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『剣聖・塚原卜伝 ――鹿島立ちの剣、戦国を渡る』  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一


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第四十五話 宴の夜、名を飾る灯

 夜の屋敷というものは、外から見ると一つの生き物に見える。


 門に灯が入り、庭に人が動き、座敷の奥で笑い声が起きる。膳が運ばれ、酒が継がれ、誰かが誰かへ頭を下げる。その全部が、まるで一つの腹の中で起きているように見えるのだ。だが実際には違う。表で笑っている顔と、裏で息を詰めている顔は別々にあり、しかもその二つが互いに見ぬふりをしながら同じ屋敷を支えている。


 今夜の屋敷も、まさにそうだった。


 正門のほうは、もう祝いの顔になっている。


 門前の灯籠が柔らかく光り、客の草履が並び始め、下働きの者たちは忙しげに行き来している。表座敷へ入る者の顔には、どれも程よい笑みがあった。祝いの席に招かれた者の顔だ。酒の匂い、焼き物の匂い、煮た魚の匂いまで、風に乗ってかすかに流れてくる。


 だが南の脇門へ回ると、途端に空気が変わる。


 灯は少ない。

 声も低い。

 足音だけが、やけに気をつけて立てられている。


 卜伝たちは、屋敷の裏手に近い古い木塀と物置小屋の陰を使って、それぞれ持ち場についていた。


 小夜は、脇門の内側へ通じる女中筋の動線を見ている。剣を持たぬ代わりに、誰がどこへ物を通し、誰が帳面を持ち、誰が嘘の顔を作るかを見る役目だ。今夜の小夜は、いかにも町の下働きの娘に見える着方をしていた。華やかさもなく、目立つ柄もない。だが、その目だけは誰よりも鋭い。


 新九郎は、脇門の外手前、道幅が狭まるところに半身を隠している。表向きは暗がりの荷置きにしか見えぬ場所だが、そこは人が二人担ぎの箱を横に振れぬ、ちょうど“食う”のに向いた位置だった。


 道賢は、誰にもはっきり見えぬところにいる。海側へ抜ける細道か、塀の裏手か、あるいはもっと別のどこかか。あの坊主は、姿が見えぬ時ほど働く。


 そして卜伝は、脇門と道の継ぎ目――外から来た荷が、この家の“内”のものへ変わる、その一瞬を見られる位置へいた。


 今夜、自分が止めるべきはそこだ。


 剣を振るう相手そのものではない。

 長箱が、この家の“由緒ある品”の顔を持つ瞬間。

 その一歩手前。


 正門のほうから、笑い声がひとつ大きく起きた。


 祝いの席はもう始まっているらしい。


 その音を聞きながら、小夜が塀越しに低く言った。


「女中はもう中へ取られた」

「脇は薄くなるか」

 卜伝が問う。

「ええ。表が賑やかになるほど、裏は“すでに整ったもの”として扱われる」

「つまり、今だな」

 新九郎が囁くように言う。

「たぶん」

 小夜が答えた。

「でも、まだ荷は見えてない」

「見えてからでは遅い場面もある」

 卜伝が言う。

「……」

「帳面持ちは?」

「ひとり、脇門の内側にいた」

 小夜がすぐ返す。

「若い手代。表の男たちとは違って、こっちへ目が慣れてない」

「崩れるか」

「たぶん。帳面を持つ役って、荷より“間違えないこと”に神経がいくから」

「なら、そこが穴ね」

「ええ」


 そのやり取りをしている間にも、表の宴は進んでいく。


 招かれた商人らしき声。

 どこかで盃が触れる音。

 下働きが走る気配。


 祝いの席というのは、人の気を正面へ吸い寄せる力がある。皆、見えているものを見ようとする。だから裏で動くものは、逆に見えにくくなる。


 やがて、道の向こうでかすかな物音がした。


 担ぎ棒が、何かへ軽く当たった音だった。


 卜伝の背筋が静かに張る。


「来る」

 と、小夜が囁いた。


 暗がりの先から、まず人影が二つ現れた。


 二人担ぎ。

 足の運びは揃っているが、荷の重さより“揺らさぬこと”に気を使っている歩き方だ。

 その後ろに、帳面を抱えた若い手代。

 さらに少し離れて、御用商人の番頭らしい男。

 そして、そのもっと後ろ、闇のほうに溶け込むように別の気配が二つ。


 卜伝は、あれが護りだとすぐに分かった。


 箱は細長い。


 札は今の位置からは読めぬ。だが、もう読めずともよかった。

 あれが今夜、人前へ出される“とっておき”であることは明らかだった。


 祝いの品の顔をして、偽りの由緒を運んでくる箱。


 それが、いま脇門へ向かっている。


「……本当に来たな」

 新九郎が低く言う。

「ええ」

 卜伝も答える。

「ここから先、正面の護衛は?」

「二人増えた」

 小夜が言う。

「でも、表へ取られた分、道の外側は薄い」

「よし」

 新九郎が息を整える。

「こっちは食える」

「食いすぎないで」

 小夜が釘を刺す。

「分かってる」

「本当に?」

「今夜は本当だ」

「その言い方、ちょっとだけ信用しづらい」

「ひでえな」


 卜伝は長箱を見ていた。


 それはまだ、ただの荷だ。

 御用商人の倉から出され、脇門へ向かう途中の荷。

 だが門を越え、帳面がつき、屋敷の者の手へ渡った瞬間、それは“この家の由緒ある品”の顔を持つ。


 今夜止めるべきは、まさにその境目だ。


 その時、視界の端で別の影が動いた。


 塀の外、脇門へ続く道のさらに奥。

 灯の届かぬところに立つ、静かな人影。

 桐生だ。


 やはり来ている。


 そして、あの男は今夜も、ただ斬りに来た顔はしていない。測る顔だ。こちらがどこへ目を置き、何を守ろうとするか、その“心の置きどころ”を見に来ている。


 だが今は、そちらを見ない。


 前話でようやく、自分の中で定まったことがある。


 誰の顔を守るために立つのか。

 その問いに、完全な答えはまだない。

 だが少なくとも、今夜止めるべきは、偽りの顔が立つことだ。


 卜伝は、桐生へ視線をやらぬまま、小さく息を吐いた。


 その呼吸の変化に気づいたのか、小夜が塀の陰からほんの少しだけこちらを見る。言葉はない。だが、「いま何を見ているか」を確かめる目だった。


 卜伝は小さく頷いた。


 分かっている。

 真壁でも、桐生でもない。

 まずは長箱だ。


 道の向こうでは、祝いの席の華やかな灯がさらに明るさを増していた。客が揃い始めたのだろう。めでたい顔が整うほど、裏の道はもっと静かになる。皮肉なものだ、と卜伝は思う。正しい顔を大きく見せるために、嘘の顔はいつもひっそりと運ばれる。


「中の女中、二人増えた」

 小夜が囁く。

「どっち側だ」

 卜伝が問う。

「門を通る荷を“もう決まったもの”として扱う役」

「帳面持ちは?」

「相変わらず落ち着いてない」

「崩れる」

「ええ。たぶん」


 新九郎が手の中で軽く指を動かす。刀へ行く前の癖だ。この男は、前へ立つ時ほど不思議と静かになる。


「卜伝」

 低く呼ぶ。

「何です」

「お前、今夜は本当にまっすぐ行けよ」

「どういう意味です」

「桐生とか、変な影とか、そういうのがいてもだ」

 新九郎は言う。

「先に箱見ろ」

 その一言が、妙にまっすぐ胸へ入った。


「ええ」

 卜伝は答えた。

「そのつもりです」

「ならいい」

「珍しいですね」

「何が」

「あなたが、そういう言い方をするの」

「うるせえ」

 新九郎は小さく鼻を鳴らした。

「たまにはする」


 その時、ようやく長箱が“最後の曲がり”へ差し掛かった。


 道幅が狭くなり、担ぎ手は自然と縦に並ぶ。

 脇門の陰へ、一度だけ死角ができる。

 そこで受け手が変わる。

 帳面持ちが寄る。

 門の中の者が出る。


 継ぎ目だ。


 卜伝はそこで初めて、今夜の戦いが“ただ奪い返す”ためではないことを、骨の近くで理解した。


 物を取り返すだけなら、もっと早く斬り込むこともできる。

 敵を倒すだけなら、正面から押し潰すこともできる。

 だが今夜、止めたいのはそうではない。

 由緒が、嘘のまま“この家の顔”になる、その一瞬だ。


 だからこそ、ここまで待った。


 だからこそ、今この長箱が脇門へかかる直前が、最も重い。


 正門のほうで、祝いの声がひときわ高く上がった。


 それは、この家の夜が今ちょうど表で整ったという合図のようにも聞こえた。

 ならば裏も、いま動く。


 長箱が、脇門の影へ入ろうとする。


 卜伝は、静かに刀の柄を握った。


 今夜の本当の始まりは、ここからだった。

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