第17話 行き先は、同じ方向でしょ?
その日、テシヲは少しだけ帰りが遅くなった。
定時を過ぎての会議と、終わらない確認作業。
資料の提出を終えたころには、ビルのフロアもまばらになっていた。
いつもなら電車で帰るのだけど、今日は駅までの道がやけに面倒に感じて——
なんとなく、会社前のバス停に向かった。
*
並ぶ人はほとんどいなかった。
スマホを見ながら、次の便の時刻を確認していたとき。
「……あら」
聞き慣れた声がして、顔を上げた。
そこに立っていたのは、御影先輩だった。
「先輩?」
「あなたも、バス?」
「はい、今日は……ちょっと、歩くのしんどくて」
御影先輩は、ふうん、と短く返して、それ以上は何も言わなかった。
沈黙が少し続く。
やがて、バスが静かに停車した。
「……乗りましょ」
御影先輩が先にステップを上がり、俺もそのあとに続いた。
空いていたのは、二人掛けの席がひとつ。
御影先輩は、ためらうことなくそこに座った。
俺は、一瞬だけ迷って——
その隣に、静かに腰を下ろした。
*
車内は、想像以上に静かだった。
エンジンの振動と、タイヤがアスファルトを擦る音だけが、ゆるやかに耳に届く。
二人とも、何も話さなかった。
スマホを見るわけでもなく、外の景色を眺めるわけでもなく。
ただ、隣同士で座っていた。
肘が、ほんの少しだけ触れていた。
御影先輩は何も言わなかったけど、その距離を詰めるでも離すでもなく、そのままだった。
*
心臓の音が、やけに大きく感じる。
ふと、御影先輩のほうを見ると、彼女もまた真っ直ぐ前を向いていた。
無表情。でも、どこか考え事をしているような顔。
——たぶん、俺のことなんて気にしてない。
そう思った瞬間だった。
「……バスって、久しぶりかも」
小さな声だった。
問いかけではなく、ただの独り言。
「そうなんですね」
そう返したきり、また沈黙が戻ってきた。
*
静かだった。
あまりにも静かで、かえって言葉を選びたくなくなるほど。
隣に座るテシヲさんの存在も、肘が触れていることも、全部わかっていた。
でも、それを意識した途端に、壊れてしまいそうな気がして。
だから私は、何も言わなかった。
ただ、心の中で呟いた。
(……こういうの、悪くない)
言葉にはしなかったけど、たしかにそう思った。
*
やがて、車内アナウンスが次の停留所を告げた。
俺は、思わず口を開いた。
「……あ、俺、次で降ります」
御影先輩が、少しだけこちらを見た。
「……私もよ」
「え?」
「だから、言ったじゃない。“同じ方向”だって」
そう言って、彼女はほんの少しだけ微笑んだ。
それは、ふだんのツンとした表情とは少し違う、柔らかいものだった。
*
バスが停まり、二人並んで降りる。
外の風が肌に冷たくて、思わずパーカーの裾を引っ張った。
「……寒い」
「また貸しましょうか?」
「いい。……今日は、大丈夫」
歩くペースが自然と揃う。
言葉はなかったけど、しばらくそのまま並んで歩いた。
駅までの道。
交差点の信号。
コンビニの明かり。
すべてが、妙に静かで、妙に心地よかった。
*
(こういう日も、あるのね)
御影の心の中で、そんな言葉がふわりと浮かんだ。
理由なんてなくていい。
言葉なんてなくていい。
隣に誰かがいるだけで、少しだけ安心できる日が——
たまには、あってもいいと思った。
*
本当は、駅まで歩いて電車に乗るつもりだった。
でも、今日はなんとなくその気になれなかった。
人の多いホームで待つのも、混雑した車内で揺られるのも。
……少しだけ、疲れていたのかもしれない。
だから、目に入ったバス停に、ふらりと足が向いた。
偶然だった。
そこに、テシヲさんがいたのは。
でも——ほんの少し、ホッとしてしまった自分がいたことも、否定はできなかった。
*
降車後、駅へ向かう道。
歩道は狭くて、自然と肩が並んだ。
御影先輩の手が、ふとコートのポケットから出てきて、風に揺れた。
俺は、その手の動きに目を奪われた。
ほんの数秒、手と手の距離が縮まる。
触れそうで、触れない。
踏み込めば届くかもしれないけれど——その一歩を踏み出すには、まだ何かが足りなかった。
でも、たしかに感じた。
彼女が、俺と同じ速さで歩いてくれていることを。
*
改札の前で、二人は立ち止まった。
「……じゃあ、また明日」
「はい。気をつけて帰ってください」
御影先輩は小さくうなずいて、振り返らずに改札を抜けていった。
その後ろ姿を、しばらく見つめていた。
駅の雑踏に紛れていくその背中が、不思議と遠く感じなかったのは——
たぶん、“行き先が同じ方向”だから、なのかもしれない。