第二十七話 目利きの町、口の重い町
港町の朝は早い。
だが、早いからといって口まで軽いわけではないらしかった。
卜伝たちが宿を取って一夜明けた頃には、表通りはすでに動き始めていた。魚市場では朝の名残りがまだ続き、塩問屋では俵が運び込まれ、港のほうからは船乗りと荷役人夫の怒鳴り声が絶えず届く。見た目だけなら、川湊よりさらに賑わって見える。城下と港が一つにつながったこの町は、朝から誰も彼も忙しそうだ。
だが、その賑わいの中へ手を入れてみると、返ってくるものは思ったより硬かった。
最初にそれを強く感じたのは小夜だった。
宿の水場、台所、近くの茶屋、問屋筋へ使いに出る女中たち――そういうところは、川湊では比較的口が軽かった。荷のこと、どの蔵が怪しいか、どこの手代が妙な顔をしていたか。そういうものは、少し糸口を作れば誰かがぽろりと零した。
だがこの町では違う。
小夜が宿へ戻ってきた時、その顔には分かりやすく不機嫌と面白くなさが混じっていた。
「駄目ね」
開口一番そう言う。
「何が」
新九郎が聞く。
「口よ」
「誰の」
「みんなの」
小夜はきっぱり答えた。
卜伝は宿の部屋の隅で刀の拭いをしていた手を止めた。
「拾えませんでしたか」
「拾えないことはないの」
小夜は言う。
「でも、川湊ほど素直に漏れない。こっちの女中も茶屋の女たちも、何かを知らないわけじゃない。でも、深く踏み込んだ途端に急によそよそしくなる」
「脅されてるのか」
新九郎が問う。
「それもあると思う。でも、もっと嫌な感じ」
「嫌な感じ?」
「“知らない顔をするのが、この町で生きる作法”みたいな感じ」
「……」
「怖がって黙るっていうより、黙ることに慣れてるのよ」
その言い方は、卜伝にもよく分かった。
昨日、町へ入ってすぐに感じた“硬さ”は、そこにあったのだろう。表では笑う。客へも愛想を見せる。だが少し深く訊けば、急に笑みが薄くなり、言葉の流れが変わる。知らぬふりへ切り替わるのが早い。
新九郎も似たような顔をしていた。こちらは港の荷役人夫や船乗りの輪へ混じっていたはずだが、戻ってきた顔には苛立ちがある。
「こっちも似たようなもんだ」
新九郎は吐き捨てるように言った。
「何聞いても、“知らぬ方が長生きできる”だの、“目ぇつぶっときゃ飯は食える”だの、そういう言い草ばっかだ」
「やっぱりね」
小夜が言う。
「脅されてる」
「いや、脅されてるだけじゃねえ」
新九郎は首を振った。
「それもあるだろうが、それ以上に“知ってるけど言わねえ”って顔が多い。殴れば吐く、って手合いじゃねえぞ」
「殴る気だったの?」
小夜がじろりと見る。
「思っただけだ」
「思ったのね」
「思うくらい自由だろ」
「実行しないならね」
「してねえよ」
その会話を、道賢は部屋の柱にもたれながら聞いていたが、やがて低く言った。
「この町では、皆が“何を知っていても知らぬ顔をする訓練”をされているようなものだ」
「訓練?」
卜伝が問う。
道賢は頷く。
「城下と港が近い町では、余計なことを知る者が長生きせぬ時がある。だから皆、最初から知らぬ顔を覚える。誰が何を運んでも、どの蔵へ何が入っても、見て見ぬふりをする。それが身を守る手になる」
「気に食わねえな」
新九郎が言う。
「気に食わぬだろうな」
道賢はあっさり返した。
「だが、気に食わぬからといって真正面から口を割らせるのは下策だ。こういう町では、口を開いた者から先に消える」
「……」
「つまり、訊く相手そのものが違う」
小夜が言った。
「口の軽い人間を探すんじゃなくて、黙りきれない立場の人間を探さないと駄目」
卜伝は、その言葉を聞きながら、昨日から感じていたことを自分の中で確かめていた。
川湊では、流れの継ぎ目が見えた。
河口では、流れの喉を断てた。
だがこの町は違う。
町そのものが一枚の殻を持っている。
問いただすだけでは開かぬ。
ならば見るべきは、言葉ではなく、守りの薄い場所だ。
人が黙るなら、人が隠しきれぬものを見ればよい。
「無理に訊くより」
卜伝がぽつりと言った。
三人の視線が向く。
「どうしたの」
小夜が問う。
卜伝は言葉を選びながら続けた。
「無理に訊くより、“守りの薄い場所”を見つけるべきかもしれません」
「守りの薄い場所?」
新九郎が聞く。
「はい」
卜伝は頷く。
「この町は皆が黙る。なら、口を開かせるのではなく、隠す時にどうしても手が甘くなる場所を探す」
「……」
「たとえば?」
小夜が促す。
「人が完全には見張れぬ荷の継ぎ目」
卜伝は言った。
「あるいは、城下へ上がる前の小荷駄の扱い。武家の顔をした荷が、どこで町の顔から武家の顔へ変わるのか。そのあいだに守りの薄いところがあるはずです」
「ほう」
道賢が鼻を鳴らす。
「見る目が、また少し変わったな」
「そうですか」
「昨日のお前さんなら、“怪しい顔のやつを追う”と言っただろう」
「違いますか」
「今も半分はそうだろうが、残り半分は“流れが変わる場所”を見ようとしておる」
「……」
「悪くない」
小夜は、卜伝を少しだけ見つめてから頷いた。
「たしかに」
「何が」
新九郎が聞く。
「この町って、人の口は硬いけど、荷は硬くできないのよ」
小夜は言う。
「荷は必ず動く。誰かが運ぶ。誰かが受け取る。人が黙っても、その途中の手つきや札や顔つきまでは全部消せない」
「じゃあ、そこを見るか」
新九郎が言う。
「ええ」
小夜は頷いた。
「訊く相手を変えるんじゃない。訊き方を変えるのでもない。“どこで隠しきれなくなるか”を先に見つけるの」
その考え方は、卜伝にはしっくり来た。
剣でも同じだ。堅く守る相手を正面から押し切るより、どこで構えが薄くなるかを見るほうが早い。ならば町も同じなのだろう。この町の沈黙は、一枚の甲のようなものだ。斬りつけるより、継ぎ目を探すべきだ。
午後、一行はまたそれぞれの持ち場へ散った。
小夜は今度、女たちの噂よりも、物を扱う手代や小僧の顔色へ目を向けた。新九郎は荷役人夫の輪のさらに外側、酒を運ぶ者や縄を売る者まで混じって空気を探り始めた。道賢は城下寄りの道へ歩き、表と奥をつなぐ細い道筋を見ているようだった。
卜伝は、昨日見た武家の小荷駄の通る筋をもう一度見に行った。
町の奥へ向かうその道は、港や市場に比べると静かだ。だが荷は絶えない。小さな木箱、書状を入れた長箱、俵に紛れた細工物。武家の小者が運ぶ荷は、表の商い荷より量は少なくとも、人の目は濃い。城下へ入る前に、いったんどこかで荷を整えている気配がある。
卜伝はそのあたりを歩きながら、あからさまに怪しいものを探すのではなく、“人が普通の顔をしすぎている場所”を探した。
しばらくして、一軒の小さな店先が目に留まった。
表には古びた木箱、陶片、壊れた灯台、錆びた金具、傷んだ拵え――そうした“古道具”が雑然と並べられている。店というより、半分は物置に近い。看板も控えめで、通りから見ればただの古物商だ。
だがその店先に、宗兵衛から預かった紹介状を見せていた小夜が、少しだけ顔を変えたのが見えた。
卜伝は何事もない顔で少し離れたところに立つ。
店の主は、年の頃五十前後の痩せた男だった。目は細く、手の甲には古傷があり、商人というより、何かを“見抜く”ことに長く慣れた手をしている。小夜が差し出した紹介状を一度見て、すぐには何も言わない。だが紙を返す時、その目だけが少しだけ変わった。
宗兵衛の名に反応した。
だがそれを表へは出さぬ。
さすがにこの町だ、と卜伝は思った。
店主は周囲を一度だけ見た。通りを行く人、向かいの軒先、物売りの小僧。その一瞬の目配りが、ただの古道具商ではないことを示していた。
それから彼は、小夜へ向かってほとんど口を開かぬまま言った。
「……夜に」
声は低く、風に紛れそうなくらい小さかった。
小夜は一度だけ頷く。
「いつ」
「灯が二つ消えた頃」
「ここへ?」
「違う」
男は短く言った。
「裏だ」
それだけで、もう口を閉ざした。表へ並んだ古物をいじり始め、さっきまでの反応などなかったような顔になる。
卜伝はその一連を見て、胸の内で小さく息を吐いた。
この町では、知っていても喋らない。
だが、まったく喋らぬわけではない。
宗兵衛の名に反応したこの小さな古道具商は、夜にだけ会うと言った。
つまり、口が軽いのではない。
軽くできぬから、夜を選ぶのだ。
この町の沈黙そのものが敵なのだと、卜伝は改めて感じた。
だが敵であるなら、継ぎ目もある。
そして今、その継ぎ目のひとつが、ようやく目の前で口を開きかけた。




