第五十一話 宮司家の沈黙、旧家の痩せた誇り
古い家というものは、不思議なもので、金が尽きてもすぐには崩れた顔を見せない。
北の浜手の古社に仕える宮司家も、そういう家だった。
館から社へ向かう坂を外れ、さらに横へ折れた先に、小さな木戸がある。塀は低く、潮風に削られ、木戸の板も白く乾いている。庭と呼べるほどの広さはない。井戸と、申し訳ばかりの菜地と、風に鳴る竹。それだけだ。豊かさとはほど遠い。だが荒れてはいない。むしろ、貧しいからこそ崩せぬものだけを残しているような家だった。
縁側はきちんと拭かれ、庭先の箒目も乱れていない。古いが、投げやりではない。足りぬものは多い。だが捨ててはいない。その意地が家の骨に残っていた。
小夜は木戸の前で一度だけ立ち止まり、息を整えた。
「行くわ」
そう言った声は、いつもより少し低かった。
「一人でいいのか」
卜伝が問う。
小夜は頷く。
「ええ。男が前に立つと、それだけで向こうは閉じる」
「俺も駄目か」
新九郎が聞く。
「あなたは特に駄目」
「何でだよ」
「顔が“押しかけて来ました”って言ってる」
「ひでえな」
「本当でしょう」
「……否定はしづらい」
「珍しい」
「たまにはある」
そのやり取りの横で、道賢が小さく鼻を鳴らした。
「宮司家は、館よりもよほど面倒だ」
「なぜ」
卜伝が聞く。
「古いからだ」
道賢は答えた。
「古い家は、金で折れることもある。だが、金で折れたと知られるのを何より嫌う」
「……」
「誇りだけが残っておる家は、かえって口が重い」
「分かる気がします」
卜伝は言った。
小夜はそこで木戸を叩いた。
返事はすぐには来なかった。だが、しばらくして内から足音がし、年配の女が顔を見せた。身内の者だろう。宮司家の女房か、あるいは近しい親類か。着物は質素で、色も褪せている。けれど立ち方に軽さがない。こちらを一目見て、すぐに“どこまで喋るか”を測る顔をした。
「どなたさま」
低い声だった。
小夜は礼を重ねすぎなかった。こういう家に対して、愛想や下手な丁寧さはかえって軽く見えるのだろう。最初から、見たいところだけをまっすぐ見にいく声だった。
「少し、お聞きしたいことがあって参りました」
「社のことなら、お社へ」
「社のことでもあるけれど、ここでしか聞けないこともあると思って」
女の目が、そこで少しだけ細くなった。
小夜は間を置かずに続ける。
「最近、館の使いがよく出入りしているでしょう」
女は答えない。
それでも小夜は急がない。黙られた時にすぐ言葉を足すのではなく、その黙り方そのものを見ている顔だった。
「何のお話か分かりかねます」
やがて女が言う。
「そう言うと思って来ました」
小夜は答えた。
「でも、分からない顔じゃない」
「……」
「私も、この土地の空気くらいは読むの」
「どこのお方」
「どこかの誰かです」
「それでは話せません」
「そうでしょうね」
小夜は頷いた。
「でも、館の側から“由緒の確認”みたいなことを求められているなら、もう社だけの話じゃない」
「……」
「この土地の古さそのものが、誰かの家の顔にされかけてる」
女の表情が、そこでほんのわずかに動いた。
怒りとも、焦りともつかぬ小さな揺れだった。つまり図星なのだと、卜伝にも分かった。
少しして、女は木戸をもうわずかにだけ開けた。
「長くは話せません」
「十分です」
「中ではなく、ここで」
「それで構いません」
小夜は中へ入らなかった。木戸越しのまま立ち、相手が下がらずに済む距離を守って話す。そのあたりの勘は、卜伝にはまだ真似できないものだと思った。
卜伝たちは少し離れた木立の陰にいた。はっきり会話が聞こえる位置ではない。だが、小夜の声の調子と、木戸の向こうの女の顔色だけで、話がどこまで進んでいるかはなんとなく分かる。
小夜は最初、社そのものの話から入ったらしい。
祭礼。浜の者たちの寄進。近ごろの社の具合。古い社にありがちな、だが外から来た者にはすぐには踏み込めぬ話題を一つずつ辿る。その上で、少しずつ館の名を混ぜていく。急に核心へ行かない。だが決して遠回りしすぎもしない。
やがて、女が最初よりも少しだけ長く言葉を返すようになった。
風が吹く。小夜の袖が揺れる。木戸の向こうの女が、一度だけ視線を庭の奥へ逸らす。その一瞬で、小夜がさらに踏み込んだのだろうと分かった。
しばらくして、小夜は戻ってきた。
顔は静かだったが、目の奥には怒りがあった。表へ出さぬだけで、かなりはっきりと。
「やっぱり?」
新九郎が聞く。
「やっぱり」
小夜は答えた。
「館の側から、“由緒の確認”が来てる」
「どんなふうにだ」
卜伝が問う。
「露骨には言わない」
小夜は言った。
「でも、“昔から館と社に縁があった話は残っていないか”“この土地の古い支配筋と、今の波多野家が繋がるような筋はないか”って、そういう聞き方」
「十分露骨だろ」
新九郎が言う。
「言葉だけは丁寧なの」
小夜は吐き捨てるように言った。
「だから余計に悪質」
「……」
「しかも、この家、かなり苦しいわ」
「宮司家がか」
卜伝が問う。
「ええ」
小夜は頷いた。
「見て分かる通り、貧しい。でも、それだけじゃない」
「他に何がある」
「断り続ける余裕が、もう薄い」
「……」
「それでも簡単には売らない。売れない。だって、この家に残ってるものは、たぶんもう“古い名”くらいしかないから」
卜伝は宮司家の木戸を振り返った。
痩せている。だが崩れていない。
崩してしまえば、本当に何も残らぬと知っている家なのだろう。
道賢が低く言う。
「そういう家が一番きつい」
「ええ」
小夜が言った。
「金で楽になる道はある。でも、その代わりに“うちはこういう家です”って言えなくなる」
「それでも館は手を伸ばす」
卜伝が言う。
「そう」
小夜の声が冷える。
「正面から奪うんじゃない。まず“昔から縁があったことにしたい”って顔で来る」
「嫌なやり方だな」
新九郎が言う。
「ええ」
小夜は頷いた。
「でも、それだけじゃ終わらない」
彼女はそこで少し間を置いた。
「宮司家の蔵に、古い記録がある」
「予想はしていた」
道賢が言う。
「社の由緒、祭礼の記録、この土地の旧い支配筋に関わる書付……そういうものね」
「やっぱり」
卜伝が言った。
「で、その一部に」
小夜は続けた。
「最近、抜き書きされた痕があるらしい」
新九郎が眉を寄せる。
「抜き書き?」
「書そのものを持っていかれたわけじゃない」
小夜は言う。
「でも、ある部分だけが写し取られた形跡がある」
「どの部分だ」
道賢が問う。
「社の由緒」
「……」
「それと、この土地の古い支配筋」
「……」
「館がいま欲しがってる“縁”に使えそうなところだけ」
卜伝はそこで、胸の内へ冷たい怒りが落ちていくのを感じた。
箱を盗む。
兵法書を流す。
由緒書を飾る。
ここまででも十分に質が悪い。だが今回はさらに違う。
現物を奪うのではなく、現物の中から都合のいい意味だけを抜き出し、自分たちの家の顔に貼りつけようとしている。
「書は盗まれず」
卜伝が低く言う。
「意味だけが抜かれる」
小夜は、はっきり頷いた。
「そう」
「……」
「それが、いちばん嫌なのよ」
「分かります」
卜伝は言った。
「本物は残る」
「ええ」
「だが、その意味だけが別のところで使われる」
「そう」
「止めにくいな」
新九郎が言う。
「箱なら奪い返せる。書なら取り返せる。だが話だけ持っていかれたら、どうやって叩き落とす」
「そこが今回の厄介さでしょうね」
小夜は答えた。
道賢が杖の先で地面を軽く叩いた。
「だが、意味だけが抜かれたのなら」
三人がそちらを見る。
「現物はまだここにある」
「……」
「抜かれた筋と、向こうがどう使おうとしているかが分かれば、偽りの縁は崩せる」
小夜は息をつき、それから頷いた。
「そうね」
「どこを使い、どこを省き、どう“昔からそうでした”って顔を作るか」
道賢は続けた。
「そこを見つければいい」
「なら」
卜伝が言った。
「次は、蔵の記録と、館が何を使おうとしているかを探る」
「そういうこと」
小夜は答えた。
その時、坂の下から人の気配が上ってきた。
館の使いだ。手に包みはない。だが様子を見に来た足だった。四人は自然に会話を切り、その場から離れる。
浜へ戻る道の途中で、新九郎が言った。
「前より、もっと嫌な話になってきたな」
「ええ」
小夜が答える。
「品を動かすだけじゃなく、話の筋まで売り始めてる」
「真壁の流れか」
卜伝が問う。
「たぶん」
小夜は頷いた。
「少なくとも、“古い名をどう料理すれば家の顔になるか”を知ってる者が向こうにいる」
「料理、か」
卜伝は小さく繰り返した。
「ずいぶん嫌な言い方ですね」
「嫌なことをしてるんだから、これくらいでちょうどいいわ」
海のほうを見ると、白波が相変わらず岩へ砕けていた。荒い。だがその荒さの下に、長くこの土地へ積もってきた“名”がある。館はそれを欲しがっている。箱や書ではなく、土地の古さそのものを。
ならば、守るべきものは前の章よりもさらに見えにくい。
だが見えにくいからこそ、見失ってはならぬのだと卜伝は思った。




