世界と断片:魔鍵と日常Ⅴ
暗く、深い谷底へと落ちたバッドエンドとファウスト。
二人は暫くの間、意識を失っていた。
「……う、……っ、」
先に意識を取り戻したのは、バッドエンドだった。
「っ、……き、……つい……な」
バッドエンドは上空の光の大きさに、とても登るのは無理そうだと判断した。
「……ん、……あ、れ……?」
そしてすぐに違和感に気づく。
激しい衝撃によって意識を失ったものの、これ程までに深い谷底に落ちたにも関わらずバッドエンドの身体はかすり傷程度に済んでおりほぼ無傷だった。
しかし、すぐに理解する。
直前の記憶を思い出した、自分を庇う為に力強く身体を抱きしめ続けたファウストの姿。
今もそれは同じで、バッドエンドはファウストの胸の中で目を覚ましたのだ。
最後まで、決してその手を離さなかったファウスト。
激しい衝撃以外から全て、バッドエンドを必死に庇いきった。
という事は。
ファウストが無事な訳がなかった。
それに気づくと、バッドエンドの全身から汗が急に吹き出てきた。
息を荒げて、急いでファウストの安否を確認する。
「ファ、ファウストッ? だ、大丈夫――――ッ!?」
バッドエンドは横たわりながら、目を見開き、表情を青ざめ、身体を震わす。
そして素早くファウストの身体から勢いよく離れた。
無理も無かった。
意識を取り戻したバッドエンドの目に飛び込んできたその光景はあまりに酷すぎた。
「そ、そんなッ……、ファウストッ!?」
バッドエンドは改めてファウストから離れ、その悲惨な光景に絶望した。
ファウストを中心に、大量の赤黒い血液が地面を染め上げていたのだ。
魔鍵や、強靭なガラムの血を引いている者とは違い、ファウストはただの人間。
あの高さから人間の少女と同じ体重を持つバッドエンドを抱きしめて落ちたのだ、これも当然の結果と言える。
普通に考えれば助かる見込みは限りなくゼロに近い。
誰もが諦める程、ファウストの状態は最悪だった。
しかし、それでも。
バッドエンドだけは諦めない、諦められなかった。
そんな現実を否定し、頑なにそんな結末を認めない。
「くッ……!!」
すぐさまファウストの元に近づき跪く。
意識を失い、大量の血を流して眼を閉じたままのファウストの状態に胸が張り裂けそうになる。
バッドエンドは涙と鼻水がどんどん溢れ出てくる。
そして、叫んだ。
「うっ、ひっぐ、すんっ、わ、ワタシの、せい、だッ!!」
バッドエンドはファウストの胸元に耳を必死に押し当てて、涙を流し、鼻をすすり、何度もえずく。
その水滴がファウストの白いカッターシャツを濡らしていく。
「すんっ、すんっ、お、お願い……お願い、だか、ら……ッ」
僅かな希望の音を絶対に逃さないよう集中する。
ファウストの鼓動を感じ、聞くまで、決して諦めない。
しかし、それをまるで嘲笑うように大きな風音が響き、集中するバッドエンドの聴覚を邪魔してくる。
だから、だから今は心臓の音を聞き取れない、それだけ。
そうに決まっている、バッドエンドは心の中で自分に何度も何度もそう言い聞かせた。
「ファウ、ス、トッ……」
恐怖と、後悔と、懺悔の涙が止まらない。
こうしてファウストが眼を覚まさないのは完全に自分のせいだ、そう思っている。
自分がティアラに行きたい、花畑を見たい、そう願わなければ、願わなければこんな事態は起きなかった。
求められるだけの、楽園の扉を開くだけの、魔鍵である自分が人間のように望みなど抱いてしまった事。
それが赦せなくなった。
「……うっ、うっ、すんっ」
魔鍵である自分が願い、求めてしまった事に対して激しい自己嫌悪に陥っているバッドエンド。
しかし、それでも、また願ってしまう。
例え自分を創った神だろうが、例え何だろうが、何でも良い。
自分を救ってくれたこのファウストの命を救って欲しい。
ただ心から、そう願ってしまう。
その為ならば、バッドエンドは己の全てを捧げる覚悟すらある。
このバッドエンドという存在がファウストにとってどれ程の存在なのか。
ファウストがバッドエンドに対してどのような感情を抱いているのか、そんなものバッドエンドにとって関係なかった。
魔鍵の少女は、自分に自由を与え、自分の記憶に無い感情を与えてくれ、そんなファウストの側に居れるだけで、ただ幸せを感じてしまう。
それは一方的な、一途な恋と呼ばれるものなのか、まだバッドエンドにはよくわかっていない。
ただこれだけは確かだ。
バッドエンドはファウストの事が大好きになっていた。
そんなファウストの居ない世界など考えられない。
例えバッドエンドがこの世界から消えようが、ファウストが幸せに生きていてくれたらそれだけで良いとさえ思える程だ。
魔鍵はとても独り善がりで、とてもわがままで、そして。
誰よりも一途にファウストを想っている。
「……ッ!?」
バッドエンドのそんな気持ちに応えるように、ファウストの心臓の鼓動が鳴った。
とても弱々しいが、バッドエンドの耳が確かにそれを聞き取った。
「……ぅ、……ぅぅ……」
そして、それに続くようにファウストの息苦しそうな呼吸、小さなうめき声も聞こえてくる。
「……ご、ごめ、ん、ね」
謝罪の言葉を小さく何度も繰り返し、安堵と罪悪感の混じった涙でどんどん頬を濡らし続ける。
これ以上、ファウストの身体に負担をかけないように急いで離れる。
まさに奇跡だった。
ただの人間なら確実にその命まで落としている。
だが、ファウストはただの人間でありながらただの人間ではなかった。
バッドエンドを庇うように力強く抱きしめ落下する中、ただならぬ集中力と観察力を冷静に発揮して辺りを見渡し、ある事に気づいていた。
それは、岩肌から突き生えたいくつもの朽ちた木の枝達。
ファウストは死に物狂いでバッドエンドを抱えるその身体を岩壁へと急いで軌道修正させていった。
そして地面との衝突に備えて、朽ちた木の枝に何度も必死にバッドエンドを庇いながらぶつけて、なるべく落下速度と衝撃を和らげていたのだ。
しかし、それでも普通に落下しただけならば死んでいただろう。
ファウストは地面と衝突した際、身体を激しく打ちつけ、何度か跳ねていた。
だが、何とかファウストは命を取り留めている。
何故ならファウストは、特に腕に抱えたバッドエンドと自分の頭だけは傷つけまいと、地面に接触する身体の箇所を出来る限り調整するという荒業を駆使しながら、最低限のダメージで抑えていたのだ。
そんなファウストの冷静な状況判断と常人離れした身体能力、そして奇跡的な状況によって何とか最悪の事態だけは避けた。
奇跡、そう言わざるを得ない。
「ぐすんっ、すんっ、フー……」
しかし、ファウストの命がまだ危険な事に変わりはない。
あくまでファウストは最悪の事態を避けただけ。
いくら落下速度と衝撃を和らげ、打ち所を調整したと言っても、ファウストの身体は深刻な事態を迎えている。
数多くの骨が折れ、今も大量の血液が流れ出ている。
何とか一命を取り留めているだけで、このまま放っておけばいずれ死んでしまう。
今、この場でファウストを救えるのはバッドエンドしかいない。
思い返せばファウストに救われてばかりで、迷惑ばかりかけている。
ファウストを救いたい、バッドエンドはそれしかなかった。
バッドエンドは必死の思いで涙を腕で拭い去る。
「待ってて……!! 絶対にワタシが君を死なせたりしないよッ!!!」
未だ眼を開ける気配の無いファウスト。
ファウストが初めて見せる衰弱した姿。
その姿に心が折れそうになるバッドエンド。
だが、すぐにファウストの言葉を思い出す。
私は絶対に死なない。
今のバッドエンドはその言葉を信じて、行動するしかなかった。
バッドエンドは必死に辺りをよく見渡し、何か無いかと目を凝らす。
薄暗い谷の底、涙のせいもあり視界がぼやけている。
だが、それでも必死に辺りを探索し続ける。
「うわぁッ!!」
そうしていると、バッドエンドが何かに躓き盛大にこけてしまった。
ここに落ちてくる前とは違い、今は自分の腕を掴んで助けてくれるファウストが側に居ない。
しばらく地面に横たわりながら、顔を土で汚したまま再び涙が零れ出てしまう。
「……ファウスト……うッ、クッ、ぅうッ」
涙が地面に落ちていく、しかしこうして泣いているだけではファウストを救えない。
辛い、だがそれでも行動するしかない。
バッドエンドは身体を震わせ、涙を流しながらその場から立ち上がる。
「絶対に……ッ、助けるんだ……ッ」
そう口にする事で、何とか気持ちを強く持とうとしていた。
自分のせいでファウストの命を危険に晒したと罪悪感を抱くバッドエンド。
そんな少女はそうでもしなければこの現状に心が耐えられなかった。
もしバッドエンドの心が折れ、ただ悲しみに明け暮れているだけでは本当にファウストの命が尽きてしまう。
「ちゃんとお礼も言って……ッ、謝るんだ……ッ!! ……それで、」
ファウストの元を去る。
バッドエンドは決意していた。
ファウストを無事に救った後、ファウストの元から姿を消そうとしている。
その決意は、想像を絶する程とても辛く、とても耐え難いものだった。
しかし、全てはファウストを想うが為。
契約者は不幸な結末を迎えると言われる魔鍵の自分がこれ以上、側にいる事でファウストを傷つける事が何よりも恐かった。
誰よりも大切な人が自分のせいで傷つく。
バッドエンドには耐えられない。
だから、ファウストの幸せの為にも自分は姿を消した方が良い、そう考えた結果だった。
「……あれ?」
一体、自分は何に躓いたんだろうかという疑問を抱く。
ようやくバッドエンドがそれに気づいた。
その場にしゃがみ、手探りでよく確認してみるとある物を見つけてバッドエンドは目を見開いた。




