第二十話 君の名は
本来ならば、お目にかかるのも畏れ多いお方だった。血縁でなかったら、言葉を交わすこともなかっただろう。
母親同士が姉妹だとはいえ身分が違う。それなのに、どういうわけか幼い頃から頻繁にあの方のもとへ遣られた。わざわざ俺でなくても、あの人の周りには相応の遊び相手がたくさんいたというのに。
「伯母上のお顔も、君のお顔も、とても綺麗だねえ」
初めてお会いしたとき、亮様は溜め息まじりに仰った。
顔についてあれこれと言われるのを不快に感じていた時期であった。ただ、あまりについ心から漏れてしまったようなお声だったので、そのときは俺も思わず照れてしまった。まさかその後、二十になるまで延々と言われ続けるとは思わなかったが。
あの人は権力を利用して、何かと俺を呼び寄せた。抜け出す理由を知っている周囲の者も、好意的に思ってくれない人間のほうが多かった。
心の底から迷惑だと思っていた。本来は敬いこそすれ、毒づくなど決してしてはならぬ相手であることは承知の上だ。
俺のあの方への態度が定まったのは、ご婚約者探しで揉めていた時期だろうか。幼き頃に決められたお相手の身体が思わしくなく、すべての条件を兼ね備えた新たな女性探しに、周囲は大騒ぎ。
時に候補者の写真を見せて、興味を引こうとする者がおり、そこであのお言葉。
――目の保養なら彰寿がおりますゆえ。
以後、俺はますます居心地の悪い思いをすることになった。おかげで、一時期は口にも出したくない害を被る羽目になるところだった。
その件において、あの方はその後何か仰っただろうか。あの幼いときのような謝罪を口になさったような覚えもあるが、定かな記憶はない。
あの方には、長い歴史を背負うのにふさわしいお名前があった。しかし、それが好きではないと俺によく漏らしていた。
「さようなことを仰いますな」
あれは、まだ十にもなっていない頃であったろうか。いつものようにそう返すと、我が主となるお方は幼子のようにむくれた。
「嫌なものは、嫌なのだもの」
何というお言葉。俺は固まってしまう。
本来、これほど率直な言葉を聞かせていただけることは光栄と言うべきであろう。しかし、そろそろ俺もこのお方が途方もなく己にとって迷惑な存在だと気づきはじめていた。
「そうだ、彰寿。親しい人にだけ使わせる名がほしい」
俺は妙な相槌しか口にできなかった。
「何かいい案ないかい?」
あったとてお出しするはずがない。
嫌味で、わざと平時のようにお呼び申し上げると、案の定、盛大に顔をおしかめになった。
「おっと、様も何もいらないよ」
「私が叱られてしまいます」
「彰寿、本当に君って人は」
声こそ不満を含ませているが、おかしそうに笑っているのでまったく恐縮する気分になれない。
「うーん、そうだなあ」
亮様は紙を取り出して、ご自分のお名前や身近なもの、好きなものなどを手当たり次第お書きになった。
あれは人名らしくない、これは憚りがある、と筆を片手に真剣にお悩みになる姿の傍で、俺は黙って立っていた。また妙なお遊びが始まったとは口にせず。
「はる……あき……」
亮様は視線を元に戻す。
「僕はね、これ自体が嫌なわけではないのだよ。ただ……。ねえ彰寿。君はどう思う?」
突如尋ねられて反応できないでいると、補足説明を下される。
「そうだな……ああ、季節ならばどちらが好きかい? 春と秋」
そのとき、目に浮かんだのは、青い空を背に霞のごとく広がる満開の桜であった。
「春でございます」
「そうか、ならば、あきにしよう」
くるりと丸で囲む。ならば何故今お尋ねになったのか。
そして「あき」で思い浮かぶ字をあれやこれやと並べて悩みに悩み、やはりこれだ、と一字を新しい紙に記す。
亮。
「言い訳ができるよう奇抜なものは避けよう。これで『あきら』と読ませることにする。どうだい? お揃いだねえ、『あき』と『あき』で」
俺はかろうじて無表情を保つことに成功した。
「かねてより、この名は私ごとき者には過ぎたものと思っておりました。これを機に改名をしたく存じます」
「何故だい!」
言いながら、大笑い。この場に他に誰もいなかったことは、幸運なのか不運なのか。
唇に手を当てながら、亮様は微笑なさる。
「そうかい、彰寿は春が好きなのだね。でも、僕は秋も好きだな」
「ようございました。同じ季節を好きだと申し上げるのも、恐縮でございますから」
「またそう他の人は言わないようなことを。よいけれども。というわけで、本日より僕のことは『亮』と呼びたまえ」
「私の立場ではとても」
「駄目だ駄目だ、父上に言いつけるよ。彰寿が僕の言うことを聞いてくれない、と」
俺は首を横に振る。
「なりません。お父上は、権力とは軽々しく行使するものではないと思し召しでしょう」
「従兄のお願い、聞いてくれないかい?」
「気安くはできませぬ」
亮様はふくれながら、承知したと呟いた。俺の言葉を素直に聞いてくださったことがなかったため、珍しいと思いつつも少々安堵した。
しかし、しばらく後、突然父に張り倒された。いつも厳しい人ではあったが、あれほどに激昂した姿は次兄の出奔以来だっただろうか。母も長兄も唖然とし、とっさに動くことができなかったほどだ。
聞けば、亮様がたいそう気落ちし、その訳を周囲が問うた。すると、あのお方はまたもや恐ろしいお言葉を口になさった。
「彰寿にお願いをしたら冷たく断られて、悲しくなってしまった」
その話は、すぐに父のもとへ巡ってきた。あの方が仔細を一切口にしなかったばかりに、その話は、尾鰭も背鰭も胸鰭も鱗も全てついた状態だった。
すぐに父に引きずられてお詫びにあがったところ、寛大なお心をお持ちの亮様によって即座に赦された。
意気消沈した俺の頭を撫で、血縁上の従兄にあたるそのお方はそっと微笑んだ。
「ごめんね、彰寿」
「……もう何も口になさらないでくださいませ。私がよけいに叱られてしまいます」
「ではもう、僕のこと、けっして、亮とは呼んでくれないかい?」
無言の圧力を感じた。
以来、俺はこの方のことを、親しい者にだけ許された名でお呼びすることになった。このときはまだ、暫しの遊びであろうと軽く考えていた。




