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『剣聖・塚原卜伝 ――鹿島立ちの剣、戦国を渡る』  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一


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第四十四話 桐生の問い、梶原の殺気

 祝いの席の灯は、正門のほうから順に明るくなっていった。


 脇門のこちら側までは、その光は届かない。届かぬが、気配だけは伝わってくる。人が集まるざわめき、酒を運ぶ足音、誰かの愛想笑い、膳の触れ合う小さな音。表では今、めでたい夜が始まろうとしているのだろう。


 だが南の脇門へ続く細い道は、その賑わいから切り離されていた。


 塀が影を深くし、灯は間を開けて置かれ、通る者の足音だけがやけに耳につく。ここは祝いの顔ではない。品の顔が通る道だ。そして今夜、この道を通る長箱が“由緒ある品”として人前へ出る前に止めねばならぬ。


 卜伝は塀の影に身を寄せたまま、前方の闇を見ていた。


 さきほど感じた視線は、もう隠されていなかった。

 見ている。

 こちらの位置も、間も、息の揃い方も。


「出てこい」

 卜伝が低く言った。


 返事はすぐにはなかった。だが次の瞬間、脇門へ続く道の曲がりから、ひとつの影が静かに現れた。


 桐生だった。


 相変わらず、立ち方に無駄がない。梶原兵庫のような露骨な殺気もなければ、町人に紛れるような緩さもない。ただ、こちらと場を同時に見ている立ち方だ。敵意を隠さぬくせに、敵意だけで前へは出てこない。


「やはり、ここに立ったか」

 桐生が言う。


 声は低い。風と祝いのざわめきのあいだへすっと入ってくる声だ。


「お前もな」

 卜伝が返す。

「ここで何を見る」

「お前だ」

「荷ではなく?」

「荷も見る」

 桐生は答えた。

「だが今夜、お前が何の顔でここに立つかのほうが興味深い」


 塀の陰で小夜がわずかに息を止めた気配がした。新九郎は、今にも飛び出しそうな空気を押さえている。道賢だけが、相変わらず海辺の古木のように気配が薄い。


 卜伝は桐生から目を外さずに問う。


「何の顔だと見える」

「そうだな」

 桐生は少し首を傾けた。

「前なら、“真壁様へ届きたい若造の顔”だった」

「……」

「河口では、“流れを断つことを覚えた顔”になっていた」

「……」

「海前の蔵では、“相手そのものより喉を見ている顔”になっていた」

「よく見ているな」

 卜伝が言うと、

「見るのが役目だ」

 と桐生は答えた。


 嫌な男だ、と卜伝は思う。


 梶原兵庫は分かりやすい。押し潰しに来る。前へ出てくる。気に食わぬと顔に出る。だが桐生は違う。こちらの変化を、他人事のように、しかし決して見逃さぬ目で拾っていく。


「では今は?」

 卜伝が問う。


 桐生は少しだけ黙った。


 風が塀の角を撫で、脇門の向こうからかすかに笑い声が漏れる。祝いの席は、もう半ば始まっているらしい。


「今夜のお前は」

 やがて桐生が言った。

「誰の顔を守るために立つ」

「誰の顔?」

 卜伝が繰り返す。


「そうだ」

 桐生の声は静かだった。

「鹿島の名か。盗まれた品の本来の顔か。それとも、自分が剣を振るう理か」

「……」

「あるいは、ただ“気に食わぬ”という怒りか」

 そこで小夜が、塀の陰から低く言った。


「相変わらず嫌な聞き方するわね」

 桐生の目が、卜伝から少しだけ小夜へ移る。


「娘、お前はそういう顔をしていない」

「どういう意味」

「お前は最初から“何を止めるべきか”を見る顔だ。守る顔より、崩す顔に近い」

「褒めてるつもり?」

「半分は」

「便利ね、その言い方」

「便利なものは使う」

 桐生は道賢みたいなことを平然と言った。


 新九郎がたまらず鼻を鳴らす。


「おい、気に食わねえな」

「お前は分かりやすい」

 桐生は即座に返す。

「前で食い止める顔だ。良くも悪くも」

「良くも悪くも、って何だ」

「褒めている」

「信用ならねえ褒め方だ」


 そうしたやり取りの最中でも、卜伝は桐生の問いを頭の中で繰り返していた。


 誰の顔を守るために立つ。


 鹿島の名。

 盗まれた品の本来の顔。

 自分の剣の理。

 あるいは怒り。


 どれも間違いではない。

 だがどれか一つだけでもない。


 卜伝は答えた。


「偽りの顔を立たせぬためだ」

 桐生の目がわずかに細くなる。

「ほう」

「今夜、脇門を通る長箱が、どこの流れを装い、どんな由緒で人前へ出ようとしているか、もう分かっている」

「……」

「なら、それを“この家の顔”に変える瞬間を止める」

「つまり、守るのではなく」

「通さぬ」

 卜伝は言った。

「その結果、鹿島の名も守ることになるなら、それでいい」

「自分の怒りは?」

 桐生が問う。

「ある」

 卜伝は即答した。

「だが、怒りだけでここには立っていない」


 桐生は、そこで初めて少しだけ本気で面白そうな顔をした。


「変わるものだな」

「お前に言われたくはない」

「そうだろう」


 その静かなやり取りを、別の気配が断ち切った。


 今度は隠そうともせず、殺気が前へ出てくる。道の向こう、脇門のさらに奥へ続く細い暗がりから、重たい足取りが近づいてきた。


 新九郎が肩を鳴らす。


「こっちも来たか」

 小夜が低く吐く。

「最悪」

 卜伝は言葉にはしなかったが、同じことを思った。


 梶原兵庫だ。


 闇の中でも分かる。あの男は殺気を隠さぬ。むしろ見せつけるように歩く。押し潰す兵法の持ち主らしく、まず相手に“前から来る”ことを知らせるのだ。


「桐生」

 梶原が低く言う。

「勝手に喋るな」

「少し測っていただけだ」

「測る必要などない」

 梶原は言い捨てるようにしながら、卜伝へ目を据えた。

「真壁様の前へ出るな」

「またそれか」

 新九郎が吐き捨てる。

「何度聞いても腹が立つな」

「黙れ」

 梶原の声には、相変わらず露骨な敵意があった。

「お前はあとだ」

「その言い方、前にも聞いたな」

「何度でも言ってやる」


 桐生と梶原。並ぶと、その違いがいやでもよく分かる。


 桐生は測る。

 梶原は押し潰す。

 桐生は半歩引いて場を見る。

 梶原は半歩どころか一歩前へ出て、まず相手の息を詰まらせに来る。


 同じ真壁配下でも、まるで剣の質が違う。


「今夜は祝いの席だぞ、梶原」

 桐生が言う。

「だから何だ」

「少しは静かにするかと思った」

「祝いの席だからこそだ」

 梶原は答える。

「余計な虫は、入る前に叩き潰す」


 そう言いながら、一歩前へ出る。


 新九郎がすぐ前へ出かける。だが小夜がその袖を掴んだ。


「まだ」

「分かってる」

 新九郎は低く返したが、目はもう梶原から外れていない。


 卜伝は、その二人を見比べた。


 敵は剣だけでなく、心も崩しにくる。


 これもまた、第四章へ入ってはっきりしてきたことだ。正面からの圧、測るような問い、挑発、怒り。どれに引かれても、長箱と脇門から目が逸れる。それが向こうの狙いなのだろう。


 だから、ここで乗ってはならない。


「梶原」

 卜伝が言った。


 梶原の目が動く。


「何だ」

「今夜、私はお前と斬り合うためにここへ来たのではない」

「逃げるか」

「違う」

 卜伝は答える。

「通してはならぬ荷を止めるために来た」

「……」

「だから、お前がどれほど殺気を向けても、先に見るのは脇門だ」

 梶原の顔が、露骨に歪んだ。


「気に食わん」

 いつもの言葉だ。

 だが今夜は、その響きがいつもより深かった。

「本当に、お前は気に食わん」

「それでいい」

 卜伝は言う。

「お前が気に食わぬと思うたびに、私は一歩違う場所へ来ているらしい」

「……っ」

 梶原の肩へ力が入る。


 来る。


 そう思った瞬間、小夜が低く鋭く言った。


「脇門」


 全員の意識が一斉にそちらへ向く。


 道の向こう、御用商人の倉の方角から、二人担ぎの細長い箱が、ようやく姿を見せた。灯は少ない。だが担ぎ手の足取りは妙に慎重で、その後ろに帳面持ちの手代までついている。長箱。札は見えぬ。だがあれこそが今夜の“偽りの由緒”だと、もはや疑う余地はなかった。


「来たわ」

 小夜が言う。

「……」

「行くぞ」

 新九郎が半歩前へ出る。


 だがその前に、梶原がさらに一歩塞ぐように出た。


「通さん」

 低く唸る。

「お前らこそ、ここで止まれ」

 桐生はその横で、ほんの少しだけ目を細めていた。止めるのではなく、測っている顔だ。こちらがこの瞬間、誰を見て、どこへ立つかを。


 卜伝は、そこでようやく自分の中の迷いが消えたのを感じた。


 桐生の問いも、梶原の殺気も、たしかに厄介だ。

 だがそれは、脇門を通る長箱より先に見るべきものではない。


 偽りの由緒が人前へ出る、その直前。

 今夜止めるべきは、そこだ。


 卜伝は静かに刀の柄を握った。


 まだ抜かない。

 だが次の瞬間には抜く。

 誰と斬り合うためではなく、何を通させぬためかが、いまはっきりしているからだった。

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