第三十七話 海沿いの道、買われる名の行方
海沿いの街道というものは、歩いていると、いつの間にか人の心まで乾かしていく。
港町を離れて半日ほど。道は海に近づいたり離れたりを繰り返しながら、低い丘と痩せた畑のあいだを縫っていた。左手に海が見える時もあれば、松林に遮られてただ潮の匂いだけが届く時もある。波の音も、はっきり聞こえる時と、風の奥で砕けるだけの時がある。
だが、見えようと見えまいと、海はそこにあるのだと分かる。
風がそう告げる。
川沿いの風とは違う。川の風は湿りを運ぶ。海の風は、それに加えて塩を運ぶ。草の匂い、土の匂い、人の汗の匂い、そのどれにも塩気が薄く重なり、何もかもを少しだけ粗くする。
卜伝は街道の先を見ながら歩いていた。
背中には陽があり、前からは風が来る。暑いのか寒いのか分からぬような日だった。歩くには悪くない。だが考え事には向いている。頭の中のものが、風に吹かれて一つずつ形を持ち始めるからだ。
真壁又十郎。
あの男の名は、もう「盗人の頭」というだけでは収まらなくなっていた。
鹿島で兵法書と箱が盗まれた時は、ただ奪われたのだと思った。宿場の火事では、追う側のはずが守る側へ回された。川湊では荷札が変わり、河口では舟印が変わり、港町では品そのものの顔が変えられていた。
箱の刻印は削られ、書の外題は剥がされ、拵えは付け替えられる。
奪われたものは、そのまま売られるのではない。
別のものに見えるように、整えられてから渡される。
そこに、ただの盗みではない意図がある。
「また難しい顔してる」
横から小夜の声がした。
卜伝は顔だけ向けた。
「歩いています」
「そういう返し方する時は、たいてい頭の中で何か並べてる時よ」
「見て分かるものですか」
「分かる」
小夜は即答した。
「あなた、自分では隠してるつもりなんでしょうけど、考え事の時は視線が少し遠くなる」
「……そうですか」
「そうです」
言い切ったあと、小夜は少しだけ前を向いた。風に乱れた髪を指で押さえながら、海のほうを見る。
今日は藍色に近い着物姿だ。旅の埃はついているが、不思議とみすぼらしく見えない。むしろ、こういう海風の中に立つと、芯のある細さがよく出る。押しの強い娘だと卜伝は思う。だが最近は、それだけではないとも思い始めていた。見ている。考えている。怒っている。そして、その怒りの置き場所を知っている。
「考えていたのは」
卜伝が言った。
「真壁のことです」
「でしょうね」
「盗みではない、と」
「ええ」
小夜は頷いた。
「もうそこは疑いようがない」
新九郎が少し前を歩きながら、面倒くさそうに振り返った。
「盗みじゃねえって、でも盗んではいるんだろ」
「言葉尻を取らないで」
小夜が言う。
「盗んで終わりじゃないって話」
「分かってるよ。半分は」
「便利ね、その半分」
「便利なんだよ」
「そういう時だけ本当に便利そうな顔するわね」
「実際便利だからな」
新九郎はそう言ってから、大きく息を吸い、すぐ嫌そうな顔になった。
「……やっぱ海は嫌だ」
「いまその話?」
小夜が呆れる。
「いつでもこの話だ」
「あなた、本当にぶれないわね」
「嫌なもんは嫌なんだよ。風がべたつくし、魚臭えし、遠くが広すぎる」
「最後のは、ただの文句じゃない?」
「文句だ」
「潔い」
道賢は少し前を杖をついて歩いていたが、そのやり取りに口元だけで笑った。
「海が嫌いでも、海へ行くことはある」
「坊主、いま良いこと言ったつもりか?」
「つもりではない。事実だ」
「それが一番腹立つな」
四人の歩調は、もうかなり自然に揃っていた。誰かが意識して合わせているのではない。話す時も黙る時も、止まる時も、なんとなく一つの流れになっている。
旅の座が整った。
第三章の終わりに道賢がそう言った意味が、卜伝にはいまよく分かる。
少しの沈黙のあと、小夜がぽつりと言った。
「由緒ある品が売れるのは、金持ちの趣味だからじゃないのよ」
「……」
卜伝は顔を向けた。
「突然ですね」
「さっきの続き」
小夜は言う。
「真壁が何を売ってるのかって話」
新九郎が鼻を鳴らす。
「骨董好きの爺さん相手じゃねえってことか」
「ええ。もちろん、そういう好事家もいるでしょうけど、本筋はそこじゃない」
「じゃあ何だ」
「家の顔よ」
小夜ははっきり言った。
卜伝はその言葉を反芻した。
「家の顔」
「そう」
小夜は頷く。
「乱世って、武力だけで回ってるように見えるでしょう」
「実際、かなりそうだろ」
新九郎が言う。
「強いか弱いか、持ってるか持ってないかだ」
「表はね」
小夜が返す。
「でも、その“強い”を人に認めさせるには、顔がいるの」
「顔?」
「この家は古い」
「……」
「この家は由緒がある」
「……」
「この家は名のある兵法と繋がっている」
「……」
「この家には、こういう伝えが残っている」
「……」
「そういう“語れる顔”を持ってる家は、ただ力があるだけの家より、一段上に見える」
卜伝はそこでようやく、庄蔵の店で見た箱や書や拵えが、ただ高く売れる品だからではなく、もっと別の意味で欲しがられているのだと腑に落ちた。
金で飾るためではない。
名で飾るためだ。
「剣で立てた顔を、書や箱で飾るのが乱世よ」
小夜は静かに言った。
新九郎が少しだけ顔をしかめる。
「俺は嫌いだな、そういうの」
「でしょうね」
「家の顔なんざ、剣で立てりゃいい」
「立てたあとで、まわりがそれをどう見るかって話なの」
「見るやつが勝手に見りゃいいだろ」
「そうはいかないのよ」
小夜の声は、少しだけ冷たくなった。
「人は見たいものしか見ない。だから、見せるための由緒が欲しくなる」
「……」
「古い箱一つで、“ああ、この家はただの成り上がりじゃない”って顔が作れるなら、欲しがる者はいくらでもいる」
「胸糞悪いな」
新九郎が吐き捨てる。
「そうね」
小夜はあっさり同意した。
「でも、胸糞悪いからって無いことにはならない」
その会話を、卜伝は黙って聞いていた。
真壁が売っているのは、箱でも書でもないのかもしれぬ。
いや、箱や書を売っているのだが、本当に取引されているのはその向こう側――
**“名”**なのだ。
鹿島の兵法書が欲しいのは、中身の兵法だけではない。
鹿島に連なる何かを、自分の家の顔にしたいから。
由緒ある箱が欲しいのは、箱としてではなく、そこに染みついた「古さ」や「正統」の匂いが欲しいから。
そう考えると、真壁の流れはさらに嫌なものに見えた。
あの男は、奪ったものを売っているのではない。
奪ったものから、誰かが欲しがる“名の顔”だけを抜き出して、届く形に整えている。
卜伝は海を見た。
いまは松の切れ目の向こうに青く見えているだけだが、その海のどこかへ向かって、真壁の流れは伸びている。そしてその先には、名前を買う者たちがいる。
「卜伝」
小夜が言う。
「何です」
「いま、分かった顔した」
「そう見えますか」
「ええ」
「……」
「何が分かったの」
卜伝は少しだけ考え、それから言った。
「真壁の流れは、品の売買ではなく」
「うん」
「名の売買でもある」
小夜は頷いた。
「そういうこと」
「そして」
卜伝は続けた。
「それを欲しがる者は、ただの好事家ではない」
「ええ」
「家を飾りたい者」
「そう」
「力だけでは足りず、由緒まで欲しがる者」
「ええ」
新九郎が不満そうに言う。
「要するに見栄っ張りだろ」
「乱世の見栄っ張りは厄介なの」
小夜が言う。
「見栄のためなら、金も使うし、人も使うし、時には人も死ぬ」
「……」
「真壁の仕事が質悪いのは、そういう欲に形を与えてるからよ」
道賢がそこで、ぼそりと口を挟んだ。
「名は、見えぬから高い」
三人がそちらを見る。
「金や米なら、数えられる」
道賢は続けた。
「だが名は数えにくい。だから欲しがる者は、なおさら飾りを求める」
「嫌な理屈だな」
新九郎が言う。
「嫌な理屈ほど、世にはよく通る」
道賢は平然としていた。
道は次第に高みへ向かい始めた。
海沿いの街道といっても、ずっと浜のすぐ横を通るわけではない。低い丘を越え、小さな入江を回り、また海へ寄る。岩の露出した場所もあれば、砂地に松が痩せて生えているところもある。波は場所によって音を変え、風もまた、海を正面から受けるところでは強く、林に入れば急に弱くなる。
しばらくして、道が開けた。
遠くに、小さな中継地が見える。
城下、と呼ぶにはまだ小さい。だがただの宿場でもない。街道を押さえる関所があり、その向こうに町屋と蔵が並び、さらに少し奥まった高みには小ぶりの城か館のようなものが見える。海沿いの道を行く者と、内陸へ折れる者、その両方を見張るための町なのだろう。
「見えた」
小夜が言った。
「ええ」
卜伝が答える。
道の先の中継地は、まだ遠い。だが関所の形まで分かる。海沿いの風にさらされながらも、門と柵と、そこに立つ者たちの影ははっきりしていた。
「嫌な顔してるな」
新九郎が言う。
「町が?」
「関所が」
「たしかに」
小夜が頷く。
「笑わなそう」
「前の町よりもっと露骨かもしれんな」
道賢が言った。
「海の流れと陸の流れ、その両方を見る場所だ。通るものの顔を値踏みするにはちょうどいい」
卜伝は、その小さな城下と関所を見つめた。
真壁の流れは、ここへも伸びているかもしれない。
いや、伸びているだろう。
名を買う者たちがいるなら、それを運び、値踏みし、抱え込む場所が必要になる。
遠くに見えるその中継地は、海の出口そのものではない。
だが、海の匂いに乗って運ばれる“名”の行方を、どこかで受け止める場所に見えた。
卜伝は少しだけ目を細めた。
奪われたものを取り返す旅は、もうとっくにそれだけではなくなっている。
今、自分が追っているのは、品だけではない。
名を欲しがり、名を飾り、名を買う者たちの顔だ。
海風は変わらず吹いていた。
その向こうで、小さな城下と関所が、こちらを値踏みするように静かに待っていた。




