『境界線の溶ける夜』
フロアの空気が二つに割れたのは、合併に伴う大規模オフィス移転からわずか三週間後のことだった。
旧・東和光学の出身者は窓際の「島」に固まり、旧・サンライズ通信の連中は給湯室に近い通路側に陣取っている。名札のストラップは全社員に支給された無機質なコーポレートグレーのはずなのに、東和の人間は自然と東和同士でランチに行き、サンライズの面々はコーヒーブレイクのたびに自販機の前に集まった。
プロジェクトマネージャーの相良は、東和の生え抜きだった。几帳面な仕様書の作成、根回しを重んじる段取り、沈黙を共有できる阿吽の呼吸。それが彼の「当たり前」だった。
「相良さん、サンライズ側の提出資料、またフォーマットが違いますよ」
隣の席の同僚・村瀬が、眉をひそめて画面を指差した。
見ると、サンライズ出身の若手ディレクター・神保が送ってきた進捗報告書は、要点だけを箇条書きにした極端にシンプルなものだった。添付されたスライドも、東和の標準テンプレートをまるっきり無視して作られている。
「……あいつらはいつもこれだ。自分勝手というか、組織の規律というものが抜けているな」
相良は吐き捨てるように呟いた。
一方で、同じ東和出身の若手が同様にフォント指定を間違えたときは、「まあ、昨晩遅くまで頑張っていたからな」と笑って自分で直していたことに、相良自身は気づいていなかった。
自分たちの仲間がミスをすれば「過密スケジュールのせい(外的要因)」にし、向こうの人間が同じことをすれば「根本的な資質やマナーの欠如(内的要因)」と断定する。無意識のうちに作られた境界線は、日が経つにつれて分厚いコンクリートの壁のようになっていた。
ある日の夕方、基幹システムの移行テストで致命的な通信障害が発生した。
リリース予定日は翌々日。フロアに甲高い警告音が響き、全員の動きが止まる。
「どっちのエラーだ?」
誰かが言ったその一言が、疑心暗鬼の火種になった。
東和の島からは「サンライズ側のAPI連携が甘かったんじゃないか」という囁きが漏れ、サンライズの島からは「東和側のデータベース仕様が古臭すぎるんだ」と露骨な舌打ちが返ってくる。
責任の所在を押し付け合う視線が交錯し、誰も端末のログを深く追おうとしない。「向こうのミスである証拠」を探すことばかりに意識が向いていた。
そのとき、サンライズ側の神保が立ち上がり、足早に相良のデスクへやってきた。手にはタブレットが握られている。
「相良さん、いがみ合ってる場合じゃないです。ログ見ました。うちのAPIのタイムアウト設定と、東和のバッチ処理のインターバルがミリ秒単位で競合してます。どっちが悪いとかじゃなく、設計思想が噛み合ってないだけです」
神保は息を切らしながら、画面を見せた。そこには、サンライズ側が東和のコードを精査し、自社のプログラムとどう繋ぐべきかを必死に書き込んだメモがびっしりと並んでいた。
相良は息を呑んだ。
神保が雑で規律がないと思っていたのは、単に「スピードを最優先して課題を共有する」という相手側の文化を知ろうとしなかっただけだった。神保は東和を敵と見なすどころか、同じゴールを目指すパートナーとして必死に走っていたのだ。
「……すまない、神保君」
相良は低く呟き、自席の背もたれから上着を引っ張り出した。
「村瀬、うちのサーバーログ全部解放しろ。サンライズのエンジニアに共有する。神保君、君の席に東和のインフラ担当を集めてくれ。今夜中にパッチを当てる」
「了解です!」
神保の声に呼応するように、フロアの淀んだ空気が一気に動き出した。
二つの島からエンジニアたちが駆け寄り、ホワイトボードを囲んで議論を始める。東和の慎重なリスク検証と、サンライズの機動的なトラブルシューティングが、初めてパズルのピースのように噛み合った。
深夜二時、すべてのテストケースが緑色に点灯した。
誰もが疲れ果て、しかし誰もが笑っていた。
相良は給湯室で淹れた紙コップのコーヒーを神保に手渡した。
「助かったよ」
「いえ。相良さんたちのデータ整合性チェックがなかったら、見切り発車で明日もっと大炎上してました」
神保は屈託なく笑った。
ふと見渡すと、フロアの境目はすっかり消え、誰が東和で誰がサンライズかもわからないほど、互いの肩を叩き合っていた。
自分たちを囲っていた壁は、最初から会社の違いなどではなく、自分たちの頭の中に引いただけの臆病な線引きにすぎなかったのだと、相良は冷めかけたコーヒーを啜りながら静かに思った。




