。
「ねぇ、ゴーヤン先生、とにかく今はブラックストーンさんが起きないことにはどうしようもありませんから、カルサイトくんには午後の授業に出てもらって、先生も次の授業へ行かれては? 目が覚めたらわたしが彼女の具合を診て、必要なら病院へ連れて行きますから」
「いえ、マカロニティ先生のお手をわずらわせるわけにはいきません。ブラックストーンはわたしの生徒です。それにわたしの授業中のことですから」
「そうですか?」
女性は申し出をきっぱり断わられて困惑げだ。
わたしは目を閉じたまま、現状について考えてみた。
多分、ここには男の先生と女の先生らしき二人と、さっき一緒にドラゴンに乗った少年との三人がいるようだ。
そして、何度か名前が出たブラックストーンというのが、このわたしのことらしい。
わたしは心の中でうーむと唸った。だって、頭を打ったのに、まだこの変な夢から覚めていないのだ。あれだけの衝撃があれば、目が覚めてもおかしくないのに。
うーむ、うーむ、とわたしは眠ったふりを続けながら考える。
頭を打ってもダメなら、つねってみるとか? 衝撃の度合いでいうと、そっちの方が軽そうだけど。
その瞬間、わたしの右腕に激痛が走った。
「痛~~いッ!!」
毛布をはねのけ、わたしは飛び起きた。
「なんだ、やっぱり嘘寝じゃねぇか」
少年が横からわたしを見下ろし、陰険そうな顔でにやりと笑った。わたしの腕をつねったのだ。
なんてヤツ! 大キライ!
わたしは思わず頬を膨らませた。それからなんだかそれが子供じみた仕草だと気づいて、ぷいっとそっぽを向くだけにする。
そういえばずっと疑問に思っていたことがあったのだ。ドラゴンの手綱を握ったときから気になっていた。
わたしは恐る恐る自分の手元を見下ろした。ぷにぷにしたものが目に映った。
やわらかそうな肉のついた手の甲、細くて白い指。それ以上にわたしが目を瞠ったのは、指が短かったことだ。短すぎる!
「うわぁぁぁあぁぁぁぁッ!!」
わたしはベッドの上に立ち上がった。
隣に立っていた少年と、二人の先生が驚いて目を丸くする。
「こんな指じゃオクターブに届かないじゃないの!」
ピアノの鍵盤のドから次の高音のドまでがオクターブだ。大人の指なら次の高音のミまで届く人も多い。でも、この短いマッチ棒みたいな指じゃ、オクターブに届かない。つまり、弾けない曲が出てくるということだ。ピアノでは幅のある音を一度に鳴らすことが要求される。
驚愕し、フリーズしたわたしに、三人の冷ややかな視線が注がれていた。
何を言ってるんだ、こいつは、という視線だ。
だけど、わたしにとっては夢の中でもこれはひどいと言わざるを得ない状況だった。
――悪夢だわ。これは紛うことなく悪夢だったんだ!
わたしは自分の頬を両手の平でべしべしと叩いた。
「お、おい、パール!?」
「ブラックストーンさん?」
「どうしたんだ、ブラックストーン、何をしている!?」
三人が呆気にとられているのを無視して、わたしは目を覚まそうと、自分の頬をべしべしと叩き続ける。
――早く目を覚まさないと。
そのとき、わたしは忘れていた重大なことをようやく思い出した。
――ママ・・・・・・。ママに電話しないと。
そこから芋づる式にズルズルと、今までのことが思い出された。
あんなにがんばったのに、意気込んで合格者の発表を観に行って撃沈して、その後。その後?
わたしは頬を叩く手を止め、茫然とその場に立ち尽くした。
「あれ? わたし、トラックが見えて・・・・・・」
ぶるっと大きく身体が震えた。全身に衝撃が走り、舗道に植えられたポプラの枝と空が見え、そこから先の記憶がない。
「わたし、もしかして・・・・・・病院にいるの?」
そこで死んだという認識に至らなかったのは、多分、こうしてまだ生きている感覚があるからだ。
「意識不明とか、重体になってるとか?」
それで長い夢を見ているのだろうか、とわたしは考えた。だとしたら、今無理やり起きなくても、そのうち目が覚めて元の世界に戻れるんじゃないかな。楽観的かもしれないけど、そう思うのが一番いい気がする。
わたしはまだベッドの上に仁王立ちになっていた。それを三人の怪訝そうな目が見つめている。
「ええっと、わたしは・・・・・・」
今までの彼らの話を思い出し、わたしは三人に向かって言った。
「わたしはパール・ブラックストーンなのね」
だが、三人の視線はさらに険しくなった。
「ゴーヤン先生」と少年。
「これはまずいかもしれませんね」と女の先生。
そして、苦虫を噛み潰したような顔を一度も崩していない不機嫌そうな男の先生が言った。
「ブラックストーン、どうやらよほど強く頭を打ったらしいな」
その後、わたしは保健の先生だというマカロニティ先生に頭のこぶを診察してもらい、自分のことを話すように言われ、友達の名前どころか、親のことまですっかり忘れてしまっていることになってしまった。
――最初から知らないから、忘れたわけじゃないんだけどな。
でも他に説明しようもないので、わたしは夢の中だけど、とりあえず周りに合わせておくことにした。
つまり、これから先のわたしは、今までの名前ではなく、パール・ブラッドストーンという女の子としてしばらくの間(だと思う)暮らすことになったのだった。




