第44話:召喚された「悪意」と、侵食のスキル
聖シュトラーウス公国の北方、かつてパラケルスが潜んでいた「氷獄の荒野」のさらに奥深く。そこには、世界の理が歪み、次元の壁が薄くなった『虚無の穴』が存在していた。
数千年の間、誰も近寄ることのなかったその禁忌の地で、今、禍々しい魔法陣が血のような赤黒い光を放っている。
「……ここが、異世界か」
魔法陣の中心に立っていたのは、この世界の住人とは明らかに異なる装いの青年だった。
黒いパーカーにジーンズ。手には、画面の割れたスマートフォン。どこにでもいる現代の若者――**伊集院徹**は、自身の足元に転がる数多の魔族の死体を一瞥し、薄汚い笑みを浮かべた。
彼は召喚された直後、自身を「魔王の依代」として利用しようとした召喚術師たちを、その場で皆殺しにしていた。それも、魔法や剣ではなく、彼が授かった唯一のチートスキルによって。
「【侵食】……。いいスキルだ。対象の定義を書き換え、俺の所有物にする。これさえあれば、このクソみたいな世界を、俺の好きなように塗り替えられる」
伊集院徹がスマホの画面をなぞるように魔法陣に手をかざすと、赤黒い霧が回路を侵食し、瞬時に青白い聖なる光をドブ川のような泥色に変質させた。
世界の法則を無視し、既存の事象を自らの色に染め上げる――それは、アルスの【真・調合】が持つ「再生」とは真逆の、「破壊的な再構築」の力だった。
***
同じ頃、リーフ村のアルスの屋敷。
窓から差し込む柔らかな陽光を浴びながら、アルスは新しく届いた『月光草』の乾燥具合を確かめていた。
「よし、これでセレナ様の言っていた『精神安定剤』の試作ができるな」
アルスが満足げに頷くと、背後からリリスが不機嫌そうな声を上げる。
「アルス、また公国の女のために働いているのか? 少しは自分のためにその腕を使えと言っているだろう」
「あはは、でもこれ、村のみんなの安眠枕にも使えるんだよ。リリスも最近、夜中に翼がピクピクしてたし、使ってみてよ」
「……む、それは……お前が作ったのなら、受け取ってやらんこともないが」
いつもの平和な光景。だが、その平穏を切り裂くように、工房の扉が勢いよく開かれた。
飛び込んできたのは、顔を蒼白にしたセレナだった。
「師匠! リリス様! 大変ですわ、北方の監視砦から緊急の魔導通信が……!」
「セレナ様? 落ち着いて、何があったんですか?」
アルスが差し出した冷たいお茶を一口飲み、セレナは震える声で告げた。
「北方の小国、ルーンバルド王国が……一夜にして『消滅』しました。いえ、正確には、国そのものが、正体不明の黒い結晶体に飲み込まれ、中の住人も兵士もすべて……異形の化け物に変えられてしまったと」
リリスの瞳が鋭く細まる。
「一夜で国一つを? どんな大規模魔法だ。魔王ゼノスでも、そんな効率の悪い真似はせんぞ」
「魔法ではありませんわ。報告によれば、それは『侵食』。触れるものすべてを黒く染め、意志を奪い、一つの巨大なネットワークに繋いでいく……まるで、この世界そのものを別の何かに書き換えようとしているような……」
アルスの胸に、かつてない嫌な予感が走った。彼がこれまで向き合ってきた「病」や「呪い」は、あくまでこの世界の理の中にあった。
だが、セレナの語るそれは、もっと異質で、冷徹な「悪意」を感じさせる。
「その『侵食』を起こしている中心に、誰かいるの?」
「はい。逃げ延びた偵察兵が、一人だけ目撃しています。……見たこともない奇妙な服を着た、黒髪の青年。彼は自らをこう名乗ったそうです」
セレナがその名を口にしようとした瞬間、屋敷の周囲のマナが激しく波打った。
アルスの【真・調合】が警鐘を鳴らす。空を見上げると、リーフ村の美しい青空の一角が、まるでインクを零したように黒く濁り始めていた。
「――『新しき世界の王、伊集院徹』と」
伊集院徹が放った「侵食」の先触れは、すでに辺境の地にまで届いていた。
空から降ってくるのは、雪でも雨でもない。黒い、結晶の欠片。それが地面に触れた瞬間、周囲の植物が苦悶の声を上げるように萎れ、不気味な黒い脈動を始めた。
「アルス、下がれ! 嫌な予感がする!」
リリスが瞬時に翼を広げ、アルスの前に立つ。
黒い結晶の欠片が、屋敷の庭に咲いていた『日だまり草』に触れた。
アルスが丹精込めて育て、村の人々の薬になっていたその草が、一瞬でどす黒く変色し、まるで牙のような棘を突き出してアルスたちに襲いかかってきた。
「草が……僕のポーションで育てた草が、牙を剥くなんて……」
「師匠、見てください! 結界が……聖域結界が、内側から食い破られていますわ!」
セレナが指差す先、公国から贈られた最高級の防御陣が、黒いシミのようなものに侵され、音を立てて崩壊していく。守るための盾が、内側から「敵」に書き換えられていた。
「……あはは、面白いね。この世界の『防御』ってやつは、全部マナの計算式でできてるんだ。だったら、その式の答えを書き換えちゃえば、ただのゴミだ」
空に浮かぶ黒い雲の中から、伊集院徹の嘲笑うような声が響いた。彼はまだ、ここにはいない。だが、彼の「侵食」した空間そのものが、彼の声帯となって響いているのだ。
「調合師アルス……だったか? お前の噂は聞いたよ。なんでも『奇跡の薬』で世界を救ってるんだって? でも、無駄だよ。俺のスキルは、お前の薬が効く『生命』そのものの定義を消し去るんだから」
「……君が、伊集院徹?」
アルスは一歩前に出て、黒く汚れゆく空を見据えた。その手には、いつものフラスコが握られている。
「勝手に僕の庭を汚さないでくれるかな。……この草たちは、明日、お腹を壊した子供たちのために使う予定だったんだ」
アルスの瞳に、静かな、けれど決して折れない意志の火が灯る。
調合師と、侵食者。最後の戦いの幕が上がった。
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