エピローグ 悪役令嬢の残響と、深淵の箱庭
リゼット・エル・グラナードが、歴史の表舞台から忽然と姿を消して、一年が過ぎた。
かつてのグラナード王国は今、「グラナード連合共和国」と名を変え、大陸全土にまたがる巨大な経済圏の盟主となっている。その中心で、眉間に深い皺を刻みながら、山のような書類と格闘している一人の男がいた。
「……リゼット。あの、救いようのない、我が儘で、最高に有能な妹め……ッ!」
初代大統領カイル・エル・グラナードは、深夜二時の執務室で、万年筆を机に叩きつけた。
彼の目の前には、周辺諸国からの通商要求、旧貴族たちの不満、そして何より、リゼットが勝手に残していった「女王の退職金代わりの巨額の請求書」が並んでいる。
「大統領、お疲れのようですね。……リゼット様からの定期連絡……いえ、一方的な『自慢の手紙』が届いておりますが、破棄しますか?」
秘書が差し出したのは、香油の香りが漂う上質な手紙だ。カイルは忌々しげにそれをひったくり、中身に目を通す。
『親愛なる兄様へ。
新体制の運営、お疲れ様です。こちらは今、レオと一緒に特製の魔力苺を収穫したところです。レオが「お嬢様の唇と同じ色ですね」なんて恥ずかしいことを言うので、少し食べ過ぎてしまいましたわ。
ああ、そうそう。兄様の健康が心配なので、領地の最高級魔力温泉の素を送っておきます。……あ、でも兄様には入る時間なんてありませんわね。ごめんあそばせ。
追伸:絶対に居場所は探さないでくださいね。レオが「結界に触れた者は影の餌にします」と張り切っていますから』
「……あの、馬鹿、妹が……ッ!」
カイルは手紙を握りつぶし、天を仰いだ。
リゼットが女王を引退したことで、大陸のパワーバランスは皮肉にも「カイル一強」となった。彼女は、自分を追放した世界を救うふりをして、その実、最も信頼でき、かつ最も「こき使える」実兄にすべての後始末を押し付けたのだ。
これこそが、彼女が人生をかけて完遂した、世界に対する最大の「ざまぁ」だった。
一方、その頃。
世界から「神隠し」に遭ったとされる、大陸の最果て。
結界によって守られ、地図からも抹消された「深淵の箱庭」では、時が止まったかのような穏やかな時間が流れていた。
白亜の小さな館。そのテラスでは、リゼットがレオの膝枕で昼寝を楽しんでいた。
「……ん。レオ、日差しが少し眩しいわ」
「申し訳ありません、リゼット。……影よ、お嬢様の夢を妨げる光を喰らえ」
レオが指を鳴らすと、周囲の影が意志を持ったように伸び、リゼットの顔元だけを完璧な濃度の陰で覆う。それは世界を滅ぼしかけた「深淵の王」の力だが、今や一人の女性の日除けとして、あまりにも贅沢に浪費されていた。
「……ふふ。レオは相変わらず、私の使い方が上手いわね」
「当然です。私は貴女の騎士であり、飼い犬であり、そして……貴女という名の神を祀る唯一の信徒なのですから」
レオはリゼットの柔らかな髪に指を通し、執着に満ちた瞳で彼女を見つめる。
彼の首に光る「永遠の誓約」の首輪。それはリゼットが彼を制御するためのものだが、レオにとっては、彼女に繋がれていることを証明する、何よりの宝物だった。
「ねえ、レオ。……アストルやマリアはどうなったかしら? 兄様の手紙には何も書いてなかったけれど」
「……ゴミの行方など、気にする必要はありません。……ですが、そうですね。風の噂では、エリュシオンの辺境にある『不毛の鉱山』で、一生かかっても返しきれない負債を背負わされ、泥水を啜りながら働いているとか」
「……まあ。あのプライドの高いアストル様が、泥水を? ……それは、最高のエンターテインメントね」
リゼットは扇で口元を隠し、クスクスと笑った。
かつて自分を泥沼に突き落とそうとした者たちが、今、自分たちが掘った穴で溺れている。その事実だけで、昼下がりの紅茶はいっそう美味しく感じられた。
「リゼット。……一つ、お願いがあります」
レオが、リゼットの腰を強く引き寄せた。彼の瞳が、紅い情熱を帯びて燃え上がる。
「……何かしら? スープの温度が気に入らなかった?」
「いいえ。……世界が貴女を忘れても、私だけは貴女のすべてを記憶している。……ですが、まだ足りない。……貴女の肌に、もっと深く、私の印を刻ませてください。……今夜は、明日の朝まで寝かせないと誓いましょう」
「……レオ。貴方、毎日それ言ってるわよ?」
「毎日思っているからです。……お嬢様。……あなたは、私だけの女王だ」
レオの唇が重なり、リゼットの思考は甘い霧の中に溶けていく。
彼女は知っている。この男の愛は、深淵よりも深く、そして永遠に底がないことを。
だが、それこそが、彼女が求めた「究極のスローライフ」の正体だった。
その日の夕刻。
元・聖女マリアと、元・王子アストルは、薄暗い炭鉱の底で、ひび割れた皿の粥を分け合っていた。
「……アストル様、もう限界ですわ。……なぜ、私がこんな汚い場所で……」
「黙れマリア! お前が『禁忌の魔法』なんて持ち出すから、リゼットの怒りを買ったんだ! ……ああ、リゼット……。今ならわかる、あいつだけが、あいつの金だけが、私の救いだったのに……!」
「……今更何を! ……ああ、レオ様……。あの美しい魔人の騎士様に、一度でいいから抱きしめられたかった……」
二人の罵り合いは、現場監督の鞭の音によって遮られる。
彼らに残されたのは、終わりのない労働と、かつて自分たちが捨てた「幸福」への果てしない後悔だけだった。
星が降る夜。
リゼットとレオは、館の屋上で夜空を眺めていた。
「レオ。世界は、私たちが死んだと思っているわね」
「ええ。それでいいのです。……リゼットを崇めるのは、私一人で十分だ」
レオはリゼットを背後から抱きしめ、その首筋に顔を埋める。
「……もし、また世界が貴女を求めても、私は二度と貴女を離さない。……たとえ世界を、もう一度虚無に帰してでも」
「……物騒なこと言わないで。……でも、もしそうなったら、また二人で『追放ごっこ』をしましょうか」
リゼットはレオの手に自分の手を重ねた。
二人の薬指には、新国家の予算の数年分に相当する、魔力を秘めた対の指輪が光っている。
悪役令嬢と呼ばれた少女は、今、世界で最も深い愛の中に隠居した。
彼女の物語は、歴史書には「悲劇の退位」として記されるかもしれない。
だが、この館から漏れる二人の笑い声を聞けば、誰もが理解するだろう。
これこそが、世界で最も傲慢で、最も華麗な「勝利」であることを。
「……愛しているわ、レオ。……私の、最強の騎士」
「……私もです、リゼット。……私の、永遠の主」
夜風が、二人の誓いを森の奥へと運んでいく。
その物語の続きを知る者は、もう、この世界のどこにもいない。




