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21. 一人でも

 しびれるような熱が、唇を伝った。

 ぬるりと入った唇に、身を引く間もなく頭を抱えられて、脳が沸騰した。上あごをシオンの舌先がくすぐると、自分のものではないような、甘ったるい息が漏れて、泣きたくなった。


「さよならだ、ミツキ」


 次の瞬間、強い風が吹いた気がした。



21. 



「――え?」


 ひんやりとしたものが、頬に当たった。目を開くと、夜に差し掛かった空が、オレンジから紺色へグラデーションを描いている。一定間隔で机が並ぶ薄暗い部屋は、見慣れた景色。


「きょうしつ……?」


 美月はゆっくりと体を起こした。どうやら机に突っ伏して眠っていたらしい。風邪を引いたときのように、体がだるくて頭が上手く働かない。まだ冷たい頬に触れて、息を吐く。熱っぽい息が出て、不思議に思った。頭が痛い。


 どうしてここにいるんだろう。だって、さっきまで私はーー。


「……シオン」


 突然頭がクリアになった。

 美月は弾かれたように立ち上がって、窓へ走った。窓ガラスに手をつく。冷たい。透明なガラス一枚挟んだ向こうには、見慣れたグランドとその向こうに広がる住宅街。街灯が照らす道を、学校帰りの生徒や、仕事帰りのサラリーマンが歩いていく。

 美しい庭園も、護衛の衛兵も、厳しい家庭教師の姿も、大好きなあの人の姿もどこにもない。


「……え、」


 おかしい。どうして。そんな急に。なんで。

 美月は震える手で窓を開けた。冬の香りを乗せた風と街のざわめきが、一気に教室に流れ込んでくる。


「……ゆ、め」


 ぽろりと言葉を落とした。言葉にすると力が抜けて、窓枠に手をかけたままその場にへたり込む。

時計を見れば、時間は七時を過ぎた頃だった。そういえば、みんなでカラオケに行く話をしていた気がする。その前に、きっと眠ってしまったんだ。

 信じられないほど、長い夢を見ていた。

 まるで夢じゃないみたいだった。体にはまだ、さっきの熱がこもっている。魔法がどうとか言われて、聖女だとか、聖騎士だとか、ファンタジーすぎる世界だった。自分にもそんな趣味があったなんで驚きだ。


「え、星崎?」


 突然声をかけられて、美月はゆるゆると振り返った。

 教室の後ろのドアから、今年大学を出たばかりだという若い男の担任が、なぜか真っ青な顔でこちらを見ている。


「し」

「……し?」

「死ぬな、星崎ー!」

「は?」


 担任は持っていたファイルを落とし、全力でこちらへ駆けてきた。

 肩を掴まれ、すごい勢いで体を前後に揺すられる。


「お前、あんまり思いつめるなよ! 死んだらどうにもならないだろうが!」

「え、え?」

「生きてればどうにだってなるだろ!」

「せ、先生」

「そんなんになる前に相談しろよ! お前には友達も家族も、俺だっているじゃないかーっ!」


 吐く。このままだと本当に吐く。

 ぐわんぐわん揺れる視界に、襲い来る吐き気。美月は申し訳ないと思いつつ、鼻水を垂らして泣く担任の顔を思いっきり引っぱたいた。「ぶへっ」と情けない声を上げて、担任はようやく止まる。


「自殺しようとしてたんじゃありません」


 息も絶え絶えにそう言うと、担任は叩かれた頬を抑えながら「へ?」と目を丸くした。


「そ、そうか」

「はい」

「そうかぁ……」

「そうですよ」

「よかった」


 担任は心の底からほっとした様子で、天を仰いだ。


「お前、最近ずっと思いつめた表情だったから、てっきり……お前の親御さんからも少し様子を見ててくれって言われてて……いやぁ、よかった。安心した」


 頭を殴られたような気分だった。

 美月はずっと、「たくさんの人の期待を裏切った自分なんか」と思っていた。けれどそれを悟られたくなくて、笑顔でごまかしてきたつもりだった。けど、結局のところ、ばれていたんだ。大の大人にこんな表情をさせてしまうくらい。


『ミツキさぁ、それってくせ?』

『笑ってごまかせると思うの?』


 ふと、懐かしい声を思い出した。

 春の陽だまりのような魔力を持つ人。


「で、こんなところで座り込んで、どうした? 体調悪いのか。山田たちとカラオケ行くとか騒いでなかったか?」

「いえ……」


 差しだされた担任の腕を掴んで立ち上がる。窓に映った自分は、半分夢の中にいるように、どこか自分じゃないみたいな顔をしている気がした。


「す、すみません。寝過ごして、ちょっとびっくりしただけです」

「なんだそりゃ。とにかく、下校時間とっくに過ぎてるぞ。早く帰れよ。なんなら、親御さんに電話してやるけど……」

「いえ……ほんとに、だいじょうぶ、です」


 担任はまだどこか納得がいかないようだったが、それでもそれ以上言う気はないようだった。美月がもう一度「大丈夫です」と、先ほどよりもしっかりした口調で言うと、支えていた背中の手を離した。


「分かった。気を付けて帰れよ」

「はい。すみません」

「……ほんとに大丈夫なんだな」

「……大丈夫ですよ。本当です。先生、さようなら。また明日」


 机の横にかけてあったカバンを取って、教室を出て階段を降りる。下駄箱に行って、スニーカーに履き替える。半年前に一目惚れしてからずっと履いている、ソールが厚めのスポーツブランドのスニーカーだ。履きやすさが気に入っていたはずなのに、履くと違和感があった。

 校門を抜け、帰り道を進む。一番最初の曲がり角にある個人商店に置かれた自動販売機で、紙パックのレモンティーを買った。一本70円。貧乏学生に優しい値段設定で、よく買っていた。飲むと、なんだか不思議な味に感じた。


 美月はゆっくりと、家路を進む。


 どこからかカレーライスの匂いが漂い、張本さんの家の犬は今日もよく吠える。紙パックの中に残ったレモンティーを勢いよく吸い込んで、空のパックを畳んで小さくする。そこを曲がったところのコンビニに捨てると、いつもいる疲れ切った顔の店長が長いレジ待ちの列をさばいていた。部活帰りの男子高校生たちが、コンビニで買ったおでんを片手に、公園のベンチで大声で笑っている。


 冬の香りを乗せた風が、頬を撫でた。

 途端に、視界がぐにゃりとゆがんで、立ち止まる。


 美月は鞄の紐を両手で強く握りしめて、息を吐いた。俯くと、コンクリートの地面に濃い灰色のシミができる。


「……シオン」


 それ以上言うと、止まらなくなりそうで、下唇を強く嚙んだ。声を押し殺した分だけ、たくさん涙が出た。


 なにが夢だったのか、なにが本当だったのか、今はもうよくわからなくなっていた。あまりに突然のことで頭の理解が追い付かない。時計はあの日の夕方から2時間進んだだけだ。今までローゼリア王国で過ごした日々は全て、自分の作り上げた幻想だったのだろうか。

 あのシオンに対する焼けつくような気持ちも、すべてが。


「……あ」


 その時、胸元で何かが揺れたのに気が付いた。

 鞄を地面に落とし、咄嗟に首から下がったそれを引き抜く。紫の石のペンダントトップが揺れた。


「……ゆめじゃ、ない」



 聖女様がいらっしゃいません。

 身支度に行ったメイドから聞いたリオルトは、部屋のドアを勢いよく開けた。ベッド脇でシャツに袖を通していたシオンが、「あ、リオルト様、おはよ」となんでもないような顔で言う。

 リオルトは大きな歩幅でシオンに近づくと、脳天に渾身のグーを振り下ろした。


「こ、ん、の、馬鹿弟子が!」

「いだっ」


 シオンは頭を抑え、そのままベッドに倒れこんだ。鼻息荒くそれを見下ろし、リオルトは額を抑えた。


「……案の定ですよ……まったく」


 そう言えば、「……ごめん」と消えかかった声が弱々しく投げ返される。


「……送り帰したんですね」

「……ん」


 目元を抑えたままベッドから起き上がらないシオンを見て、リオルトはゆっくりとその隣に腰かけた。しばらく部屋に入らないようにと伝えると、メイド達は部屋から出て行った。部屋に沈黙が満ちる。


「空間移転ですか」

「すみません」

「禁術ですよ」

「知ってます」

「……もう、私たちの力でこちらに呼び戻すことはできませんよ」


 リオルトは確認するようにシオンを見た。目元を抑えていた腕を広げ、ベッドに大の字になったシオンは「承知しています」と天井を見たままぽつりと言った。

 そうですか、と返すと、シオンはゆっくりと体を起こす。片方だけ立てた膝に頭を預けると、


「ごめんなさい」


 ともう一度、情けのない謝罪がリオルトに投げた。


「謝るくらいなら、最初からしければいいんですよ」

「……うん」

「どうするんですか、これから」

「ミツキから力は貰ってますから、しばらくはそれでなんとかします」

「……最後までしたんですか?」

「……理性の勝利ですよ。褒めてください」

「そんなものは捨ててしまえばよかったのに」


 リオルトはきれいな顔をゆがませて、吐き捨てた。その言葉にシオンが苦い笑みを返す。


「昨日空間移転をしたなら、受け取った分はほとんど使ってしまったでしょう」

「ええ。あれってあんなに魔力を使うんですね。ちょっと死ぬかと」

「だから禁術なんですよ」

「ミツキを送り返した余韻に浸って泣こうかと思ってましたけど、そんな間もなく気絶してましたよ」


 気が付いたら朝でびっくり、と付け加えてシオンはようやく顔を上げた。


 昨晩、全部分かった上でそうした。

 書庫に忍び込み、禁術とされている空間移転の方法を調べた、過去に一度だけ、異世界から召喚した聖女が死ぬ間際に帰りたいと望み、当時の聖騎士によって生み出された方法。成功は最初のそれだけ。後は誰もこの国からは帰れなかったという。

 口づけて、彼女の魔力を限界まで受け取った。口を離した時、泣きそうな顔で頬を染めるミツキを見て、揺らがなかったと言えば嘘になる。このまま抱いてしまえと、自分の中の凶暴な感情が頭をもたげそうになるのを必死に押し込んで、別れを告げた。

 別れは一瞬。瞬きの間に彼女はいなくなっていた。


「はぁ……あなたにありとあらゆる魔力に関するありとあらゆることを叩き込んだことを、今、心底後悔しています」

「師匠がいいからですね」


 軽口がかえってきたことにどこか安心しながら、リオルトは出来が良すぎた弟子を見遣る。

 

「聖女がいない今、あなたの中に残されたミツキの魔力が途絶えた時点で、あなたは聖騎士の任を解かれますよ」

「分かってます」

「聖騎士として最短の記録です。おめでとう」


 皮肉がたっぷり込められた言葉に、シオンはからからと笑った。

 なんだかバカバカしくなって、リオルトは立ち上がる。そして、軽口を叩きつつも、その表情に疲れがにじむシオンに手を伸ばした。


「……後悔、していませんね?」

「……もちろん」


 シオンはリオルトの手を取った。そのまま引き上げられて、ベッドから起き上がる。足元はまだふらついたが、大丈夫、立っていられる。


 後悔はない。それはシオンの素直な気持ちだ。

 ヴィッツを聖騎士としたい人間は、多くいた。ルーゼンロードの家の人間がその地位に居続けたことで利を得た人間は少なくないのだ。「どうしてお前が」という怒りにも似た視線を、わずか一日足らずでどれほど受けただろう。

 これは茨の道だ。

 こんな場所に、ミツキを居させるわけにはいかない。生まれた場所で、家族と暮らすのが一番いい。


「……あなたがその任を降りる日まで、私が背中を押しますよ」


 まっすぐに目を見たまま言われ、シオンは少しだけ泣きそうになった。


「どうも」


 と、返した言葉は震えていた。そっけなくて短い言葉になってしまったけれど、これ以上言ったら本当に泣いてしまう。慌ててシャツを羽織り、上着を着る。リオルトの顔が見られない。


「さあ、朝食にしましょう。そして、国王に謁見を。いろいろと今後のことについて話さなければいけません」

「ええ」

「忙しくなりますね」

「がんばりますよ」


 大丈夫。前へ進める。


『私はあなたの味方だから! 最後まで、側にいるから!』


 その言葉が、いつも胸にあるから。


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