第2話 聖騎士様は、毒の味をご存じない
聖女になって二日目。
私は、毒の種類を数えていた。
「聖女様。お茶をお持ちしました」
扉の向こうから聞こえた声に、私は手元の小瓶を隠した。
毒物の調合は、暗殺者として最初に覚えた技術のひとつだ。匂いも味もないものから、舌先に触れただけで痺れが走るものまで、種類はさまざま。
ちなみに、いま手元にあるのは三番目の小瓶。
少量なら腹痛を起こす程度だが、量を間違えれば呼吸が止まる。
もちろん、聖女の部屋に置いておくものではない。
「どうぞ」
扉が開き、クラウスが銀の盆を持って入ってきた。
相変わらず、足音がしない。
「お加減はいかがですか」
「おかげさまで。昨日はよく眠れました」
嘘だ。
昨夜は、教皇の私室に入るための経路を考えていた。寝たのは夜明け前だ。
「それは何よりです。朝食も召し上がっていないと聞きましたので、温かいお茶を用意しました」
「ありがとうございます」
盆の上には、白磁のティーカップと小さな焼き菓子が並んでいた。
私はカップに目を落とす。
香りは普通。色も問題ない。
ただし、カップの縁に、ごくわずかな油膜が浮いていた。
(……毒?)
私は何気ない顔でクラウスを見た。
彼はいつもの眠たげな目で、こちらを見返している。
「どうかなさいましたか」
「いえ。とてもおいしそうですね」
「毒見は済ませてあります」
「まあ。騎士様が?」
「はい」
彼は当然のように答えた。
私はカップを持ち上げた。
毒見をしたということは、彼はすでに同じ茶を飲んでいる。
それでも、油膜は消えていない。
(なるほど。毒ではないのかしら)
私は一口だけ口に含んだ。
苦味の奥に、かすかな甘み。
舌の上に残る違和感。
これは毒ではない。
薬草だ。しかも、神経を落ち着かせる効果のあるもの。
ただし、配合を間違えれば眠気が強くなる。
「いかがですか」
「ええ。とてもおいしいです」
「それはよかった」
クラウスは満足そうにうなずいた。
私はカップを置いた。
「ところで、クラウス様」
「はい」
「このお茶は、どなたが用意されたのですか?」
「厨房の者です」
「そうですか」
「何か問題でも?」
「いいえ。ただ、少し珍しい香りがしたものですから」
彼は一瞬だけ目を細めた。
「聖女様は、薬草にお詳しいのですね」
「神に仕える者ですから。病に苦しむ方々のために、少しだけ勉強しました」
「なるほど」
彼はそれ以上、何も聞かなかった。
私も、それ以上は聞かなかった。
お互いに笑顔だった。
ただし、私はもう一つのことに気づいていた。
クラウスの右手。
人差し指の先に、ごく薄い赤みがある。
毒見をしたというのは、おそらく本当だ。
しかし、彼が飲んだのは私と同じ茶ではない。
(……面白い人)
私は焼き菓子をひとつ手に取った。
昼過ぎ、私は教皇の謁見に呼ばれた。
大聖堂の最奥にある謁見の間は、壁一面に金箔が施され、天井には神の降臨を描いた巨大な絵画が飾られていた。
中央の玉座には、白い法衣をまとった老人が座っている。
教皇グレゴリオ。
この国の宗教と政治を掌握する男だ。
そして、九十日後に私が殺す相手。
「おお、聖女ミリアム。よく来てくれた」
「お目にかかれて光栄です、教皇猊下」
私は深く頭を下げた。
教皇は穏やかな笑みを浮かべている。
一見すれば、慈悲深い老人だ。
しかし、目が笑っていない。
「長旅で疲れているだろう。ここでの暮らしには、もう慣れたかね」
「皆様によくしていただいております」
「それはよかった」
教皇は手を組み、私をじっと見つめた。
「ところで、聖女よ。君にはひとつ、頼みたいことがある」
来た。
私は微笑みを崩さず、静かにうなずいた。
「何なりとお申しつけください」
「九十日後、聖誕祭がある。その日、君には特別な祈りを捧げてもらいたい」
「特別な祈り、でございますか?」
「そうだ。神の御心を民に示す、大切な儀式だ」
教皇の隣に立つ司祭が、一歩前に出た。
「聖女様には、聖遺物に触れていただきます」
聖遺物。
私は内心で眉をひそめた。
「聖遺物とは、どのようなものでしょうか」
「初代聖女が残したとされる、神聖な品です。聖女様以外が触れることは許されません」
「まあ……」
私は感心したように目を伏せた。
だが、頭の中では別のことを考えていた。
聖女以外が触れられない。
つまり、教皇の私室と同じように、限られた人間しか近づけない場所にあるということだ。
「その儀式は、どこで行われるのでしょうか」
「地下聖堂だ」
教皇が答えた。
「聖誕祭まで、君にはそこで祈りを捧げてもらうことになる」
地下聖堂。
地上の大聖堂とは違い、外部の者が立ち入ることのできない場所だ。
教皇の私室へ近づくための手がかりになるかもしれない。
「謹んで、お受けいたします」
「期待しているよ、聖女ミリアム」
教皇が微笑んだ。
その瞬間、私は彼の右手に目を留めた。
薬指に、黒い指輪がはめられている。
宝石はない。装飾もない。
ただ、指輪の内側に小さな刻印があった。
三本の線が交差した、見覚えのある紋章。
(……共和国の暗殺組織の印?)
いや、違う。
あれは、私が所属していた組織のものではない。
だが、似ている。
教皇が敵国と通じているのか。それとも、別の何かがあるのか。
考えを巡らせていると、教皇が再び口を開いた。
「そうそう。聖女よ」
「はい」
「君の護衛は、クラウスだったね」
「はい。大変よくしていただいております」
「彼は忠実な男だ。どうか、信頼してやってほしい」
私は笑顔のまま、頭を下げた。
「もちろんでございます」
教皇も笑った。
その笑顔が、なぜかひどく不気味に見えた。
謁見の間を出ると、廊下の柱の陰にクラウスが立っていた。
「お疲れさまでした」
「ありがとうございます。教皇猊下は、とてもお優しい方ですね」
「そうですね」
彼は淡々と答えた。
「……クラウス様は、教皇猊下を信頼していらっしゃるのですか?」
「私の任務は、聖女様をお守りすることです」
「答えになっていませんね」
「失礼しました」
彼は少しも悪びれずに頭を下げた。
私は小さく笑った。
「では、ひとつお願いがあります」
「何でしょう」
「地下聖堂を見学したいのです。聖誕祭の儀式について、少しでも理解しておきたくて」
クラウスの目が、ほんのわずかに動いた。
「地下聖堂は、関係者以外立ち入り禁止です」
「私は聖女です」
「承知しております」
「それなら、問題ないのでは?」
「聖女様だからこそ、です」
彼は静かに言った。
「地下聖堂には、聖誕祭まで触れてはならないものがございます」
私は微笑んだ。
「それは、聖遺物のことでしょうか」
「ご存じでしたか」
「先ほど教皇猊下から伺いました」
「そうでしたね」
会話が途切れる。
彼は私を見つめていた。
その目は、昨日と同じく眠たげで、感情が読み取れない。
けれど、私は気づいていた。
彼が地下聖堂の話題を出した瞬間、右手の指がわずかに動いたことに。
剣の柄に触れる直前の動き。
(あそこに、何かある)
私は確信した。
「分かりました。無理を言って申し訳ありません」
「お気になさらず」
私は一礼して、彼の横を通り過ぎた。
そのとき、彼の胸当てから小さな鳴き声がした。
「にゃあ」
私は足を止めた。
「……クラウス様」
「はい」
「猫は、まだお連れなのですね」
「ええ」
「聖堂に動物を連れ込んでもよろしいのですか?」
「規則にはありません」
「そうですか」
「規則にないことは、してもよいということです」
私は思わず笑った。
「ずいぶん都合のよい解釈ですね」
「騎士には柔軟性も必要です」
彼は真顔だった。
私は肩を震わせた。
この男、本当に何なのだろう。
その夜。
私は自室の窓辺に立ち、月明かりの下で昼間の出来事を思い返していた。
教皇の黒い指輪。
地下聖堂。
そして、クラウスの反応。
すべてがつながっている気がする。
私は机の引き出しから、小さな紙片を取り出した。
そこには、祖国から渡された暗号が書かれている。
『聖女の祈りが届く場所に、裏切り者がいる』
意味は分からない。
ただ、教皇の指輪を見たとき、私はその言葉を思い出した。
裏切り者。
それは教皇なのか。
それとも、この国の誰か。
あるいは、私の任務を監視している者なのか。
考え込んでいると、扉が三度叩かれた。
「聖女様。クラウスです」
私は紙片を隠した。
「どうぞ」
扉が開き、クラウスが入ってくる。
その手には、小さな皿があった。
「夜食をお持ちしました」
「まあ。ありがとうございます」
皿の上には、焼き菓子が二つ。
そのうち一つに、見覚えのある小さな傷がついていた。
私は目を細めた。
「クラウス様」
「はい」
「これは、毒見を済ませたものですか?」
「もちろんです」
「そうですか」
私は焼き菓子をひとつ手に取った。
そして、彼の目の前で口に運ぶ。
甘い。
普通の焼き菓子だ。
「おいしいですね」
「それはよかった」
彼は微笑んだ。
私はもう一つの菓子を見た。
傷のついた方。
その表面に、ほんのわずかに白い粉が付着している。
毒ではない。
眠り薬だ。
(……なるほど)
私は菓子を皿に戻した。
「クラウス様。ひとつ、お聞きしてもよろしいですか?」
「何でしょう」
「あなたは、私を守ってくださるのですよね?」
「はい。私の命に代えても」
「それなら、どうして私を眠らせようとなさるのですか?」
沈黙。
クラウスは皿を見下ろした。
それから、何事もなかったかのように口を開いた。
「……お気づきでしたか」
「聖女ですから」
「なるほど」
彼は小さく息を吐いた。
「実は、夜中にうなされていると聞きまして。少しでも休んでいただこうと」
「眠り薬を?」
「薬草です。適量なら、よく眠れます」
「量を間違えれば?」
「眠りすぎることもあります」
私は笑顔を浮かべた。
「それは困りますね」
「ええ。困ります」
しばらく、二人の間に沈黙が落ちた。
やがて、クラウスが皿を下げようとした。
そのとき、胸当ての隙間から灰色の子猫が顔を出した。
子猫は皿の上に飛び乗り、眠り薬のついた焼き菓子をかじった。
「こら」
クラウスが慌てて子猫を抱き上げる。
私は目を見開いた。
「クラウス様! その子に食べさせてはいけません!」
「大丈夫です。少量ですから」
「ですが、薬草は猫には――」
言いかけて、私は口を閉じた。
クラウスもまた、私を見ていた。
薬草の種類を知らなければ、猫に危険だとは分からない。
私は、しまったと思った。
彼は子猫の口元についた菓子の欠片を拭き取り、静かに言った。
「……聖女様は、薬草にお詳しいのですね」
「ええ。少しだけ」
「少しだけ、ですか」
「少しだけです」
彼は子猫を胸当てに戻した。
「それは、心強い」
その声には、ほんの少しだけ笑いが混じっていた。
私は笑顔を崩さなかった。
「お役に立てて何よりです」
彼は一礼し、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
私は大きく息を吐いた。
(危なかった……)
そして、ふと思う。
あの男は、私が眠り薬に気づくことを想定していたのではないか。
もしそうなら、あの焼き菓子は罠だった。
私がどの程度、薬に詳しいのかを確かめるための。
つまり、彼は私を試していた。
……面白い。
私は机の上に残った焼き菓子を見つめた。
次は、こちらから試してみよう。
【クラウス】
部屋を出た俺は、廊下の窓辺で足を止めた。
「……危なかった」
猫が胸当ての中で鳴く。
今日の眠り薬は、彼女を眠らせるためのものではない。
彼女がどの程度、薬物に精通しているのかを確かめるためのものだった。
結果は、予想以上。
毒と薬の区別がつくだけではない。猫に有害な薬草まで知っている。
彼女は間違いなく、訓練を受けた人間だ。
しかも、俺が仕掛けた罠に気づいたうえで、こちらの反応を探っていた。
(面倒な女だ)
俺は胸当てから猫を取り出し、頭を撫でた。
「お前は、ああいう女に近づくなよ」
猫は俺の指に頬をこすりつけた。
そのとき、廊下の奥から足音がした。
振り返ると、司祭が一人、こちらへ歩いてくる。
「クラウス卿。教皇猊下がお呼びです」
「今からですか」
「ええ。至急とのことです」
俺は猫を胸当てに戻し、うなずいた。
教皇の執務室に入ると、机の上に一枚の書状が置かれていた。
見慣れた黒い封蝋。
教皇はそれを指先で押さえながら、静かに告げた。
「聖女の様子はどうだね」
「問題ありません」
「本当に?」
「はい」
教皇はしばらく俺を見つめていた。
やがて、書状をこちらへ滑らせる。
「彼女の正体が分かった」
俺は表情を変えなかった。
「……どのような人物でしょうか」
「共和国の暗殺者だ」
胸の奥で、何かが小さく動いた。
やはり、そうか。
「聖誕祭まで、彼女を泳がせておけ」
「承知しました」
「ただし、ひとつ追加の命令がある」
教皇の指が、黒い封蝋をなぞる。
「彼女が地下聖堂に近づいた場合、ただちに殺せ」
俺は一礼した。
「かしこまりました」
教皇の執務室を出たあと、俺は廊下の窓から大聖堂を見下ろした。
聖女は、いまごろ何を考えているだろう。
教皇を殺す機会を探しているのか。
それとも、俺の正体を暴こうとしているのか。
どちらにしても、地下聖堂には近づけられない。
あそこにあるものを、彼女に見られるわけにはいかない。
胸当ての中で、子猫が小さく鳴いた。
「……分かっている」
俺は誰にともなくつぶやいた。
九十日後、彼女を殺す。
それまで、彼女を守る。
そして、もし彼女が地下聖堂の秘密に触れたなら――。
俺は窓の外に目を向けた。
「そのときは、俺が先に殺されるかもしれないな」
その言葉を聞いた者は、誰もいなかった。




