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第十七話 今度こそ生き抜こうじゃありませんか



 幸せ、だった……?

 絶句する俺に、彼女は薄く笑う。

「君ですらそういう反応か。誰にも言わないでいてよかったのだろうね」

「真面目に仰っているのですか?」

 先ほどまでの様子が嘘のように、映果さんは素直に首肯した。

「そうだよ。僕は、自分が死ぬってわかった瞬間、本当に嬉しかったんだ」

 スカートを翻しながら反転し、彼女は足を進める。

「ちょ! 待ってくださいよ」

 応えず歩いていくその背中を追いかけ、肩を掴んでこちらを向かせる。彼女は唇だけで笑ってみせる。

「こらこら、乱暴はやめなさい。知らない人が見たら、君、不利だから」

 こんな状況でそんなふざけたことを。

「あんなこと言い逃げされたら、そう気を使う余裕もありませんって」

「言い逃げのつもりはないよ」

「それなら去らないでください。どっかで腰落ち着けて、じっくり話を」

「じゃあ公園にしようか」

 俺の手をどかして、映果さんは行ってしまう。

 まったく、何なんだ?

 死が、幸せ?

 正直、混乱している。あの人がそんなことを言うなんて、露程も思っていなかった。

 また俺をからかっているのか? だとしたら、性質が悪いを通り越している。

 追いながら、俺は自分の死を思い出す。喜びなどみじんもない、ただ無念でたまらなかったあの瞬間を。意識が途切れそうになるときの、あの静けさを思い出すと、ぞっとする。周囲が薄鈍色に染まる。

 あれに幸福を感じるなんて、本当に頭がおかしいとしか思えない。まだ二十代、やりきれぬ思いで死んだのではないか。

 映果さんは公園に入ると、あまり人目につかないところまでやってきた。

「まあ、座りたまえよ」

「あなたを立たせたまま腰掛けるなんてことしませんよ」

「ならば君も立っていればいい」

 俺は無理やり彼女を一番近くにあったベンチに座らせる。

「強引だなあ」

「踝、赤いですよ」

 靴の端から覗く皮膚を見ながら指摘すると、映果さんは俺から隠すように足を組む。

「女性っていうのは、多少窮屈でもお洒落をしたい生き物なんだよ。靴擦れなんてどうってことない」

 元は亮様だと思うと、何だか複雑な発言だ。

「そんなことより、先ほどのお言葉はいったいどのような……」

 彼女は小首を傾げてみせる。

「どんなつもりも何も、言葉のとおりさ」

「それではわかりませんよ」

 溜め息をつきながら、彼女は空を仰いだ。薄紗の雲が風になびいている。

「僕は、生まれたときから将来を定められていた。父や祖父が……代々そうあったように、立派にその跡目を継ぐ人として、期待を一身に受けていた」

 でも、と祈るように組んだその手は震えた。

「自分がその器にないことを、早くから自覚していた」

 綺麗に紅が塗られた唇をそっと噛む。

「僕は男子……しかも実質上の長子として生まれてしまったがゆえに、その大きな役目を背負わねばならなかった。皆が言う――あなたの将来が楽しみだ、と。僕の未来を夢みる人が多ければ多いほど、かけられる期待が大きければ大きいほど、心は押しつぶされる一方だった。何故なら、受けとめるこの身はあまりにも小さくて無力だったから」

 大きな目を裂けそうなくらい見開きながら、彼女は視線を地面に移す。

「勉学だって武芸だって家のことだって全て、完璧であろうとしたさ。歴史も政治も、外国の事情も伝統文化も、全部熱心に学んださ。庶民と言われる人たちがどんな暮らしをしているのかを知り、どうすれば彼らが幸せになるのかを考えもした。けれども、懸命になればなるほど己の限界を意識し、自分は全てを背負いきれないと思い知るばかりだった」

 何を言う、と絶句してしまう。人柄や俺に対する振る舞いはともかく、表面上は何の問題もなかったはずなのに。

 そもそも、亮様が軽口以外で弱音を吐いたことなど一度もなかった。いつも飄々としていて、他人が困るのを楽しそうにご覧になっていて――。

「君や白川に『亮』と呼ばせていたのは、代々受け継がれてきた通字も何もかもを抜いて、僕だけの名をほしいと思ったからだ。家や立場に縛られず、ただの亮として町を歩いているときが、僕は何より嬉しかったのだよ。そのときばかりは、背負っていたものをすべて下ろせた気がしてさ」

 康がね、とこぼれおちた声はとても弱々しい。

「あの子は僕を慕っていたろう。でも、僕はあの子が継いでくれればどんなに良いだろうと常に思っていた。だから、まだ自由な時間があるうちに、わざと問題のある人間として振舞ってみたりもしたわけだ。あれに後継ぎの座はふさわしくないって誰かが言ってくれるかもしれないと思ったから」

「……不良になるならば、もっと徹底的にやらねば。そういうお考えでの行状としてはいささか軽うございましたね」

 映果さんは背もたれに体を預けるようにしながら力なく笑う。

「僕がふらふらするのをあんなに怒っていたのに、そう言うかい」

「そりゃあ、傷がついてはならぬ御身でしたからお諫めするのが義務でしょう。俺の将来にも関わるのだし」

「そうだね。僕は、己の行いひとつでこの国の多くの人間の運命が変わってしまうかもしれないのが、恐ろしかった……」

 長く細く、息を吐きながら、彼女は続ける。今、その目に映っているのは永喜の世ではない、そんな気がした。

「あの時代、目に映る景色は急速に変わっているように思えた。けれども、同じ速度で進めないものはたくさんあって、歪みが大きくなっていって、この国はどうなってしまうんだろうといつも不安になった」

 ふと浮かぶのは、高山田の顔と慰霊碑。

「君が死んで、裁判があって、平民派が蜂起して、その最中に僕は倒れた」

 語るうちに、次第に早口になっていく。

「ああ、きっとこれからもっとこの国は苦しくなる。父や僕が負わなければならぬものはどれほどになるだろう。これから人々はどれほど苦しむのだろうか。日本は、我々はどうなってしまうのだろう。人々の呼びかけを聞きながらそんなことを考えた瞬間――ああ逃げられるんだって、そう思ったんだよ!」

「落ちついてくださいよ」

 俺はその両肩に手を置く。けれども、彼女は激しく頭を振るばかりだ。

「あの子に! まだ子供で、いつも自分を慕っていてくれたあの子に、大人であった僕は全部押しつけたんだよ! 辛い役目を、すべて! 未来を予測しておきながら、それでも僕は」

「あき――」

 狂ったような笑い声とともに、映果さんは叩くようにして自分の胸に手を当てる。ネックレスがわずかに音を立てた。

「どうだい、嫌悪すべき人間だろ? 皆の期待をすべて無駄にしていたんだ! ただ、搾取するばかりで、還すものなど何もなかった!」

「ちょっと」

「彰寿! 君のことだってそうだよ!」

 映果さんは腰を浮かせ、俺の服をぎゅっと握るようしながら見上げてくる。その顔はぐしゃぐしゃで、化粧が台無しなくらいに涙で濡れていた。

「君は……僕を憎むべきだ! だって、君の死だって、君が僕に関わっていたから――」

「落ちついてくださいったら!」

 俺は、その帽子のつばを両手で持って、思いきり下へ引っ張った。顔が隠れた彼女は、糸の切れた人形のようにだらりと腕を垂らして黙った。

 冗談だよ――その一言を待つ。けれども、いつまで経っても何も口にしない。

 正直、何と声をかけたらいいのか、まったく考えつかない。

 いつも俺で遊んで、余裕のたっぷりの笑みを浮かべていた亮様。ふらふらと出かけて、周囲を巻きこんで、仕える人々に怒られて、それでもどこか楽しげに見えていた。

 そんな人がこんなことを考えていたなどと、どうしても思えなかった。

 けれども、高山田の言葉を思い出す。

 都合のいいものしか見ていない、人の心がわからぬまま生きている。あいつの声が幻聴となって耳にまとわりつく。

 俺は、この人の何を見ていたのだろう。

 あれだけ顔を合わせて、迷惑だ迷惑だと思いつづけていて、でもその本音など考えもしなかった。

 もしも彰寿であった頃にこんな告白をされたら、嫌悪や呆れでは収まらず、怒りに震えていただろう。血迷ったことを抜かすな、とずっと抑えていた拳を振るっていたかもしれない。

 今まで何を見て生きてきた。そんな甘えなど許されるはずがない。そんな、己の身分などまったく弁えない説教を食らわせて。

 だが、今はとてもそんな行動を起こす気分にはなれなかった。

 この人もまた、前世にとらわれているのだ。

 対峙するこの心には悲しみも怒りもない。あるのはただ――。

「……どうだい、軽蔑したろう? がっかりしたろう? さんざん君を振り回しておいて、これだ」

「ご安心ください。元よりあなたへの好感度はゼロですので、これ以上は下がりませんよ。なお、マイナスの設定もございません」

 彼女は帽子を上げて、泣きながら唇を歪ませた。

「何だい、それ。彰寿、君は――」

「もう、俺は彰寿ではありませんよ。松井智樹という人間です。そしてあなたも、今は槙村映果という、一人の女性。そうでしょう?」

 俺の言葉に、きょとんとしながら瞬きを数度。

 目の前にいる人が亮様であることは間違いない。けれども、細い身体をまだ震わせている彼女が初めて、本当にただの少女に見えた。

「あなた、この間言いましたね。彰寿という前世を一回終わりにしろって」

 こくりと頷く。

「じゃあ、競争しましょう」

「へ?」

「どちらが先に、前世を吹っ切ることができるか、競争するんです。そうだ、菊川も強制参加させましょう。で、ビリだった人が、優勝者に酒をおごるんです」

 彼女は、女子高校生らしい狼狽を見せる。

「私、未成年だよ?」

「俺だってそうですよ。でも、これは長期戦になるでしょうから」

 そう言ってやると、彼女は再び脱力した。ただ、先ほどのような重苦しさは見られない。

「長い付き合いになるかな? 今度こそ」

 前世では二十年ほどの付き合いだった。今から二十年以上ってことは、お互い結構いい歳になっている。その間にもきっといろいろあるだろう。

「せいぜい若死にしないように、お互い生活には気をつけましょう」

 軽く吹き出す声に、やけに安心してしまう。ようやくちゃんと笑ってくれた、と。



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