プロローグ
「娘にこんなことを言うのも気が引けるのだけど、あなたを棄てるわ。三日後に」
冒頭からそんなセリフでスタートするあたり、伊達にこの私を二十年間も育てていない。わかっている、段取りを。物語の命とまで呼ばれる冒頭から誤解があっては悲しいので釈明しておくが、この場合の『棄てる』とは、ファミリー内でのみ通用する特別な隠語ではない。普通に、育児を放棄するという意味だ。まあ、育児されるような年齢でもないのだけど――育児されるような年齢でもなくなったから、棄てられるという訳でもある。
本日、三月二十日は合否発表の日だった。大学受験の。
ニ十歳なのに受験? と思われたかもしれないが、それに関しては想像の通りだと明記しておく。そして合否の結果に関しても、想像にお任せする。語って、自ら傷口を開きたくもないので。
世に溢れる浪人生は、ニ十歳の年の受験をラストチャンスと捉える人が多いと聞くが、我が家も多分に漏れず今年がラストイヤーだった。らしい。私としてはまた来年と闘志を燃やしていたところではあるが、支える側の家族にその気がなかったようだ。
女手ひとつで私を育て上げたさしものママも我慢の限界ということだろう。
受験はチームプレーなんて言葉がある。受験は蟲毒かもしれないが、孤独ではないという意味だ。感動する。が、逆説的に、ひとりでは戦えないという意味でもある。私はひと昔前のチート主人公ではないので、チームゲームにソロプレイで挑む能力はない。
まあ仕方ないか。
そんな風に割り切れないことは、先のママのセリフから明白だった。棄てると言われた。それも三日後に。猶予期間の絶妙な設定に、私はママの温情を感じた。愛情も。しかしそこに愛があったとしても、まさか棄てられるとは思っていなかった。私の人生はチート無双ものではなく追放ものだったということだろう。どっちみちチートスキルなど持ち合わせていないが。
受験を諦めるのはまあ、三回もミスったのだから当然のごとく受け入れるとして、棄てられる? そこまでされるのか。
「す、棄てるって……え? どういう意味? 私、この家を追い出されるの?」
「この家を追い出すし、お小遣いも止めるわ」
と、冷たい口調でママ。
「生きるということがどういうことなのか、世間に揉まれながら学んできなさい」
「いや、私、無理だよ。どうやって世の中で生きていくかなんてひとつも知らないし。お金の稼ぎ方だって知らないもん。バイトだってしたことないんだよ?」
「それも世間に揉まれながら学びなさい」
「世間に揉まれる前におじさんに揉まれることになるよ、おっぱいを」
「それもまた世を生きる術ということね」
娘に身体を売ることを許す母がそこにはいた。いてほしくなかった、そんな母。そして私も強がりを言った。私に揉めるほどのおっぱいはない。チビで貧乳で特別可愛くもないおぼこの生娘というのが、私、山内妃奈のステータスだ。どんなおじさんにだって需要がない。身体を売っても生きていけるか怪しい。
「ママ、後生だからお願いです。私を養ってとは言いません。でも社会復帰するまでの時間、ちょっとの間だけ支えていただけないでしょうか」
「もちろん。だから三日も与えたのよ」
「そっかぁ……ママにとって三日は『も』かぁ……」
納得だった。
ママはとてもせっかちな人間だ。せっかちな人間とはママのことであるとすら言える。そう考えると、三日の猶予にはやはり温情があった。愛情も。
しかし三日で社会復帰は不可能だ。というか三日でそれを完遂したらそれは復帰じゃない。ただの社会参入だ。
「あのね、ママはバリバリのワーキングウーマンだから理解できないかもしれないけど、私に三日で社会復帰は無理。無理よりのカタツムリ。受験に三回も失敗したようなロクデナシが、三日で世の中の荒波を生きて行けるようになるわけないじゃん」
「獅子は我が子を千尋の谷に落とすものよ。大丈夫、血の繋がりを疑いたくなるほどにあなたはダメな子だけど、それでもママが腹を痛めて生んだ子であることは紛れもない事実。窮地に陥れば才気に目覚めるはずだわ。ママのように」
「およそ母親から向けられていい暴言の許容量を大幅に超えた罵詈雑言だったけど、それには目を瞑るとして――そもそも三日で社会復帰は理論上不可能でしょ。まずバイトに応募したとしても面接する前に三日過ぎるよ。部屋を借りるなんて以ての外。衣食住のすべてに問題がある」
「人は水と空気と希望があれば生きていけるものよ」
「水と空気はなんとかなっても、希望がないよ」
もっと言うと空気も怪しい。息苦しい。現時点で既に。
「一度すべてを失うことで、改めて得られる物もあるの。あなたにはそれを経験してほしい。これが母の愛よ」
「母の愛が苛烈すぎる。娘を野垂れ死にさせることが愛なら、それは淘汰すべき悪だよ」
「でも、いつまでも部屋に籠って、推しのVTuberに貢いでいるわけにもいかないでしょ?」
「急に痛いところを突いてこないで。親が稼いだお金を推しに貢いでいることに、なんの罪悪感も覚えてないわけでもないから――わかった。お小遣いは差し止めでいい。だけど家から追い出すのだけは勘弁して」
「ダメよ。ママは一度こうと決めたらたとえ自分が間違っていたとしても決して曲げない、鋼の意思を持った女なの。鋼鉄の処女とはママのことよ」
「処女じゃないじゃん。景品表示法違反だよ。ママ、高校生の頃にあたしを生んだんでしょ?」
「そうね。初体験は中学生の頃だった」
「聞きたくないよ。親の性事情も、退去通告も。ねえお願い、家から追い出すのだけは勘弁して。三月に宿無し生活は死んじゃうよ。ママは腹を痛めて生んだ我が子が公園のベンチで雪を被りながら寝起きすることになることに、なんの罪悪感も感じないの?」
「ぶっちゃけ感じないわ」
「ぶっちゃけたなぁ……」
「そもそも三月に雪は降らないでしょう。話を盛るのはやめなさい」
三月に雪は降らないかもしれないが、外が寒いことに変わりはない。公園のベンチでひと晩過ごせば凍死とまでは言わないが、風邪を引くことは請け合いだった。
「そもそも、あなたなら雪が降ろうが槍が降ろうがひとりで生きていけるはずよ。なにせ、ママの子だもの。自慢の子宮が生んだ、自慢の娘だもの」
母親から自慢の子だと言ってもらえるのは、ことのほか嬉しいものだ。たとえ実態が伴っていなくても。実態が伴っていないというか、シンプルに虚言である。断っておくが、私は槍どころか花粉が飛ぶだけでも外に出られなくなる。雨が降っているから学校を休み、片頭痛がするから受験勉強をサボってしまう意志薄弱小娘というのが、ママ自慢の子宮から生まれてきた、山内妃奈という女の実態なのだ。
それにしても、今日のママはやけに厳しい。元々甘さなど持ち合わせていないママではあるけど、それでもバイトもしない浪人生を三年間も養ってくれた、海のように度量の広い女性のはずなのに。いや、だからこそだろうか。三年間も耐えたから、ついに堪忍袋の緒が切れたのだろうか。
これは説得は難しそうだ。家から追い出されるのは確定事項として、その後の身の振り方に思考を割いた方がよさそうだ、と内心諦めかけた瞬間のことだった。
「とはいえ、ママも鬼ではないわ」
あなたに可能性があるなら、もう少しの間だけ援助するのもやぶさかではない。
そんな馬主みたいなことを言って、ママは、私に一通の封筒を差し出してきた。なんだろうこれは。まさか小切手? お小遣いならぬ手切れ金として、私に人生をやり直すだけのまとまった資金を提供しようとしてくれている?
違った。
その中身は合格通知だった。サクラサクだ。ただし合格したのは、今日、今さっき落ちた大学の受験に、ではない。受けた覚えのないオーディションの書類選考通過の通知だった。
「輪廻転生……プロジェクト?」
なんてことだ、と思った。
輪廻転生プロジェクト――どう聞いても、怪しい宗教の匂いしかしない。仏教を基盤とした新興宗教が一枚噛んでいそうなネーミング。なんてことだ。私のママは、私の将来を憂うあまりそんなものに手を出してしまったのか。シングルマザーはそういったものにハマりやすいと聞いたことがあるけど、まさかあのママが……。
「宗教は関係ないわ。ちゃんと読みなさい」
「ちゃんと読む気にもなれないよ。目が滑って。文字も読めないし、ママの考えも読めない。これなに?」
「だから、輪廻転生プロジェクトよ。どうせあなたは受験に失敗するだろうと思って、親心でセカンドプランを用意しておいてあげたの」
その親心は受験の成功を祈る方向に向けてほしかったが、しかし祈りほどママに期待して無駄なものはないことをあたしは知っていた。ママは祈らない。神にも、仏にも。そんなママが宗教は関係ないというのなら、そうなのだろう。
私は今一度、通知書に目を通す。
書類選考通過に対する祝いの言葉を読み飛ばして、末尾に記された署名に視線を向けた。
株式会社Pr@yer CEO 阿久津荘子
その会社の名前を、私は世俗に疎いながらに知っていた。
株式会社Pr@yer。去年立ち上げられたVTuberタレントの運営が主要事業のベンチャー企業。現在の所属タレントは一期生の3人と二期生の4人を合わせた計7名。タレントの業務内容は主にYouTubeを中心にした各種配信プラットフォームでの配信活動。そして所属タレントはバーチャルアイドルとして視聴者を楽しませる、所謂VTuber事務所だ。
話が繋がった。輪廻転生プロジェクト――転生。
「書類選考通過って、もしかして……」
「そういうことよ。あなた、VTuberが好きなんでしょ? なら、なればいいじゃない。あなた自身が、憧れの推しに」
あっけらかんとした口調だったが、それだけに切り捨てるような口調だった。娘のことなのに、他人のことのような。いや、他人で間違いないのか。ママは私を棄てるのだから。母ではあっても、親ではない。もはや。
ママは続けた。
「書類選考に関しては、ママの力で通過させてあげたわ。あとはあなたの力でなんとかしなさい」
「私の力で?」
「通ったのは書類選考だけよ。あとは独力で切り抜けるの。ママに頼ることなく。それが自立するということよ」
自立。
その言葉を使われると、弱い。私だってなにも考えずにママご飯を食べていたわけではないのだ。自立自活しなくてはならないと、常日頃から思っていた。受験のためだからと言い訳して目を逸らしてきたが、それも失敗した今、ついに正対するときがきたのだ、自立と。そして自分と。
「……わかった。黙って家を追い出されるくらいなら、挑戦だけでもした方がマシだもんね」
「良い顔をするじゃない。ママ似の良い顔を」
自画自賛ともとれることを言って、ママはにやりと笑った。
にやりと笑われても、カッコいいだけだ。
「なら、明日に備えて今日はゆっくり英気を養いなさい。受験に失敗したなんて、どうでもいいことはもう忘れて」
「うん」
……うん?
「え? 明日?」
ガバッと、通知書にもう一度視線を向ける。すると、先ほど読み飛ばした文章の中に『三月二十一日、弊社にお越しください』という文章を発見した。三月二十一日。くどいようだが、今日は三月二十日だ。
「いや、無理だよママ! 三日で社会復帰するより無理! VTuber界隈ってね、今、すごい大きな規模の市場なの。文字通り強烈な才能を持ったタレントたちが魍魎跋扈する世界だよ。競争率だって大学受験の比じゃないの。そもそもPr@yerって……なんでよりによってそんな大手に応募しちゃったの? たしかに事務所自体は新しいけど、所属タレントが軒並み大人気で新進気鋭の有望事務所じゃん。一期生の法水法被ちゃんは登録者百万人目前だし、二期生の碧落へいろちゃんは、デビューからたったの三か月でテレビCMに起用された実績を持ってるの。ママは知らないかもしれないけど、それくらい超大手なの」
「それ、オタク特有の早口ってやつ?」
「緊張感を! 持てって言ってるんだよ!」
「ママが緊張感を持つ方がおかしいでしょ。あなたの問題なんだから。応募したのはママだけど。家族が勝手に履歴書送っちゃってぇ……て、ひと昔前のアイドルみたいね。あれ、絶対自分で応募してると思わない?」
「どうでもいい。そんな些事に目が向かない。目の前のオーディションをどうこなすかで手一杯だよ。ああ……考えれば考えるほど無理な気がしてきた。どうせ無理にしても、オーディションで大こけして恥をかくのが嫌すぎる。落とされるにしても、せめて努力賞は欲しい。私、なにか披露できるような一芸ってなかったっけ……」
既に合格することではなく、恥をかかないことに思考がシフトしているところが、もう合格できない奴の思考であり、そして受験に失敗した理由でもあるような気がするけど、それこそ些事だった。
もう心臓が早鐘を打っている。たしかにママが緊張するのはおかしいかもしれないが、私が緊張するのはなにもおかしくない。勢い挑戦だけでもした方がマシなんてことを言ってしまったが、今後の人生の自尊心を守るために、挑戦すらしない選択肢を取ることも考慮するべきなのではないかと思えてくる。
いや、いやいや。
逃げるな、私。挑戦すらしなければ、家を追い出されて路頭に迷うことになるのだから。落とされても同じ。考えるべきは、逃げることでも上手く負けることでもなく、来たる明日のオーディションを通過し、見事デビューすることなのだから。
ライバルとて只者ではなかろう。煌めくような才気に溢れた女たちが、私と同じ席を狙っているに違いない。だが、それらを押し退けて輪廻転生の椅子に腰を下ろすのはこの私だ。なあに、既に今までの人生は棄て去ったようなもの。その一点に措いてなら、私は他のライバルたちに一歩リードしていると言える。
勝つのは私、この山内妃奈だ。いや、私はこの二十年も連れ添った名前すら棄てる。人生をやり直すんだ。生まれ変わって。
そうと決まれば――意志が決まれば。
「ゆっくり英気を養ってる場合じゃない。オーディションの準備しなきゃ!」
そう言って、自分に言って、拳を掲げた私に、
「オーディシの準備? そんなの必要ないわよ」
またしても、あっけらかんとママ。
しかし今回に関しては、どうでもいいからそういう口調になったわけではなく、ただ単に、単調に、事実を陳列するためにその口調になったようだった。
ママは言う。
「輪廻転生プロジェクトはね、未来のVTuberたちによるデスゲームなんだから」
「………………は?」
デスゲーム? 椅子取りゲームではなく?
VTuberというものに造形の深くない作者の書いた稚作ですが、よろしくお願いします




