第二十八話 古道具商が知る、名を剥がされた品々
夜の町は、昼よりも口が軽くなることがある。
だが、この町に限っては少し違った。夜になったからといって、皆が急に本音を漏らすわけではない。むしろ、昼よりも慎重に、どこまで喋ってよいかを測っている気配が濃くなる。灯の届く範囲が狭くなる分、誰の耳が近くにあるか分からなくなるからだろう。
だからこそ、夜にだけ会うと言った古道具商の言葉には、それだけで意味があった。
灯が二つ消えた頃。
宿場や港町では、表通りの灯りが完全に消えることは少ない。だが、この町の裏筋では、店じまいが進むごとに明かりが一つずつ減っていく。小夜がそう教えてくれた通り、表の通りで見えていた二つの灯が消えた頃、一行は宿を出た。
四人とも、昼間よりさらに目立たぬ格好にしている。
新九郎は不満そうだったが、「お前みたいなのが一番目立つんだよ」と道賢に言われて渋々従った。小夜は逆に、こういう夜の歩き方に慣れてきたようで、草履の音まで昼より静かだ。卜伝は刀の重みを確かめながら、前に立つ道賢の背を追った。
古道具商の店は、昼のざわめきが嘘のように暗く沈んでいた。
店先に並んでいた古びた品々は、布をかぶせられ、輪郭だけが黒く浮いている。裏へ回ると、細い路地の先に低い戸があり、その前で道賢が立ち止まった。
「ここだ」
低く言う。
「叩かぬの?」
小夜が聞く。
「向こうが中で見ておる」
道賢は平然と答えた。
その言葉に合わせたように、戸の内側で小さな気配が動いた。錠を外す音はほとんどしない。戸が指一本分だけ開き、中から昼間の古道具商の目が覗いた。
「四人か」
男が言う。
「増えてはおらぬな」
「増えておらぬよ」
道賢が答える。
「減ってもおらぬ」
「それは結構」
古道具商は戸を少し広げた。
「入れ。ただし声は抑えろ」
中は店の裏というより、ほとんど物置だった。棚には古い箱、割れた陶器、錆びた金具、巻かれた布、使われなくなった拵え、崩れた書見台、灯明具の残骸――そういうものが秩序なく積まれている。だが秩序なく見えるのは表向きだけで、実際には男の頭の中で全部の場所が決まっているのだろう。足を踏み入れても、何かが邪魔になる感じがない。
灯りは一つだけ。油の匂いが低く漂う。
「座れ」
古道具商が言う。
「酒はない」
「いりません」
小夜が答える。
「最初からそう言う娘は嫌いじゃない」
「褒められてる気がしない」
「そういう顔をするからだ」
男はさらりと言った。
新九郎が鼻を鳴らす。
「この町の年寄りは、みんな一言多いな」
「お前の顔がそう言わせるのだろう」
古道具商はちらりと見ただけで言った。
「坊主が連れてくる若い衆にしては、妙に正面から殴りそうな顔だ」
「殴るか?」
「やめて」
小夜が即座に止める。
「話が始まる前に終わるでしょう」
「冗談だよ」
「半分は本気でしょ」
「半分な」
「やっぱり」
古道具商はそのやり取りを見て、わずかに口元を動かした。笑ったのか、呆れたのか分からぬ程度だった。
「名乗っておこう」
男は灯に半分照らされた顔で言う。
「俺は庄蔵だ。目利きというほど上等でもないが、古い物の顔を見て食ってきた」
「顔?」
卜伝が問う。
「人にも品にもある」
庄蔵は答えた。
「お前さんらもそうだ。坊主は胡散臭い。娘は気が強い。隣の若いのは殴りたがってる。で、お前」
その視線が卜伝へ向いた。
「お前は、物を見て怒る顔になりかけている」
「……」
「悪くない。悪くないが、そこで怒鳴ると何も見えなくなるぞ」
卜伝は何も返さなかった。
この男もまた、見ることに慣れている。しかも、人の顔を見て本音を測るのが上手い。だからこそ、夜にだけ会うと決めているのだろう。
小夜が先に話を切り出した。
「宗兵衛の名で来たわ」
「分かってる」
庄蔵が言う。
「あいつが名を貸す相手なら、ただの欲の深い若旦那じゃない」
「信用してるの?」
新九郎が聞く。
「半分はな」
「何でも半分だな、この町は」
「全部を言い切るやつは長生きしない」
庄蔵は淡々と返した。
それから庄蔵は、小さな箱をひとつ棚から下ろした。どこにでもありそうな木箱だ。だが、灯の下へ置かれた瞬間、卜伝の目が止まる。
角の収まり。
金具の痕。
刻まれていたはずのものを削った跡。
「これは」
卜伝が思わず言う。
「由来を持つはずだった箱だ」
庄蔵が答える。
「今はただの木箱に見えるだろう」
「削られてる」
小夜が低く言う。
「そうだ」
庄蔵は指先で箱の縁をなぞった。
「元は、どこかの家か社か、そういうところで使われていた。角金具ももう少し凝っていたはずだ。だが今は、見た目だけ普通の古箱に寄せてある」
「何のために」
卜伝が問う。
庄蔵は卜伝の顔を見て、少しだけ顎を引いた。
「分かるだろう。由来を残したままでは、持つ側が困るからだ」
「持つ側?」
「そうだ。欲しがるくせに、表では欲しがった顔をしたくない者がいる。あるいは、元の持ち主の名ごと欲しがるくせに、その名が見えすぎると困る者もいる」
庄蔵はさらに別の包みを開いた。
中から出てきたのは、古びた書だった。だが書そのものより、外題の部分に違和感がある。題名が書かれていたはずの紙が剥がされ、新しく貼った痕だけが残っている。
「これもだ」
庄蔵が言う。
「名を伏せられた書。中身は古い兵法の覚えに近い。だが外から見れば、ただの傷んだ巻物だ」
「……」
「それだけじゃない」
今度は、壁にかけてあった太刀の拵えを下ろす。
刀身そのものはない。だが拵えは新しい。鞘も柄巻きも、わざわざ“それらしくない顔”へ変えられているのが分かる。
「元はもう少し名のある形だ」
庄蔵は言った。
「だが、このままでは目につく。だから拵えだけを替える。中身はそのままに、外だけ別の顔をさせる」
「……そんなことまで」
小夜が言う。
「する」
庄蔵は即答した。
「この町では、近ごろそういう品が静かに売買されている」
卜伝の胸の内に、静かな怒りが沈んでいくのを感じた。
鹿島から奪われたものは、ただ隠されるのではない。
削られ、剥がされ、替えられ、別の顔をさせられる。
元の名を奪い、由来を削ぎ、それでも価値だけは残したまま、欲しがる者へ届く形にされている。
それは、ただの盗みよりよほど質が悪い。
「真壁の流れか」
卜伝が低く言う。
庄蔵はすぐには答えなかった。だが少ししてから、灯を見たまま言った。
「名を出すのは簡単だ。だがそれで話が済むほど、この町の裏は単純じゃない」
「分かっています」
卜伝は言った。
「なら言い方を変えよう」
庄蔵は箱へ手を置いた。
「今この町では、“欲しい者へ届く形に整える者”がいる」
「……」
「盗みっぱなしでは売れぬ。元の印が残りすぎれば持つ側が嫌がる。あまりに由来が濃ければ、表へ出せぬ。だから削る。変える。伏せる。そうして初めて、欲しい者の手に渡る」
「真壁は」
小夜が言った。
「単なる盗人じゃない」
「そうだ」
庄蔵が頷く。
「むしろ、欲しい者の顔をよく知っている」
新九郎が不機嫌そうに腕を組む。
「胸糞悪いな」
「だろうな」
庄蔵はあっさり言う。
「だが、そういう者は昔からいる。名のある品を欲しがる者も、それを表向きには隠したがる者も、どちらも珍しくない」
「武家か」
卜伝が問う。
庄蔵の目が、そこでわずかに細くなった。
「武家だけではない」
「好事家か」
小夜が続ける。
「それもある」
「権威を欲しがる者たち」
道賢がぼそりと言うと、庄蔵はその胡散臭い坊主を一瞥した。
「お前さんは最初から分かっていた顔だな」
「分かっておっても、口にするとは限らぬ」
「それはこの町の作法か?」
「いや、長生きの作法だ」
道賢が言う。
庄蔵は鼻で笑った。
「嫌いじゃない答えだ」
卜伝は黙って箱を見ていた。
削られた金具の跡。
剥がされた外題。
替えられた拵え。
物に刻まれた由来を剥がしていくという発想自体が、どうにも許しがたい。だが許しがたいからといって、怒りだけで見ていては足りぬとも分かる。真壁の役割は、ただ奪うことではない。欲しい者が持てるように“整える”ことにまで及んでいる。
ならば敵は、真壁一人ではない。
欲しがる側も、またこの流れの一部だ。
「その品々は、誰が買う」
小夜が問う。
庄蔵は肩をすくめる。
「名を隠して持ちたい武家。珍しい由来を集めたがる好事家。箔を欲しがる者。あるいは、元の持ち主に対するあてつけで持つ者もいる」
「……」
「要するに、欲の形はいろいろだ」
「それを真壁が整える」
卜伝が低く言う。
庄蔵は頷いた。
「そういうことだ。だからあいつは、ただの盗人より厄介なのさ。奪うだけなら、どこかで足がつく。だが整える者は、欲しい者の手前で待っている。元の顔と、持たせたい顔のあいだに立つ」
その言葉は、卜伝の胸へ深く入った。
自分は今まで、真壁を“奪う側”として追ってきた。
だが違う。
真壁は“奪ったものを、欲しい者へ届く形に整える側”でもある。
だからこそ、流れを読まねば届かぬのだ。
庄蔵はそこで、少し声を落とした。
「最近はな」
三人が顔を上げる。
「最近は、城下の中にも、そういう品を欲しがる手がある」
そのひと言で、部屋の灯りが少しだけ冷たく見えた。
小夜が先に言葉を返す。
「城下の中、というのは」
「そのままの意味だ」
庄蔵は言う。
「町の外れで収まる話ではなくなっている。港で流れを変え、古道具屋で顔を変え、最後は城下の内で抱える者がいる」
「役人か」
新九郎が問う。
「もっと上かもしれん」
庄蔵は答えた。
「俺はそこまでは言わん。言わぬし、言えるほど長く生きる気もない」
言っているようなものだ、と卜伝は思った。
城下の中にも欲しがる手がある。
つまりこの町の沈黙は、ただの恐れだけではない。
守っているのだ。
欲しがる者たちの顔を。
卜伝は、火の気のない灯の下で、箱の削られた角をもう一度見た。
静かな怒りが、前よりも深く、冷たく胸へ沈んでいた。
真壁を止めるとは、こういうことまで含むのだと、ようやくはっきりしてきていた。




