17. 罠
「こちらへ」
会場から少し離れた場所にある窓には、薄いレースのカーテンがかかっている。薄暗い外に人影が見えた。給仕の男性が人一人分だけ通れる分だけカーテンを開ける。「ありがとう」と短く礼を言ってから、そこをくぐり外へ出ると、ひんやりとした空気が肩に当たって鳥肌が立った。
月明りに照らされて、細かな細工の施されたバルコニーの手すりに、誰かがもたれかかっている。
17.
「リオルトさん?」
バルコニーに出ると、後ろで窓が締まった音がした。続いて鳴った、がちゃりという不穏な音に、美月は振り返った。恐る恐る取っ手を引くが、がっちりと閉まって動かない。
やっぱり、鍵をかけられた。最悪の予想が頭によぎる。
「こんばんは」
聞こえた声は、その最悪の予想を肯定するものだった。
振り返った先にいたのは、シャンパングラス片手に微笑むヴィッツだ。
「……こんなに簡単には罠に嵌ってくれるとは思わなかったですよ。聖女様はもう少し警戒心を持った方がいいですね」
やられた。
美月は数分前の決断を心の底から後悔した。過去に戻れるなら引きずり倒してでも止めるのに。
後ずさり、扉を引くがやはり動かない。あまり大事にはしたくないが、大声で叫べば誰か……
「大声は出さないください」
ヴィッツは美月の行動を読むように言った。とどめを刺すように「シオンの孤児院がどうなってもいいんですか?」と言われて、大声で助けを呼ぶという選択肢は消え失せる。
美月が表情を曇らせると、ヴィッツは押し殺した笑いを漏らした。
「そんなところにいては話もできません。こちらへどうぞ」
自分の隣を叩かれて、美月は恐る恐る足を進めた。とりあえずここは従っておくのが得策だろう。
渋い表情の美月が自らの隣にやってくると、ヴィッツは満足そうに顔をゆがませた。
「リングルード領の酒です。いかがですか?」
グラスを差しだされても、美月はヴィッツを睨んだまま何も言わなかった。ヴィッツは「恐いですね」と心にもないことを言ってみせる。
「なかなか希少な酒なんですよ。リングルードの領主とは昔から親交がありましてね、毎年こうして送っていただけるんです。今年のものは特に酸味と苦みのバランスがよくて」
「……私と、世間話をするつもりでここに呼んだんですか?」
美月は唸るように言った。「そうじゃないでしょう?」
ヴィッツは酒を一口飲んでから「もちろん」と笑った。
「……いよいよ明日は聖騎士選定の儀です」
ヴィッツはグラスを持ったまま、上半身を手すりに預けた。
「それが終わった翌日には、聖騎士へ聖女の祝福を送る儀式が行われます」
「……だから?」
「だから、あなたがしっかりと聖女として使いものになるのか知りたいんですよ。例え、それが私のせいだったとしても」
美月は腹が立った。と、同時に呆れた。先ほど自分の能力はしっかりと見せた。今更何をと反論しかかったところで、一つ言葉が引っかかる。
「私の、せい?」
「そうです」
「どういう、」
「私があなたの召喚を邪魔したんですよ」
あっさりとしたその言葉を受け入れられず、中途半端に開いた美月の口から、「は」と笑い声にも似た音が漏れた。
「あなたが、じゃました?」
「ええ。一応、邪魔するつもりはなかったんですが。まあ、結果的に」
からからと笑って、一切の悪意もなくそう言ったヴィッツに美月はどういう反応をしていいのか分からなかった。
どういう意図があってそれを私に告げるのか、どういう意図があってシオンが負けることを告げたのか、なにも分からないのだ。この男が、なにを考えているのか分からない。
「……あなた、なに考えてるの」
自分の心はこれほど乱されているというのに、ヴィッツは眉一つ動かさない。人のよさそうな笑みをただ張り付けているだけ。
「別になにも」
「なにもって……」
「もちろん、多少の後悔はしていますよ。面倒くさいことをしてしまったと。ですが、そのおかげで、今私はとても楽しいんです」
ヴィッツは美月を見た。笑みを浮かべた口元に反して、目はちっとも笑ってなんていない。
「懐かない動物を手懐けるのも、また一興ですから」
反吐が出るほど、嫌な男だ。美月は「最低」と視線を逸らした。
この男との話に、きっとゴールはない。無意味に時間を過ごすだけだ。いつまでもここにいるわけにはいかない。早くシオンに会いに行かなければいけない。なんとかして会場に戻らなければ。
「勘違いしないでください聖女様、私は聖女の力を疑っているわけではないんですよ」
ヴィッツは白々しくそう言った。美月が睨んだのも、ヴィッツにとっては大した意味はないようだ。それどころか、楽しそうに目を細めるだけだ。「ですが、」
「将来、俺の妻になる人間が、出来損ないでは世間体が悪いだろ」
ヴィッツは手すりに肘をついたまま、すっと手を上げた。そして一人の人間を指さす。それは、薄暗闇の庭園に溶けるようにして立つ、衛兵だった。こちらに背を向けて立つ彼は、姿勢よく周囲を警戒している。
美月は、その横顔に見覚えがあった。城の中では何度かすれ違ったことがあったはずだ。
「彼はロニー。生真面目で退屈な男さ。そして、聖女付きメイドのリリーの恋人でもある」
いま、なぜヴィッツがそんな話をするのか、美月には理解できなかった。
困惑する美月に、ヴィッツは穏やかな口調で語りかけた。
「彼が死んだら、リリーは泣くだろうな」
「……え?」
「きみが、死なせないようにしてやらないと」
ヴィッツはまるで指揮者のように指を振って、「燃えろ」と呟いた。指が宙に円を描いたところに、丸い火の玉が浮く。大きさはバスケットボールほどだろうか。美月はその熱さに腕で顔を覆ったが、ヴィッツは涼しい顔だ。
「当たったら、死ぬだろうな」
他人事のように言って、ヴィッツは指を軽く振った。その途端、炎が宙を走っていく。ロニーめがけて真っすぐに。
なぜそうするのか、分かる。でも、どうしてそんなことをしようと思えるのかは分からない。この男は、私を試したいがために、他の人間の命を平気で危険にさらしているのだ。
驚きと憎悪が入り混じった美月の目を見て、ヴィッツは笑った。
「さあ、早く。彼が死んでもいいのか?」
腸が煮えくり返りそうだったが、今はこの男を怒鳴ったり殴るような時ではない。美月は咄嗟にその火に向かって手を伸ばした。
いつも練習でしているときのように、ゆっくりと手に意識を集中して、そのマナを感じる時間はない。でも、やるしかないのだ。
「――っ、消えて!」
大きく深呼吸をして、その言葉を吐き出す。次の瞬間には、掌から力が根こそぎ持っていかれるような感覚があった。倒れそうになるのを、足を開いてなんとかこらえる。
宙を走っていた炎がまばゆい光に包まれると、次の瞬間にははじけるように消えた。
彼は無事だ。
ほっとすると同時に、隣から気の抜けた拍手が降ってくる。
「……お上手、聖女様」
「っあんた!」
もう限界だった。美月はヴィッツの胸倉をつかみ上げると、大きく手を振りかぶった。
一発殴らないと気が済まない。
「おっと」
が、振りかざした手はすぐに掴まれてしまう。胸倉を掴んでいた手も、いとも簡単に掴まれて、片手でまとめられてしまう。
「いやあ、聖女様はなかなかお元気で」
ヴィッツは美月の怒りなど感じていないように、最初に見た時のような人のよさそうな笑顔を浮かべている。
美月はぞっとした。
彼をこうまでさせるものが分からない。ヴィッツは晩餐会で夢を語った。だが、美月にはヴィッツを動かすものが夢だとは、そんなに綺麗なものだとは到底思えなかった。これは、まるで――
「俺に殴りかかろうとする女性はあなただけですよ」
「よっぽど周囲の人間に見る目がないのね!」
「……威勢のいい女性は嫌いじゃないですが、あなたは少々元気が良すぎる」
「あんたなんかに好かれたって!」
悪態をついてもヴィッツは涼しい顔だ。唾でも吐きかけてやろうかという乙女らしからぬ発想が浮かんだところで、背後から腕を引かれる。
何が起きているのか分からないままに地面に押し付けられて、声を出す間もなく腕と足を拘束される。
「――っ!?」
挙句に口まで覆われて、美月は声もろくに出せなくなってしまった。
背後には衛兵が二人。ロープを持って立っている。
美月は目の前にしゃがみ込んだヴィッツを睨みつけた。
「きみには、しばらくご退場願わないと」
このクソ野郎! 最低! 聖女様をこんな風に扱ってもいいと思ってるの!
と必死に叫んではみるも、出るのは意味を持たないくぐもった音だけだ。
ヴィッツはそれを見ておかしそうに笑った。
「きみは少し知りすぎているし、シオンに会わせて、あいつの気が変わってしまったら困る。聖騎士選定の儀が終わるまで、大人しくしていてもらう」
体を鍛えた大の大人の男三人に囲まれては手も足も出ない。わめいても体をくねらせても、いつもたやすく荷物のように担がれてしまった。
「安心しろ。ちゃんと後で顔を見に行ってやるよ」
そんなこと、小指の爪の間に挟まった埃ほども心配していない。
誰かに気が付いてもらわなければ、本当にこのまま連れ去られてしまう。ヴィッツの背後の窓の向こうには人影が見えるのに、助けを求める声は届かない。
まだ、シオンを説得できていないのに。
温かな光はどんどん遠くなり、暗闇の中へと進んでいく。
抵抗空しく連れられたのは、見慣れない簡素な部屋。半分物置のようになっている。美月は部屋の隅のベッドに乱暴に放り投げられた。しばらく使われていなかったのか、埃が舞う。
幸運なことに、投げ飛ばされた反動で口を覆っていた布が外れた。が、舞った埃を思いっきり吸い込んで盛大に咳き込んでしまう。
衛兵たちは、もう扉の向こうだ。
「待って!」
叫びもむなしく、扉は閉められてしまった。
無情にも、鍵が閉まった音がする。




