第三十六話 第三の道へ――海風の向こう側
海前の蔵を離れた時、夜はもう深かった。
町の灯はところどころに残っている。だが港の喧騒はとっくに引き、波の音と風の音ばかりが耳につく。潮の匂いは夜になると昼よりも濃く感じられ、衣の表だけでなく、喉の奥にまでじわりと入り込んでくるようだった。
卜伝たちは、海沿いから少し内へ入った、使われなくなった網小屋の陰まで引いていた。そこなら人目は薄いし、風も少しだけ和らぐ。海前の蔵で見たもの、拾ったもの、奪い返したものを改めて確かめるには、ちょうどよい場所だった。
新九郎が最初に大きく息を吐いた。
「……終わった、とは言いにくいな」
「ええ」
小夜が答える。
「でも、何も残らなかったわけじゃない」
「むしろ、かなり残った」
道賢が言った。
小夜は布に包んでいた札と書付を、慎重に広げていく。湿りを含んだ紙はまだ完全には乾いていないが、読めるところは十分に読める。河口で止めた札筋、離れ蔵で見た受け手の印、海前の蔵から拾った御用商人筋の書付。それらを並べると、ばらばらだった線が、また少しずつつながっていった。
「奪還できたのは」
小夜が言う。
「箱が二つ、書付が一包、あとは拵えの替えられた短刀ひとつ」
「全部じゃねえが、悪くねえ」
新九郎が言う。
「むしろ、あの場でそれだけ取れりゃ上出来だろ」
「ええ」
小夜が頷く。
「しかも、札筋を二本は確実に潰した」
「小舟も一艘止めた」
道賢が静かに付け足す。
「海船への渡しも乱れたはずだ」
「つまり」
卜伝が言った。
「流れは一部、断てた」
「そういうこと」
小夜が答える。
その言葉は、胸へ静かに落ちた。
第三章に入ってから、ずっと追ってきたのは“受け取る側の顔”だった。港の笑顔の奥、城下の硬さの内側、古道具商の店、離れ蔵、そして海前の蔵。剣だけでは割れぬ壁の前に立たされ、何度も「今は抜くな」と自分へ言い聞かせながら、ようやく最後の継ぎ目に刃を入れたのだ。
勝ち切れたわけではない。
真壁本人には、また届かなかった。
海前の蔵にも、あの男の気配はあった。だが結局、姿は見えず、背中すら掴めず、一歩先で流れていった。
それでも、ただ逃げられただけではない。
流れそのものへ、今度はさらに深く刃を入れた。
その手応えは、河口の時よりもずっと重く、確かなものとして残っている。
「真壁、いなかったな」
新九郎がぼそりと言った。
誰もすぐには答えなかった。
いなかった、ではない。
いたはずだ。
だが届かなかった。
その差は大きい。
卜伝は少し遅れて言った。
「来ていた」
「……ああ」
新九郎が鼻を鳴らす。
「そうだろうな」
「でも姿は見せなかった」
小夜が言う。
「それだけ、この場を“自分が前に出る場所じゃない”と分かってるってことね」
「あるいは」
道賢が言った。
「こちらがそこまで来るかどうか、遠くで見ていたか」
「気に食わねえな」
新九郎が吐き捨てる。
「ほんとに、あの野郎は人を試してばっかりだ」
「ええ」
小夜も珍しくすぐに同意した。
「でも、そのぶん分かったこともある」
彼女は書付の一枚を指先で押さえた。
「真壁の背後にある手は、一つじゃない」
「御用商人が二つ」
卜伝が言う。
「それに、武家筋も複数」
「兵法者の印も混じってた」
小夜が続ける。
「つまり、真壁の後ろには“ひとりの黒幕”がいるわけじゃない」
「そうだな」
道賢が頷く。
「複数の欲がある。武家の欲、商人の欲、権威を欲しがる者の欲、名を欲しがる者の欲。それぞれが別の顔をしておる」
「で、真壁がそれをひとつの流れにしてる」
新九郎が言う。
「そう」
小夜が答える。
卜伝は、その言葉を改めて胸の中でなぞった。
真壁はただの盗人ではない。
ただの兵法者でもない。
乱世の欲を、一本の流れにまとめる男だ。
だからこそ追う意味がある。
だからこそ、届かぬと悔しい。
そして、だからこそ、一人斬れば全部が終わると思ってはならぬ。
卜伝は、海前の蔵から持ち出した短刀を手に取った。拵えは新しい。だが鍔の裏に、ごく浅く削られた跡がある。元の持ち主の印を消したのだろう。こうして品は顔を変え、誰かの手へ渡っていく。
それを止めるには、真壁という要を追うしかない。
「……ここまで来ると」
卜伝が静かに言った。
三人が顔を向ける。
「私の剣は、もはや一人の剣客との勝負のためだけには使えない」
「ようやく、ちゃんと口にするようになったわね」
小夜が言う。
「前からそう思ってはいた」
「でも前は、まだどこかで“真壁を斬れれば”と思ってたでしょ」
「……」
「図星ね」
「ええ」
卜伝は素直に頷いた。
「思っていた」
「今は?」
新九郎が聞く。
卜伝は短刀を布へ戻し、ゆっくり答えた。
「今も、真壁を斬ることに意味はある」
「うん」
「だが、それだけでは足りない」
「……」
「真壁の流れを切る。流れを支える手を見極める。誰が欲しがり、誰が沈黙し、誰がそれを正しい顔で通しているか。それを見なければ、また別の真壁が生まれる」
言いながら、自分の中でその言葉がよく馴染むのを感じた。
第二章までは、まだ“追う若者”の気持ちが強かった。
奪われたものを追い、真壁を追い、自分の剣がどこまで届くかを知りたい、その熱が強かった。
だが第三章を越えた今は違う。
自分はもう、真壁の築いた流れそのものへ刃を入れ始めている。
その自覚は、誇らしいというより重かった。
重いが、前より迷いは少ない。
「立派になったなあ」
新九郎がわざとらしく言う。
「茶化さないで」
小夜がすぐ言う。
「茶化してねえよ。いや、少しは茶化してるけど」
「やっぱり」
「でも本気でもある」
新九郎は肩をすくめた。
「最初の頃より、だいぶ面倒くさい顔になった」
「褒めていますか」
卜伝が問う。
「半分はな」
「残り半分は?」
「放っとくと、一人で先へ行きそうで面倒だ」
「それは」
小夜が溜め息をつく。
「否定しづらいわね」
「否定しないのか」
「だって本当だもの」
卜伝は少しだけ苦笑した。
道賢は、その様子を見ながら胡坐のまま言った。
「第三の道だな」
「第三の道?」
小夜が問う。
「第一は、鹿島を出た時の道」
道賢が指を一本立てる。
「盗まれたものを追い、真壁の名へ届こうとした道」
「……」
「第二は、川と河口の道。流れを見て、守る剣を覚えた道」
「ええ」
卜伝が頷く。
「そしてここから先は、第三の道だ」
道賢は続けた。
「海風の向こうへ続く、もっと大きな流れの中へ入る道」
「……」
「ただ後ろを追うだけでは足りぬ。流れに抗い、継ぎ目を見つけ、場合によっては敵だけでなく味方の顔まで選ばねばならぬ」
新九郎が顔をしかめる。
「面倒が増えたってことか」
「そうとも言う」
道賢は平然と答えた。
「嫌だな」
「今さらだ」
小夜が言う。
「でも、進むんでしょう」
「進むさ」
新九郎は即答した。
「ここまで来て“やっぱやめる”って顔か、俺が」
「いいえ」
小夜は少し笑った。
「そういうところは信用してる」
「“そういうところは”ってのが引っかかるが、まあいい」
しばらくの沈黙のあと、卜伝は海の匂いがする風を吸い込んだ。
第三章は、ここで終わるのだろう。
海前の蔵で最後の積み替えの一部を止めた。
いくつかの品を奪還した。
真壁の背後にある複数の手も見え始めた。
だが真壁本人にはなお届かず、その網はもっと大きい。
だからこそ、次へ行かねばならぬ。
卜伝は顔を上げた。
「次は」
と、自分でも驚くほど迷いなく言う。
「真壁の流れが、海を越える前の先へ行く」
「海沿いをさらに追う?」
小夜が問う。
「たぶん、それだけでは足りない」
卜伝は答えた。
「受け手の中で、もっと強く欲しがっている手がいる。その手を探す」
「武家か、商人か、それとも別の兵法者か」
道賢が言う。
「分かりません」
「だが、追う価値はある」
「はい」
小夜は、奪い返した箱の一つへ布を掛け直した。
「鹿島のものを、全部このままにはさせない」
「ええ」
卜伝が答える。
「させない」
「そのために進む」
「はい」
「なら十分ね」
新九郎が立ち上がった。
「よし。じゃあ、今夜は寝る」
「急に現実的ね」
小夜が言う。
「当たり前だろ。剣振るうのも流れ追うのも、腹減って眠いと鈍る」
「それは正しい」
道賢が珍しく即答した。
「坊主、お前もそういうこと言うんだな」
「言うに決まっておろう」
四人は、網小屋の陰でそれぞれ荷を整えた。
火は大きく焚かない。風が強いし、ここはもう町の外れだ。だが暗闇のままでもない。空には低い星があり、海の向こうから返るような淡い光があった。潮騒は絶えず、夜の間じゅうどこかで水が息をしているように聞こえる。
卜伝は横になりながら、刀を手の届くところへ置いた。
鹿島を出た時の自分は、もっと狭い道しか見ていなかった。
だが今は、海風の向こうにさらに続く乱れが見えている。
剣一つで斬り払えるほど簡単ではない。
それでも、だからこそ行く意味がある。
海へ出る流れは広い。
だが広いからこそ、どこかに断つべき喉がある。
鹿島立ちの剣は、もうひとつ先の乱れへ向かう。




