百万に一つの誓約
コディはユーリィの内に在る聖域に土足で踏み入っていることを自覚しながらも、もはや引くつもりはなかった。むしろ、自身の身勝手な想いと願いを全部ぶちまけてやると腹を括っていた。
「そんなこと、黒騎士を崇拝する貴女が望まぬことぐらい百も承知です」
震える息を吐く。向けられる敵意を全身で受け止め、息を吸った。
「でも、黒騎士を心の支えにして生きてきた人がいます。繰り返される竜の悪夢に怯え、それでも、心の英雄に縋りながら、幾つもの夜を泣きながら越えてきヤツがいるんです。黒騎士がいたから、それができた。不治の病へと至る道を踏みとどまれていた。だから、死んだ程度で黒騎士を過去のものにされちゃ困るんです。アイツの心の平穏を守るために、在り続けてくれなきゃ困るんです! そのためなら、僕はなんだってやってみせる。僕は、アイツの! アンの兄貴分なんだっ!」
思いの丈を叫び上げたコディは気力を使い果たしたのか、膝が力なく崩れて地面に付いた。脱力して揺らいだ胴を膝上に突っ張らせた腕で支えて、拳を握る。
「だから……ほんの少しでいい、んです。希望をください。この一戦だけ、どうか僕と。そして、万に一つ……いえ、百万に一つ、竜を退けて、貴女が生き延びることができたなら。もう一度だけ、考え直してくれませんか。生きて……生きて、その、次の、誰かを」
言葉は途切れた。
黒騎士の従者が秘めた気持ちを唯一人知った自分が、自分だけの都合だけで物を言う図々しさに、とうとう耐え切れなくなったからだった。食いしばった歯が軋む。
既に視線は地面に落ちていた。
もう、黒い瞳を見返す意気地はコディになかった。
俄かに吹いた風が地面の砂塵を流すさまを、じっと見つめ続けることしかできなかった。
「つまり。貴方を踏み台にして、次の黒騎士を探せと、そう仰るのですか?」
「……はい」
「何て烏滸がましい」
シンプルに憤りが伝わる言葉。
「そんな節操の無い女だと私を見下げるだなんて。誰でもいいわけ、あるはずが無い」
拒絶の言葉だとコディは理解する。失意が冷たく心に染みていくのを感じる。
しかし、続く言葉はコディの理解を越えた。
「責任は取ってくださるのでしょうね。貴方が、私を、その気にさせたのですから」
「ぇ、」
「ですが、口先だけの男になびくほど、私は軽くありません」
言いながら横たえてあった背嚢にユーリィが左足を添え、片手だけで引き起こす。
背嚢の側面で揺れる黒紐を掴み、力を込めて引き抜くと茶色く煤けた背嚢の覆いがするりと解けた。現れたのは針金で編まれた巨大な籠、武具らしき柄が犇めく背嚢の中身。隙間に詰め込まれていたであろう小さな雑嚢袋の幾つかが覆いの支えを失って地面に落ちた。
構わずユーリィは突き出た柄の一つを掴むと無造作に引き抜く。
それは、ショットガンの銃身を二回りは太くした歪な形の古式銃だった。掌の上で難なく銃を回転させて、地面を銃床でドスリと突いた。
「ならばこそ。私、ユーリィ・ヴィノクロヴァは、ここに誓いましょう」
厳かに響いた声が微かに震えていた気がした。思わずコディが見上げた先には神秘的な黒い瞳と強い眼差しがあった。
「百万に一つの勝機をものにせんとする気概を、竜を打ち倒さんとする覚悟を、私に示してくれたなら。今日から貴方が私の主。私の騎士。この身この心、何もかもを。貴方に」
確かめるようにゆっくりと、言い聞かせるようにはっきりと紡がれていく言葉のさなか、コディの姿を映した瞳に心騒めく光が混ざる。
「それは、決して潰えぬ誓約。竜を根絶やすまで解かれぬ呪縛。竜を殺せぬ私が持て余し、ひた隠す、醜悪な情念と疼きを、代わりに晴らすという契り」
ユーリィは再び古式銃の上下の向きを反転させる。掌に戻した銃床をゆっくり持ち上げていく。銃口はコディの身体の芯を沿って上がり、アゴ下から煽って、鼻先へと至った。
「それでも、貴方は、私と?」
「……黒騎士の名が残るなら。貴女がまた生きてくれるなら。不肖ながら。僕の全部、これからの全てを、竜を倒すために」
銃口が空へと向けられた。
右手だけで古式銃を掲げたユーリィが胸元に左掌をひっそりと置いた。
「結ばれた誓約は、今はここに。貴方が果たしたならば、私も果たしましょう。必ず」
言い終わると同時にユーリィはトリガーを引いた。
前装式らしい大げさな炸裂音と銃煙。同時に砲弾と見紛う塊が直上に撃ち上げられた。金属的な高音は煙を引き、上昇していく。
「竜誘弾……?」
「ええ、効果は竜撃ちのコディさんならご存じですね」
用済みとなった巨銃を地面に打ち捨てて、ユーリィは岩棚に在る深緑に目を向けた。
「あちらも崖上での何やらが決着した様子。あの若竜も間もなく此方の招きに応じてくれることでしょう。それまでは僅かですが講義をしましょう。仔馬があざとく駆けるために」