第1話 聖女の祈りは、たいてい急所に入る
聖女のお仕事で、いちばんつらいのは祈りの長さだと思う。
大聖堂の床は大理石で、ひざまずいて三十分もすると足の感覚がなくなる。私は人の殺し方なら山ほど習ったけれど、ひざまずき続ける方法は習っていない。
「ミリアム様。民がお待ちです」
扉の向こうから声がかかった。
私は白い法衣の裾を整え、鏡の前で微笑みを作る。口角を少し上げて、目元を柔らかく。慈愛に満ちた聖女の顔。何度練習しても、笑顔というものは難しい。
ミリアム。
今日から、それが私の名前だった。
本物のミリアムは、いまごろ祖国の安全な屋敷で、お菓子でも食べているだろう。誘拐ではない。保護だ。本人も納得してくれた。たぶん。
私の本当の仕事は、九十日後の聖誕祭までに、この国の教皇を暗殺すること。
教皇が聖戦を宣言すれば、私の祖国は地図から消える。孤児だった私に毎朝焼きたてのパンをくれた、おかみさんの店も。その隣の花屋も。何も知らずに暮らしている人たちも。
だから、教皇を殺す。
教皇の私室に一人で入ることが許されるのは、聖女だけだ。
そのために私は、聖女になった。
「失礼いたします」
扉を開けると、護衛の聖騎士が立っていた。
クラウス・ヴェルナー。昨日から私についた護衛で、背が高く、眠たげな目をしている。無駄な動きがなく、口数も少ない。騎士というより、夜の森に潜む獣を思わせる男だった。
何より気になるのは、鎧を着ているのに足音がしないことだ。
(……同業者?)
そう考えた瞬間、彼が胸当ての内側に手を入れた。
武器を抜くのかと思い、私は反射的に重心をわずかに後ろへ移す。
しかし、彼の手から出てきたのは、灰色の子猫だった。
「すみません。聖堂は冷えるので」
「……いつから、そこに?」
「朝からです」
子猫は彼の腕の中で小さくあくびをした。
私は危うく笑いそうになり、咳払いでごまかした。
こんな人が暗殺者のはずがない。きっと、ただの動物好きな騎士だ。
……そう思うことにした。
「聖女様?」
「いえ。とても、素敵な心がけだと思いまして」
「ありがとうございます」
彼は真顔で答えた。
その顔があまりにも真面目だったので、私はますます笑いそうになった。
大聖堂には、千人を超える信徒が集まっていた。
今日の仕事は、聖女として初めての「祈りの奇跡」。杖をついた老婆の手を取り、神に祈る。あとは、あらかじめ用意された聖水を少し振りかければいい。
簡単な演出だ。
そう聞いていた。
「偽りの聖女め!」
人波の中から、男が飛び出した。
手には短剣。血走った目。右足を引きずりながら、一直線にこちらへ向かってくる。
悲鳴が上がった。
誰かが杖を落とす。信徒たちが一斉に後ずさり、祭壇の前にいた老婆がよろめいた。
(ああ、なるほど)
私は男の足元を見た。
右足の運びが不自然だ。踏み込みが浅く、肩が先に動いている。刃物の扱いにも慣れていない。
(素人ね)
短剣が迫る。
私は半歩だけ横へずれ、男の手首を取った。刃の向きを外側へ流し、ひねる。乾いた音とともに短剣が床へ落ちた。
男が体勢を崩す。
その首筋に、祈るように組んだ両手をそっと添えた。
「……神よ。この者の憎しみを、お鎮めください」
指先に力を込める。
男は一瞬だけ目を見開き、そのまま膝から崩れ落ちた。
静寂。
誰もが、何が起きたのか分からずにいた。
やがて、誰かが叫んだ。
「奇跡だ!」
「聖女様が、祈りだけで暴漢を!」
拍手が広がり、やがて大聖堂全体を包み込む。
私は微笑んだ。
今のは急所です、とは言えない。
「神のご加護が、皆様とともにありますように」
できるだけ穏やかな声で告げると、信徒たちは感動したように胸の前で手を組んだ。
そのとき、杖の老婆が私の手を握った。
「怖かったねえ、聖女様」
しわだらけの手は、思いのほか温かかった。
「手が、こんなに冷たい」
私は返事ができなかった。
人に手を握られたのは、いつ以来だろう。
暗殺の訓練では、手を差し伸べることより、相手の息の根を止めることを教えられた。温かさを知る必要などないと、ずっと思っていた。
「大丈夫ですよ」
そう答えると、老婆は安心したように笑った。
その背後で、衛兵たちが男を運び出していく。
私は何気なく、その足元を見た。
右膝の裏に、髪の毛ほど細い針が刺さっている。
さっきまではなかったはずだ。
男が踏み込む直前、誰かが仕込んだのだろう。
私は衛兵とすれ違う際、男の膝裏から針を抜き、袖の中に隠した。
顔を上げる。
五歩先で、クラウスが両手を後ろに組んで立っていた。
目が合う。
彼は小さく会釈をした。
何も見ていませんよ、とでも言いたげな顔だった。
(……見ていたわね)
私は微笑み返した。
控えの間に戻ると、クラウスが扉の脇に立っていた。
「お怪我はありませんか」
「ええ。おかげさまで」
「それは何よりです」
彼は私の手元に視線を落とした。
「ところで、聖女様」
「はい?」
「針を一本、探しているのですが」
袖の中にある針が、急に重くなった気がした。
「……針、ですか?」
「ええ。刺繍用のものです。聖衣のほつれを直すのが趣味でして」
「騎士様が、刺繍を?」
「母の影響です」
彼は少しも表情を変えずに答えた。
私は袖から針を取り出した。
「祭壇の下に落ちていましたよ」
「これは助かりました」
彼は真顔で針を受け取り、鎧の隙間にしまった。
……刺繍針を、そんなところにしまう人がいるだろうか。
そもそも、膝の裏に刺さるような刺繍針があるものか。
聞きたいことは山ほどあった。
けれど、聞けばこちらも聞き返される。
私は聖女らしい微笑みを浮かべた。
「素敵なご趣味ですね」
「ありがとうございます。聖女様も、先ほどは見事な祈りでした」
「毎朝、練習していますので」
「毎朝ですか」
「毎朝です」
彼は一度だけうなずいた。
納得したのか、疑っているのか。眠たげな目からは読み取れなかった。
「それにしても、あの男の動きをよく見ていらっしゃいましたね」
「神様が、危険を教えてくださったのでしょう」
「なるほど。神のご加護というわけですか」
「そうです」
「便利なものですね」
「ええ、とても」
お互いに笑顔を浮かべた。
しばらくして、彼は一礼して部屋を出ていった。
私は扉が閉まるのを見届けてから、小さく息を吐いた。
あの針がなければ、男の踏み込みはもっと速かったはずだ。おそらく、私の法衣くらいは切り裂かれていた。
つまり、彼は私を助けた。
偶然ではない。あの位置に針を打ち込むには、相手の動きを正確に読む必要がある。
しかも、私が針を拾ったことにも気づいていた。
(……やっぱり、ただの騎士じゃない)
借りがひとつできてしまった。
借りは返す主義だ。
たとえ相手が、刺繍が趣味だと言い張る怪しい騎士でも。
【クラウス】
その夜、俺は報告書に「聖女に異常なし」と書いた。
嘘だ。
聖騎士クラウス・ヴェルナーなどという男は、どこにもいない。
俺は教皇直属の暗殺者だ。
命じられた任務は、聖女の監視。そして九十日後の聖誕祭で彼女を殺し、その死を敵国の仕業に見せかけること。
聖戦の、大義名分にするために。
教皇にとって、聖女は都合のいい道具にすぎない。彼女が死ねば、敵国が神聖な儀式を妨害したと宣言できる。
そのために、彼女は生かされている。
少なくとも、九十日後までは。
今日、男の膝裏に針を打ったのは、任務のためだ。
九十日後に殺す相手を、今日殺されては困る。
それだけのことだ。
……それにしても。
俺は机の上に置いた報告書から目を離し、昼間の光景を思い返した。
彼女の手首の返し。
刃を避ける足運び。
相手の力を利用して、最小限の動きで意識を奪う技術。
あれは、祈りの練習で身につくものではない。
(ただの聖女ではないな)
むしろ、俺と同じ側の人間だ。
刺繍の言い訳は、我ながらひどかった。母の影響などと言ったが、俺には母親の記憶すらない。
あの女は、俺の嘘に気づいただろうか。
気づいているだろうな。
胸当ての内側で、灰色の子猫が小さく鳴いた。
今日、聖堂の裏で拾った猫だ。暗殺者にだって、子猫を放っておけない日くらいある。
俺は猫を抱き上げ、頭をひと撫でした。
「お前はいいな。誰にも疑われなくて」
子猫は答える代わりに、俺の指を甘噛みした。
九十日後、俺は彼女を殺す。
それは変わらない。
ただ、その前にひとつ聞きたいことができた。
あの手首の返しを、誰に習ったのか。
そして、彼女は何のために聖女になったのか。
……できれば、その答えを聞くまでは、死なないでいてほしい。
そう思ったことは、報告書には書かなかった。




