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第73話 災厄の古代神話(3)

「遥か昔、我らヨナシュ人の先祖はファラオの奴隷であった」


 松明の火が揺らめく、薄暗い地下室。神ザフィエルの姿を(かたど)った巨大な竜神像の前で、ヒゼキヤ派のラビの長老ヒゼキヤ・ベン・アハブは自分たちの民族の歴史を厳かに語り始めた。


「神ザフィエルはそんな我らの先祖を苦難から救い出し、この聖地エスティムへと導いて下さったのだ。初めファラオは奴隷の解放を許そうとはしなかったが、神は奇跡によって四つの災厄を起こして傲慢なファラオを屈服させ、ヨナシュ人たちが無慈悲なジェプラーの圧政から逃れられるようにされた」


 ザフィエル教の聖典にも記された、脱出(エクソダス)の伝承。神ザフィエルに導かれ、ファラオが支配するジェプラー帝国の領土から逃れたヨナシュ人たちはやがてエストの平原地帯へと辿り着き、そこに都市を建設して自分たちの国を築いた。それが聖地エスティムの起源である。


「導師アヒトフェルよ、神がジェプラーに起こした災いの第一は何であったか、存じておろう」


 ヒゼキヤに名指しで問われた若いラビの一人は、大柄な体を揺すって野太い声で即答した。


「ザフィエル教徒ならば当然のこと。四つの災厄の一番目は、奇跡によって川の水を血に変えたことであります」


「よろしい。ではそれと同じ奇跡を、今度はおぬしが神の力を借りて起こしてみよ」


 満足げにうなずいて見せたヒゼキヤにそう命じられると、アヒトフェル・ベン・マラキは一礼して立ち上がり、魔力を高めて呪文を詠唱した。


変身(ゼノキオン)


 アヒトフェルの体内から沸き上がった魔力の光が凝固し、全身を隙間なく覆い尽くす重厚な鎧となって装着される。その外観は血のように濁った赤色をしており、胴体から伸びた八つの長い脚と、丸い口が前方に突き出た不気味な仮面は海に生息する(たこ)を想起させる。


「アレクジェリア大陸のロギエル教徒どもは、蛸を悪魔の化身と呼んで恐れておるそうな……。だがポリュプスゼノクよ、おぬしは悪魔などではない。我が民族の守護神ザフィエルの使者として、この聖地を異教の崇拝で汚染する者どもに天罰を下すのじゃ」


「心得ました!」


「魔王の仔レオナルドがまた邪魔立てをしに現れるであろうが、こちらには女王蜂の巫女がおる。命の限り戦わせ、存分に消耗させたところでおぬしが討ち取れ」


 ラビの権威に楯突いたスザンナも今や自分たちの手に落ち、都合良く使い潰せる強力な兵器となっている。彼女の援護を確約された大蛸の魔人ポリュプスゼノクは闘志を燃やし、不気味な奇声を響かせながら地上へと出撃していった。




「スザンナさん……どこに行ったんだ」


 配下のマムルーク兵たちも動員して必死にスザンナを探したラシードだったが手がかりは掴めず、捜索は翌日に持ち越されることになった。深夜、城に戻って仮眠を取ったものの落ち着かず、朝早くに目が覚めてしまったラシードはまた馬の背に飛び乗って一人で薄暗い城下へと繰り出す。


「レオ様……またあのスザンナさんって人にご執心なのね」


 エスティムの十一番街の外れの狭い路地裏に、身を潜めていたメリッサは目の前の小路をラシードが馬で通り過ぎるのを見送って憔悴気味に溜息をつく。サディクが変身したルプスゼノクの攻撃を受けて川に転落した彼女はそのまま潜水して姿を晦まし、川の流れに乗って一気に下流まで泳いで難を逃れていた。


「それにしても、私としたことが不覚だったわ。あんな奴の挑発なんかでムキになるなんて」


 ラシードのことで心を乱され、怒りに任せて何としても目の前の敵を倒そうと必死になりかけてしまったメリッサだったが、あそこでサディクを相手に死闘を繰り広げるのは本来の目的から逸脱した無意味な行為であり、あんな所で命を懸けて戦うのは賢明とは言えない。咄嗟に敵の攻撃の爆風を利用してわざと大きく吹っ飛び、その場から逃亡するという冷静な判断が下せた自分を褒めてやりたい気分にはなりつつも、メリッサはこの先に垂れ込めている暗雲に顔をしかめた。


「でもまずいことになったわね……。とうとうアラジニア軍に見つかっちゃったか。早く何とかしないと、レオ様にもご迷惑をかけてしまう」


 神聖ロギエル軍の斥候と密かに繰り返し接触していたことが発覚したとなれば、ラシードも敵軍への内通を疑われて無事では済まされないだろう。実際にはラシードとは会った回数の割にはろくに話ができておらず、まだ具体的に何かを持ちかけるような段階まで交渉を進められてはいないのだが、そのような言い訳は彼が罪を逃れられる理由になるはずもない。


「とにかく、まずはレオ様にもう一度会って今度こそご自分の出生をお伝えすること。その上で、生まれ故郷のリオルディアへお戻り下さるようにお願いしてみる。戦の中での寝返りという形で強引にこちらへ転がり込んでいただくことになるか、それともアラジニア側と交渉して穏便に帰国を認められる格好になるかは状況次第ね」


 これからすべき事柄を頭の中で順に点呼して再確認するメリッサだったが、大きな不安を残す不確定要素が一つある。ラシードという人物が一体何者なのかについては彼女も全てを知っているわけではなく、どうやらリオルディア国王の落胤だという以外にもっと不穏で途轍もない真実が隠されているようだということである。


「知らないまま死なせてやるのが慈悲というものだ……って、あのバジリスクの魔人は言ってたわよね」


 以前戦ったバジリスクゼノクの言葉を思い出して、メリッサはこれから自分がしようとしていることがラシードに大きな苦しみを与えるものになってしまうのではないかという懸念に駆られて躊躇する。確かに、人生には知らないままでいた方が幸せだったという残酷な真実もあり得るのだろうが、ラシードならそのような場合、目を背けて虚構の中で安らかに過ごすことを望むだろうか。それともどんな痛みに耐えてでも、敢えて本物の現実を直視しようとするだろうか。


「まあどちらにしても、それはもう少し後のことだわ」


 まずは謎の解明よりも、既に自分が知っている範囲の情報をラシードに伝えることが第一段階である。サディクとの戦闘による疲労と痛みが残る体に喝を入れ、メリッサはラシードの後を追って行動を開始しようとしたが、その時ふと、恐るべき重大で根本的な疑問が彼女の脳裏を()ぎったのである。


「レオ様は国王陛下の私生児……そもそも、私が父上から聞かされていたこの話は本当なの?」

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