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第十六話 休めるときは休んでおけ



 身を乗り出すようにして下を眺める彼女に、俺も外の景色に視線を移す。

 話しているうちに、ずいぶんと人が増えていた。

 その中央を、ゆっくりと一台の車が走っていく。後部座席の窓が開いていて、男性の顔が確認できた。

 俺は、その人のことをよく知っていた。

「康様……?」

 車に乗りながらも窓を開け、周囲の人間に笑顔で応えている。

 ――彰寿、ごきげんよう。

 いつもそう笑いながら駆け寄ってくださった。まさに童という言葉にふさわしい、ふっくらとした頬を持った天真爛漫な人だった。

 七十を過ぎた今では、たいそう優しそうなお爺様といった風情だ。

 映果さんはじっとその姿を見つめた。瞬きさえ忘れたかのように。

 車は、あっという間に行ってしまう。ゆっくり走っていたとはいえ、一分にも満たなかった。

 それでも彼女は満足だったのか、そっと微笑んだ。

「本当に、立派になった……」

 目を細めるその様子は、まさしく「兄」のものだった。顔だちはまったく違うのに、亮様の姿そのままだった。

「待ち伏せって、こういう意味だったんですね」

「うん。ニュースに、今日はとある式典に出るとあったから。ルートを考えれば必ずここを通ると思ったんだ。地上は警備が厚いしよく見えない。でも、このお店なら警戒薄いわりに見やすいと思って。こうやっていると、本当に立場がもう違うんだなあって実感するよ」

「もし亡くならなければ……あなたがあそこにいらっしゃったはずですよ」

「……さて、行こうか」

 突然、彼女は立ち上がる。

「目的は果たした」

「もうよろしいのですか?」

「あの子は行ってしまった。それに、歩きながら話したいんだ。もう少しだけ付き合ってくれないか?」

 店を出ると、先ほどの賑わいも薄れて空気も少々緩んでいた。康様がお通りになるから、物々しい雰囲気だったのだと納得できた。

 二階からあの方をこっそり眺めるなど、前世では考えられないことだった。妙な経験に俺はそっと溜め息をつく。

 幼いと思っていたあの方も、今の俺からするとずっと年上の人になってしまわれた。あんなにご立派になって。

 亮様が亡くなられたとき、康様はまだ十代前半だった。革命で、華族の未来も予想がつかなくなった最中のことだ。

 ご自分たちの身がどうなるかも危ぶまれたその状況で、兄上の代わりという予定外の重圧がのしかかってきた。

 しかし、あの方はお父上をよくお支えになり、お二人で国のためにさまざまな働きかけを行った。そして革命の終結を迎えた頃には厚く信頼されるようになったという。

 そして三十年ほど前にお父上の跡を継いで現在に至る。もう政には携わっていないが、今も多くの国民から慕われている。

 もしも亮様がご存命だったら、あの一大事にどのように関わったのだろうか……。俺にとっては迷惑な人だったが、その死を惜しむ声は多かった。

 映果さんの様子を窺うと、彼女は駅とは反対方向、皇居の堀に向かって無言で歩いていた。俺は、しばらく黙って付き従うことにした。

 多数の皇居ランナーとすれ違う。邪魔になるほどではないが、できれば別のところをお散歩してほしいとひそかに思う。車の往来もそれなりにあるし。

 いったいこの人は、この先どこに行きたいのだろう。

 元の弟君が現在どうなさっているか確認するだけなら、ネットでも新聞でもテレビのニュースでも何でもいい。鈴森家よりもはるかに、情報を入手しやすい方だから。しかし、直接この目で見たいという本音があったのだろう。

 生まれ変わった今では、元子爵家令嬢と言えどやはりそうそう会えないはず。彰寿も、母親同士が姉妹でなければ、あのような付き合いなどなかったのだし。だから、康様のお姿を遠目からでも、という心情は理解できた。

 けれども、それを果たした今、何か他に目的があるのかどうか俺には想像できない。

 堀を眺めながら、訳もわからず進んでいると、三歩ほど前にいた彼女は突然、振り返りもせずに口を開く。

「やっぱり変わらないね」

「何がですか」

「君は、今でもまだときどき、僕から話しかけられるのを待っている」

 亮様ほどの方になれば、下の立場の人間から話しかけてはならないのは、当時の常識だ。

 もっとも、迷惑かけられているときは、それを気にする余裕がなくなったりもしたが。

「別に、そういうわけでもないですよ」

 そう答えたものの、無意識にそうなってしまっているときもあるかもしれない。この人は亮様で、俺は彰寿なのだから。

「そうかい? ときどき、いまだに僕と君は主従なのだと思ってしまうけれどね。もう僕らに身分などないのに」

 後ろからではわからないが、きっと笑顔なのだろう。そう思った。

「あなたが、亮様モードとやらに入るからでしょう」

 今日は、ずっとそうだ。いつもと何かが違う。

 帽子をさらに深くかぶろうとしながら、かつての自分の口調そのままで続ける。

「先ほど君は言ったろう、もしも死ななかったら、あそこにいたのは僕だって」

「申しましたね」

 差し出がましい発言だったかもしれない。

 向こうからやってくる人を避けるように左に一歩動いた彼女は、再び前へと足を進める。近づきすぎるな、けれども離れすぎてもいけない。彼女の背中はそう訴えているように見えた。

 二駅分くらい歩いたことになるのだろうか。いつの間にか日比谷にまで来ていた。

 余計に人通りが増えたものだから、彼女に危険がないよう、よりいっそう気を使う。

「この辺りもよく来たなあ。君も一緒だったっけ」

「何度か」

 この人が町をぶらつくときはたいてい、誰かからのお叱りがセットだった。そのせいか、今こうして一緒に歩いているときも緊張してしまう。もう怒られる理由もないし、怒る人もいないというのに。記憶というのは恐ろしいものだ。

「疲れたかい?」

「いえ、別に」

 立ちっぱなしも平気だったもんね、と懐かしい話題を持ち出してくる。

「私のお散歩に、万葉子はあまり付き合ってくれないんだ。その点だけは君のほうが有難いね」

「さようでございますか」

 あまり嬉しくないのは何故か。俺は考えないようにした。

 立場は同等とはいえ、この調子でふらふら行かれたら、ただの友達ではしんどいだろう。

 白川氏なんか、かなり体力と精神を削られて、いつも疲弊していた。俺とて、この人が仕えるべき方でなかったら、文句の百や二百くらい言いたかったくらいだ。

「どこかで一息ついてもよろしいのでは? 疲れたでしょう」

 少々高いヒールを履いている。これで今まで歩きまわれたことに感心してしまう。

 この近くにあるものって言ったら軍博だが、この人と入るっていうのはちょっと気が引ける。となると、また喫茶店かなあ。劇場とかホテルとかのところは混んでるかな。劇場ならばあの祖父の思い出話もできようが、この空気じゃあ……。あ、公園内って手もあるか。

 そんな俺の悩みなどどうでもいいと言わんばかりに、映果さんは切り捨てる。

「いい。今は歩いていたい」

「どちらへ?」

 このままだと銀座か新橋まで行きそうだ。いっそのこと、旧停車場……という提案をするわけにもいかない。

「どこでもいいんだ」

 彼女の声の様子がおかしい。まるで力が入っていない。

「目的はなく、ということですか?」

「……うん」

 いつもの愉快げな調子が全然感じられない。

「亮様、何か俺に隠していらっしゃいませんか」

「……何も」

「嘘だ」

 亮様はやはり振り向かない。

「なんで、そう思うのかい?」

「前世のときからの長い付き合いですからね、何となくわかりますよ」

「そっか……」

 彰寿、と呼びかける声は、弱々しい。

「先日のお茶会で、死んだとき何を思ったのかは話していなかったね」

「そうでしたっけ」

「そうだよ」

 カツン、と高いヒールが鳴る。

「実は、今まで誰にも言えなかったことがあるのさ」

「何ですか?」

「菊川氏にあの場で言うのは躊躇われてね」

「菊川には?」

「うん」

 焦らすように、一呼吸置く。

「彰寿、僕はね、胸が苦しくなって倒れたとき」

 ようやくくるりと振りかえったその眼差しは、かすかに揺らいでいた。

「心の底から幸せだったんだ」




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