裏話:彼女が生涯知らぬこと
さて。
ここからのことを、ドロテアは生涯知らない。
サカリアスは後悔していた。
すぐ隣でいくら可愛がり甘やかし愛しても、同じ鳥籠の中に居るのでは外から鍵も掛けられない、と、気づくのが遅すぎた。ドロテアが、一門を出ていこうと思っていたことすら察せなかった。
目印になる呪具を与えていなかったのも失敗だった。
いなくなったドロテアを探すのは、予想以上に時間がかかった。サカリアスは天才だが、万能ではない。その空白の時間のせいで、彼女は他人に心を向けてしまった。
自分がどれだけ慈しんでも、あんなにうっとりを頬を染めやしなかった。
そんな女より、いつだってなんだってしてやったのに。
彼はドロテアを愛している。
何でもしてやろうと心から思うそれは、ドロテアがしらゆきに向けるものに勝るとも劣らない。だが、サカリアスはドロテアが欲しい。敬虔な信徒ではいられない。見返りが欲しいし、支配下に置きたい。彼女を暴き尽くして、ドロテアに関するすべてのことに携わる権利を声高に叫びたい。
感情を言葉にしても、言い尽くせない部分が大きすぎる。それほど全てを愛している。
だから、しらゆきが、憎い。
浮気された女は浮気相手を憎み、男は恋人を憎むという。その点ではサカリアスは女々しい男と言えるのかもしれない。負の感情は、すべて、ドロテアの視線を一身に受けて気付かぬ愚かな女に向けられた。
すぐにでも殺してやりたかったが、そうするには彼の理性は正しく機能していたし、死んだ人間こそ濃い影を落とす。だからといって、許すことはできない。
ドロテアがしらゆきに傾倒したのは、救われたからだ。満ち足りたときに受けるやさしさは、倒れ込んだときの光よりずっと軽い。無力感に苦悩し、たったひとりで路頭に迷ったときに、少しばかり綺麗なものが彼女を慰めた。
他のもので満ちていなかったから、そればかり見つめることになった。それならばサカリアスも救いになろうと決めた。今度は絶対に、離れさせない。
ほんとうは、しらゆきに失望すれば良いと思っていた。計画は簡単になるし、ただ失うよりも喪失感は大きいはずだ。見つめているうちにそうなってくれればよかったのに、精度の低いドロテアの魔法は女の暗部は届けなかった。
しらゆきは、ドロテアの想像よりずっと矮小で、どこにでも居る見かけだけの女だ。男の前では態度を変え、自分より下の女を馬鹿にする。町でいじめられていた少女だって、気に入りの男の妹だから助けた。使用人を金切り声で罵倒する姿は、その母と同じものだ。
だから、不本意だが女を彼女に近づけた。魔法で届かなかった声を届けるために。鏡を介して、女の母に「しらゆきはお前より美しい」「その美しさでお前を追い落とす」と言ってやれば、不安を煽られたそれは女を追い出しにかかった。
二人は実の母娘だが、しらゆきと再婚相手の父親に血縁はない。この国の法律では婚姻可能な男女である。
母親は容貌で成り上がった女、同じ武器を最も危険視するのも当然。思い通りにしらゆきはドロテアの元に行き着き、心優しい彼女は女を保護した。
誤算は、予想以上の心酔ぶり。
家事のすべてをドロテアにやらせ、不満しか口にしないで、王子なんてのを待つそれ。なのにドロテアはちっとも嫌わなかった。恋は盲目とでも言うのか、嬉々として世話を焼き、ものを与えた。
腹立たしいが、発見もあった。ドロテアは人のために奉仕するのが好きなようだった。閉じこめて甘やかし続けるよりも、一般的な妻のようにある程度の家事を任せたほうが居着いてくれそうだ。わかりやすい役割を与えよう。なんでもしてやりたいが、役に立ちたがるドロテアも殊勝で愛おしい。
もちろんドロテアの愛おしさと女への憎しみは両立する。
しらゆきのその状況を作り上げたのがサカリアスだとしても、多大なる幸福を当然の如く受け消費する姿は嫌悪に足りた。
失望のときはやってこない。こんな状況を見ていたくもなかったので、計画は早々に次に移行する。
ドロテアが己の無力にうちひしがれたときに、救世主の如く現れよう。離れない理由があれば、義理堅いドロテアは離れないままでいるはずだ。
彼女の感情をそこまで左右する存在となったしらゆきに苦い思いが湧くが、ドロテアが手に入るのだからと飲み下す。
サカリアスはそれからしらゆきの母に再度声を届ける。しらゆきは生きてお前の元に戻ってくる。殺さなければ終わらない。毒りんごの作り方を知っているかい?
彼女らの住む魔の森には、人間の食べられる甘い果物がない。甘いものに飢えたしらゆきは、たったひとつのりんごを自分のものにするだろう。
計画はとんとん拍子だった。
毒りんごを食べ、呪いをうけたしらゆき。打ちひしがれるドロテア、救いの手を差し伸べるサカリアス。
しらゆきへの感情に区切りをつけさせるため、見目の良い男を呼び寄せ、王子が迎えにきたと喜ぶ女を連れていく姿も見せた。その男がしらゆきの養父に恨みを持っているなんてことは、どうだっていい。
ようやく手に入った小さな手をそっと握り、サカリアスはドロテアを引き寄せる。
鳥籠の鍵は、今度こそ。
──とある国、とある家。
「ドロテアの料理はおいしいね。」
「ふふ、まさかサカリアスさまが料理できないなんて。」
「僕も神じゃないからね、できないこともあるさ。……きみが居てくれてよかった。」
艶が出てきて、もう藁には見えないドロテアの髪を、サカリアスが手を伸ばして撫でる。その優しくうつくしい微笑みを直視できず、ドロテアは頬を染めて俯いた。
完璧な彼にできないことを、自分がしてあげられる。必要とされている。そんなことがうれしくて、しあわせだ。
風に乗って、どこからか覚えのある花の香りがしていた。
二人が死んでいなければ、今もきっと幸せに過ごしていることでしょう。めでたしめでたし。