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第十九話 一度死んでもわからんものはわからん


 静かに、けれども強く放たれた言葉は俺の心に爪を立てる。

「一方的に恨んでいるだけなんですけれど」

 夜に覆われていく景色を見つめながら、彼女はぽつぽつと語り始める。

「昔から、私は勉強も運動もお稽古ごとも人並みで。特に得意なものもなくて。でも、彰寿さんはとても優秀だったでしょう?」

 顔はそっくりなのに。俺を知る人間から悪気なくそう言われることが、幼い頃からたびたびあったのだという。

「そのたびに私って何なんだろうって思っていました。彰寿さんの劣化版でしかないのかなって。顔だって、彰寿さんのほうが綺麗だって言われたりして」

 本当に悪意はまったくなかったんだろうか。彼女は俺じゃない。傷つくのは当たり前だ。

 そうした経緯で、鈴森彰寿ファンはもちろん、革命時代を持ち出してくる人間すらも警戒するようになった。

「彰寿さんと比較されて悲しくなったら、祖父母のところに行くんです。祖母は、私のほうがずっと素直で可愛げがあるっておどけて言ってくれるし、祖父は……万葉子は万葉子だって頭を撫でてくれました」

 その祖父こと寿貞兄が老いを見せ始めたのは、彼女が中学に上がったばかりのこと。

 急に短期的記憶に穴が生じるようになったという。そして、次第に考えは鈍くなり、身近な人間の顔もすぐに認識できなくなり。

 彼女の顔に陰がさすにつれ、俺の心も暗くなる。

「でも、祖母のことは絶対忘れないというか、間違えたりしませんでした。そしていつも昔話を……。祖母は、意識が若いときに戻ってしまうのではないかと言っていましたが」

 こんなに歳をとっても自分のことは即座に認識してくれる――里津子さんはそれをささやかな喜びにしていたという。

「不思議なことに、私をときどき、昔雇っていたお手伝いさんと間違えることがあったんです」

「君を?」

「そう。お兄さん、そのとき私はどう思ったかわかりますか?」

 すぐに答えが出てこない。先に言われてしまう。

「自分は、彰寿さんの代わりにもなれないんだって。彰寿さんに間違えられないこと、それは嬉しくもあり悲しくもありました」

 そのさなか、里津子さんが突然亡くなってしまう。病だったそうだが、症状が出てから逝くまではあっという間だったという。苦しまなかったというのが唯一の救いだが。

「祖母は、私の複雑な心境をわかっていたようです。あの人にとって昔の思い出は大切だから聞いてやってちょうだい、と臨終間際に」

 気の強そうな顔を思い浮かべる。あの人は最期まで夫である兄のことを愛してくれた。それは俺にとっても幸いなことだ。

 里津子さんが亡くなり、兄上はますます老け込むようになってしまった。しかし、寿基や万葉子ちゃんら家族はずっと側にいてくれた。

 胸の中で何かが音を立てる。

 ずっと独りだ、と呟いた長兄。まったく子や孫のことがわからなくなったわけではなかったとはいえ、心は正寧にあったというのだろうか。

 いや、違う。

 病室にあった写真は一枚ではなかった。

 過去を、失ってしまった人々を懐かしむ気持ちが強かったのは確かだろう。それでも今の家族も大切に思っていたのではないか。

「ごめんなさい、だらだらつまらない話して」

 万葉子ちゃんの言葉に、ぼんやりしていたことを自覚する。

「いや、そうじゃないんだ。もっと、話したいことがあったら……」

 彼女は、鈴森の母によく似た笑みを浮かべる。じゃあ、もう少しだけ、と言いながら。

「もしも彰寿さんがいなかったら、私はたった一人の私でいられたんじゃないかって、ずっと思っていました。彰寿さんがいるから、平均点をとれても、ダメな子、出来の悪い子って言われる。彰寿さんが優秀だったから、みんな私も優秀であることを期待する。彰寿さんのせいで、私はずっと代用品でしかなくなるんだって」

 万葉子ちゃんは唇の形を保ったまま、眉を下げる。

「ひどいですよね、私。こんなこと、会ったこともない親戚に言われても、彰寿さん困ってしまいますよね。今でもどこかで、知ったことかって怒ってたりして」

 万葉子ちゃん、その彰寿の生まれ変わりが俺だよ。

 俺は、父の期待に応えるために、努力を重ねた。軍学校の首席の座も得た。自分は必ず行いに見合った結果を得られる人間だと思っていた。体格のことで悩み、高山田という煩わしい存在もあったが、俺は勝ち取ったのだ。

 確かに俺は望みの大半は叶えることができたと言える。けれども、だからといって、同じようにいかない彼女のことを蔑む気持ちにはなれなかった。

「私、周りの人に劣等感をずっと持っていて、卑屈で嫌な子なんです。自分が嫌いだったし、結果を出せないのも辛かった」

 いくら頑張っても彰寿を超えられないのなら、何もしない。彼女はそう決めた。それで何か言われても、どうせ比べられるなら、努力が報われないよりも最初から諦めたほうが心の傷が少ない。

「でも、開き直ろうと思ったからってすぐにできたわけじゃなかったし、いっそう呆れる人もいました。そんななか、映果は……変わらず、ただの友達として私に仲良くしてくれました」

 彼女は、前世でも現世でもこの顔が大好きで、鈴森彰寿をよく知っている。同時に、万葉子ちゃんと俺が違う人間であることも。記憶を取り戻す前から、その感覚は意識の奥底にあったのだろうか。

「勉強も運動も芸術も、ぜんぶあの子に敵わなかった。でも、それはまったく嫌じゃなかったんです。だって映果はいつも明るくて、私の駄目なところも理解していてくれて、からかうことはあっても、上からおさえつけるような態度はとらなかった」

 だから素直に彼女のことを尊敬できたし、憧れてさえいた。彼女はそう語る。

「それで、私が努力をやめたときに、あの子こう言ったんです」

 義務でないなら、嫌なものを無理に続ける必要はない。上手にならなくて、そのせいで他人から心ないことを言われても、それでも好きだと思えるものだけ続けたらいい。ないのなら、これから探せばいい。

「そのとき、なんだか楽になったんです。好きなことを楽しめばいいんだって。いま思えばとても単純なことだけど、あのときの私はすべて放り投げることしか頭になくて」

 日比谷での告白を思い出す。

 亮様は、巨大な義務を背負って生きていた。その生まれ変わりである映果さんは、どんな思いで万葉子ちゃんに言葉をかけたのだろう。

 俺の前では、あの顔が好きだの空回ってるところも可愛いだのはしゃぐが、本当に彼女は万葉子ちゃんのことを大切に思っているのだろう。

 あの人にだって幸せになってほしい。それは俺の正直な気持ちだ。

「まだ彰寿さんに対して複雑な思いはあります。でも、あの人自身のことは、前ほど嫌いじゃなくなりました。映果のおかげです。お菓子作り教室も、私が楽しそうだからって喜んでくれてたんですよ」

「……大切な友達なんだね」

 俺の言葉に、万葉子ちゃんは花のような笑顔で頷いた。

「はい!」

 大きな声になってしまった。慌てて彼女は声をひそめる。

「すみません、こんな話ばかりで」

「いや」

 いつの間にかすっかり日は沈んでいた。ガラスに、俺たちの姿がかすかに映る。彰寿によく似た顔の万葉子ちゃんと、彰寿の面影などまったくない俺。

 もう一人の自分越しに夜景を黙って見つめていた彼女は、ふいに視線をこちらに寄越す。

「お兄さん、今日は本当にありがとうございました」

「こちらこそ」

 もうそろそろ帰さなきゃな。車を呼ぶのなら、どの辺まで送ればいいのだろう。

「なんか、デートらしくないことばっかりでしたね」

「そんなことないと思うけど」

 大きな瞳が俺を捉える。なぜか目を逸らせず、見つめ合う。

 そして、はっきりとした声が響く。

「お兄さん、もしよかったら私と付き合ってくれませんか?」

 こういう展開になる可能性をすっかり失念していた。

 彼女はいい子だ。それはよくわかっている。でも、俺にとっては微妙な続柄の親戚であって……。

 というか、今まで恋だの何だのそういう気配が感じられなかったのだが。いくら勘違いだったとしても、友達の片思い相手だった男に即座に迫るか? 猪突猛進とは聞いていたが。

 答えに窮していると、慌てた足音とともに万葉子ちゃんの肩を包む腕が現れる。

「え、映果さん?」

 なんでここに?

 わずかに息があがっている彼女は、親友の髪に顔を埋めたまま首を横に振る。

「だめ……だめっ……」

 だめって……。

 そんなに万葉子ちゃんを彼氏持ちにしたくないのか。相手は俺だぞ? どうにかなるわけがないってわかっているだろうに。というか、俺に万葉子ちゃんを勧めたのは誰だ。

 この人がもしも今回も男性だったら、きっと誰も入り込めないくらいラブラブなカップルとやらになっていただろうな。

 頭を掻きつつ万葉子ちゃんに視線を移すと、さっきよりもさらに明るい表情があった。

「……やっぱり来てくれたね」

 首を傾げていると、彼女は優しく映果さんの腕を外す。

「嘘ついちゃだめだよ、映果」

 どういうことだ?

 混乱のあまり固まっていると、万葉子ちゃんは頭を下げる。

「ごめんなさい、今日の全部、映果が見てること前提の行動でした。ここまですれば、映果も黙ってられないかなと思って」

「え、まさか……」

 映果さんを引っ張り出すためだけのデートもどきだったのか?

 でも、何故?

 まさか、万葉子ちゃんは映果さんにやきもちをやいてほしかったのか? 女子にはそういう、密な友情を持ちたがる子もいるって聞くが。

 瞬きを何度も繰り返す。その間に万葉子ちゃんは立ち上がり、映果さんの肩を叩く。

「じゃあ、頑張って」

 は?

「お兄さん、今日は楽しかったです。映果のこと、よろしくお願いしますね」

 ひらりと手を振って、満足げに去っていく。

 もしや、勘違いはまだ続行してたのか? 俺と映果さんをどうにかしたくて、ここまでしたのか? だとしたら、なんという行動力……。

 けれども、まだ疑問が残る。それなら、映果さんは――。

 見下ろすと、泣きそうな顔があった。また化粧がぼろぼろじゃないか。

「安心してください、何もなかったんで」

「あったら困る!」

 大声を出さないでほしい。ほら、他の客が不審げに見てる。

「あなたが万葉子ちゃん大好きなのはわかりますけど、少々過保護じゃないですか? あの子にだって、いつか彼氏はできるんですよ。いつまでもあなただけの万葉子ちゃんでいられないんです」

 映果さんは、信じられないような顔つきになる。

「この状況で何言ってるの」

「え?」

 彼女の全身から力が抜けていく。

「ここまで気づかれないなんて、私も予想外だった」

 猫に似た目が俺を睨む。

「気づかないって……?」

 放り投げられた答えは、耳を澄ませないとよく聞こえないほど。

「好きだってこと」

「は?」

 主語がはっきりしないと何がなんだか。

「好きって?」

 彼女は俺の服の胸あたりをぎゅっと握りながら、その瞳に俺を映す。

「私が、あなたを!」

 これも、全部夢だったりしないだろうか。

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