エピローグ テウマの湯と、火酒の夜(最終話)
テウマの温泉は、カイの仕業だった。
あの男は何でもやる。スコップ1本で砂漠を耕すような奴だから、温泉の1つや2つ、驚くには値しないのかもしれない。
だが実際に湯に浸かると、驚いた。
「……こりゃ、すげえな」
岩場をくり抜いた露天の湯船から、マ・カレシュの城壁が遠くに見える。
かつて俺が毎晩登っていたテウマの斜面が、今は湯気の向こうにぼんやりと霞んでいた。
湯は海水の匂いがする。
肩まで沈むと、身体の芯から力が抜けていく。
この宿泊券は、カイとカオルから届いたものだった。
添えてあった手紙には、カオルの字で「たまには休め」とだけ書いてあった。
あいつらしい。
目を閉じる。
湯の熱が骨に染みて、思考がゆっくりとほどけていく。
地球に戻らないと決断してから、4年が経った。
マ・カレシュは変わった。
化石水のおかげで東区画の緑化は順調に進み、俺の灌水設計が、今度こそ正しく機能している。
領主の農業顧問。肩書きはそうなっているが、実態はもっと泥臭い。
塩分のモニタリング。土壌の改良計画。苗木の品種選定。
そして蒸留所の経営。
火酒の売り上げで稼いだ金は、ほとんど旧市街に注ぎ込んだ。
学校を1つ建てた。
バシールの工房の隣に、排水溝と簡易浄水設備を引いた。
おかげで旧市街の疫病が目に見えて減った。
ジャミーラは領主の補佐役として、行政の実務を一手に引き受けている。
補佐とは名ばかりで、実質的にマ・カレシュを動かしているのは彼女だった。
あの琥珀色の目で睨まれたら、領主だって口を噤む。
忙しい日々だった。
2人とも朝から晩まで走り回り、すれ違いの連続だった。
だが——息子が生まれた。
琥珀色の目。
俺に似た、土をいじりたがる手。
あいつが笑うたびに、俺とジャミーラの間に流れる空気が柔らかくなる。
俺たちの宝物だ。
カオルは、半年に1度は遊びに来る。
「マークの火酒と、あの屋台の羊肉串。あれがないと禁断症状が出るのよ」
本気で言っているのか冗談なのかわからない顔で、カオルは屋台のカウンターに座り、火酒を水のように空けていく。
カイとレイラ、セリアも一緒に来る。
カイは相変わらず酒に弱い。コップ1杯で顔を赤くして、隅の方でうずくまっている。
だが女たちは強かった。
カオル、レイラ、セリアの3人が飲み比べを始めると、バシールですら顔色を変える。
「おい、マーク。お前の知り合いの女どもは化け物か」
「知らねえよ。俺に言うな」
旧市街の狭い屋台に、笑い声が溢れる。
こんな夜が、1年に何度かある。
それだけで十分だった。
湯に浸かりながら、そんなことを思い返していた。
目を閉じると、テウマの岩場が浮かぶ。
あの夜。
月明かりの下で、野生のリンゴの幼木を見つけた瞬間。
手が震えていた。
あの木がなければ、俺はゴミ溜めで死んでいた。
酵母も見つからず、バシールに声をかけることもなく、火酒も生まれず、カイとの出会いもなかった。
全部、あの1本の木から始まった。
——クロエ。
名前を思い浮かべる。
苗木ではなく、ハドソン渓谷にいる、本物のクロエ。
たまに思い出す。
秋の農道。古いピックアップトラック。
「早く帰ってきなよ」と笑っていた、あの声。
もう帰れない。
だが、後悔はしていない。
彼女が、あの農道で、誰かと幸せに暮らしていることを祈るだけだ。
「またクロエさんのこと考えてるのね」
目を開けた。
湯船の縁にジャミーラが腰掛けていた。
髪を後ろでまとめ、湯気の向こうから琥珀色の目がこちらを見ている。
「……考えてない」
「嘘。その顔は、いつもクロエさんの時の顔よ」
「いつもって何だよ。そんな顔してないだろ」
「してる。鼻の横の皺が1本増えるの」
見透かされている。完全に。
「……ちょっとだけだ」
「知ってる」
ジャミーラは小さく笑った。
沈黙が流れた。
だが気まずい沈黙ではなかった。
4年かけて積み上げてきた、言葉がなくても壊れない種類の沈黙だった。
「そういえば」
俺は話題を変えた。
「お前、最近1人で屋台に行ってるらしいな。親父から聞いた。ボトルキープまでしてるって?」
「……あら。バレてた」
「バレてたも何も、俺の酒だぞ。行く時は誘え」
ジャミーラは湯気の向こうで目を逸らした。
「無理ね」
「なんでだよ」
「あなたが行くと、息子の面倒は誰が見るの?」
「……」
「私の息抜きの時間くらい、黙って留守番してて」
正論だった。
反論の余地がなかった。
湯から上がり、脱衣所で髪を拭いていると、ジャミーラの声が飛んできた。
「マーク! カイたちが来たわよ!」
「おう、待ってたぜ」
「……イザベルも一緒みたい」
手が止まった。
「……え? 聞いてないんだけど」
「カオルの手紙には書いてなかったわね。サプライズじゃない?」
サプライズって。
あの女のどこがサプライズだ。心臓に悪い。
急いで着替え、宿の玄関に出ると、カイとカオルが並んで立っていた。
カオルの手には例によって火酒の瓶。レイラとセリアが後ろで笑っている。
そして——その奥に、見覚えのある人形のような顔。
イザベルが、俺の息子を抱いていた。
息子はイザベルの銀髪を握り、無邪気に笑っている。
イザベルの顔には、困惑とも諦めともつかない、見たことのない表情が浮かんでいた。
「……この子、離してくれないんだけど」
「あー……すまん。人見知りしない子でな」
「そういう問題じゃないのよ。髪が抜けるわ」
カオルが横から口を挟んだ。
「いい絵ね。元プロデューサーが赤ちゃんに髪を引っ張られてる」
「笑い事じゃないわよ」
笑い事だった。
俺は声を出して笑った。
テウマの山から吹き下ろす風が、温泉の湯気を散らしていく。
この星に来て、6年。
ハドソン渓谷のリンゴジュースの味は、もう思い出せない。
代わりに今、目の前にある。
火酒と、仲間と、息子の笑い声と、ジャミーラの琥珀色の目。
それで十分だった。
完
マーク・スキナーさんはアフリカで実際あった人の名前です。
彼はアメリカンピースコー(アメリカ平和部隊)というボランティアに参加していた
農業技術者でした。
彼とは、ものすごい山奥で出会いました。
村の子どもとリヤカーを一緒に引いていて、坊主頭でやせ細った姿からは
アメリカ人とは分かりませんでした。
物語のマークはクロエさんのもとに帰らずジャミーラと暮らしました。
実際、出会ったマークさんも帰りたくないと言ってたので、それが重なって
帰さない結末にしたんおですが、どっちがよかったのかは
本人しか分かりません。
それは皆さんにも考えてもらいたいなと思っています。
地球から来た人たちの話はこれで終わりです。
あとは悩めるエージェント達の旅が少しだけ続きます。
正しいことってなんだろう。私が書いたかったテーマでもあります。
引き続きお付き合いいただけると嬉しいです。




