第十八話 我が道に
まだ軍学校の予科に着校して間もない頃のこと。中学校からやってきた者たちの顔と名前が完全に一致していない時期だった。
「君は外国語がよくできるなあ」
何かの折に、彼はそう声をかけてきた。
「昔から学んでいたから」
へえ、と真面目な顔で頷く。
「何かいい勉強法はあるかい?」
勉強法とて、軍に入ることを早くより定められていた俺は、幼少時より教師を招いて各国語を学ばされていただけだ。あとは――。
「まあ、外国のものに興味を持つのが一番だ。好きなものなら自ずと知識が増えるからね」
これに関しては、次兄の影響が大きい。いささか問題がある人だが、今となっては感謝すべき点も多い。
「外国のもの、か?」
「うん。いくら教師をつけられようと、詮ないこともあるさ。それより、万年筆とかカメラとか舶来品に関心をもったときのほうがよっぽど学ぶ気になったね」
その瞬間、彼の表情が消え、身体が微かに震えた。歯を食いしばるようにして俺を見る。まるで夜叉のごとく変化した形相に、俺は眉を寄せた。
「何か?」
吐き捨てるように、彼は言う。
「お坊ちゃんだな」
「そりゃそうだ」
そう口を挟んだのは、後ろにいた越本。
「彼は、鈴森子爵のご子息だもの」
「子爵……」
越本は、俺の不快な声もよそに、亮様のような親戚のことまで持ち出す。それを黙って聞いていた彼は、話が終わると俺の顔をじろじろ見る。
「そりゃあ、羨ましいことだ」
皮肉げな笑顔。心を逆なでされた気分になった。
「別に、ここでは関係ないだろう」
規則正しすぎる生活。持ち物は厳しく管理され、夜中に叩き起こされることもしばしば。しくじれば俺だってお構いなく殴られる。母が見たら悲鳴をあげるほど頬が腫れることも少なくはない。
「それに、子爵家くらいで大きい顔はできないさ」
近年は数が減ってしまったとはいえ、鈴森家よりも格が上の方々もこの学校にはいらっしゃる。いくら縁者に錚々たるお名前が並んでいたとしても、特段高い家格ではない。
むしろ、これしきで驕るなど人々の嘲笑を集めるだけである。そちらのほうがよほど、父母の恥になりえよう。
「……そうか」
彼がそれ以上俺に話を聞くことはなかった。
その直後、俺は彼の名前を認識した。高山田邦勝という、地方の貧しい家出身の者だと。
思えば、あのときから歪みが起こっていたのかもしれない。
お互いのことを知っていくうちに、俺たちの仲はいっそう険悪なものになった。
顔は四六時中合わせなければならない。しかし、普段は互いを無きものとして扱い、言葉を交わせば罵倒のし合いに発展することもしばしば。無論、厳罰に処せられることも一度二度の話ではなく、騒ぎが大きくなる前に前原たちが仲裁に入るようになった。
高山田は、恵まれた環境に自覚なく振る舞う俺が気に障った。俺は、貧乏人の苦労をレコードのごとく繰り返す高山田に嫌気がさした。
ただ、彼のすべてを否定はしない。
俺がいくら鍛えども、体躯は小さいままだった。それに比べて高山田の身体は、実に惚れ惚れするほど、しっかりとしたものだった。
運動神経もよく、馴染みのなかったはず類のものであっても実科はたいてい上位に食い込んでいた。
学科も、最初は苦労もあったようだが、並々ならぬ努力で次第にその優秀さを示すようになった。
俺は学科と一部の実科に関しては有利だったものの、生まれ持ったものの違いを思い知らされる。
しかし、俺とて負けたくはなかった。
父の便宜は何も受けなかった。けれども、何かあれば家のことを持ち出される。
亮様のお召しで学校を抜け出さなくてはならず、それについてたいそう不本意な言葉を高山田以外の人間から吐かれることもあった。
かような者共を黙らせるには、とにもかくにも実力をつけるより他ないと思った。たとえ、苦労して得た結果に華族の特権を使ったのではと囁かれようとも、能力を示せばそのうち理解されると信じていた。
一番の目標は高山田だった。彼は向上心があり、貪欲だった。出世しなければならぬ事情もあった。
わずかな油断もあれば追い越され、引き離される。彼の存在があったからこそ、それまで以上に勉学にも鍛錬にも励むことができた。
何もそこまで、と同期にさえ言われようと、俺は必死だった。家名以上に、彼に打ち勝つことが己の務めと考えるようになってしまったほどだ。
けれども、俺が時を経て軍学校の首席になったとき、次席の高山田だけが納得できていない様子だった。
「どんな手を使ったんだ」
それは、俺にとって最大の侮辱だった。
「使っていない。お前もそれはよくわかっているだろう」
「たびたび抜け出していたくせに。よくもそのようなことを言ってのけるな。厚顔無恥なやつだ」
それを突かれるのは痛い。しかし、亮様の横槍の分、それを補うどころか余るほどの努力はした。如何なる障害も乗り越えたつもりである。
しかし、彼は認めない。
「血縁と家のおかげで、お偉方に将来を約束されているからか? 知っているぞ、教官方がお前のことを目の上のたんこぶ扱いしていること」
お前がそれを言うか。
「今まで何を見ていたんだ? 負け惜しみはよせ。お前が一歩及ばなかった。それだけだ」
むしろ、お前が危険思想をひけらかし、たびたびこちらに喧嘩を仕掛けてきたことが、次席に留まった一番の理由ではあるまいか。俺にはそう思えたが、あえて口にはしなかった。それを考慮すれば、俺も彼もよく恩賜の軍刀を得るに至ったものだと言えるかもしれぬが。
高山田はぎょろついた目で俺を睨む。
「見ていたとも。お前がどこまでも依怙贔屓される立場であると実感させられたからな」
「何を」
「お前には、どこまでも続く将来がある。寝ていようが遊びに興じていようが、勝手に作られる道が」
彼の拳は震えていた。
「しかし、俺にはないんだ。自分で作るしか」
「俺とて決まっているわけではない。それに、お前みたいに何かと家のことを持ち出してくる不快なやつらを黙らせたいから、今まで」
俺の言葉を遮り、彼は言う。
「大学、当然、お前は行くよな?」
「もちろん。入れないわけがない」
これから隊附生活が始まる。最低でも二年。
大学にはすべての人間が進めるわけではないが、俺も高山田も入る実力はある。そう確信していた。
「そこで決着をつけようじゃないか。まずはどちらが先に昇進するかな」
俺の言葉に、高山田は顔を歪ませた。
「ばかたれが。俺たちゃ卒業後もずっと軍人だ。最終的な勲功で争うもんだろう」
彼に真っ当なことを言われると、たいそう腹が立つ。だが、反論せずにおく。
「そうだな」
頷きつつ、嫌味をこめて笑い返してやる。
「そちらの隊長殿は無天だろう。推薦してもらえるよう、せいぜい尽くせ」
爬虫類のような瞳に俺を映し、彼は口を開く。
「お前のことは好かん。これからも」
嬉しい言葉だ。彼の発するなかでもこの上なく。
「安心しろ、俺もだよ。きっと、お前のことを好くことは死んでもないだろう」
「有難い。お前に好かれるなど、何よりの不幸だからな」
「それは俺の台詞だ」
それが、彼と最後に交わした言葉だった。
以後、高山田とはほぼ没交渉となった。有能だという評判は耳に届いていたが。
毎日顔を合わせる生活から解放される。そう考えると、俺の心も晴れ晴れとしたものだった。
ただ、最後の最後まで家のことを言ってくるところが、結局あいつだとそのときは苦笑した。
本当に何にもわかっていない、愚か者だ、と。
だからこそ、俺は高山田にはたとえ何があろうと負けたくなかった。




