魔眼と記憶:1話
波に揺れる旅客船。
その一室で、うなだれているファウスト。
相変わらず吐き気と頭痛が止まらない、だが先程よりはマシになっている。
眼を閉じベッドに横たわっている。
しかし、ファウストは決して眠る事はない、いや眠る事ができない。
それは船酔いのせいではない。
ファウストは眠る事が恐いのだ。
過去の記憶や魔眼を恐れている。
一度眠りにつくと、決まって悪夢を見てしまう。
そして魔眼、支配眼を未だ完全に支配できないでいるファウストは、長時間の睡眠をとるとその意識を奪われてしまう。
「……」
眠る事を恐れ、眠る事ができない。
いつしか深いクマがファウストの両眼の下にこうした理由で刻まれていった。
「ファウスト~」
そんな苦しみの中、バッドエンドが元気に部屋に入ってくる。
ファウストは身体をゆっくり起こし、そんな彼女を見る。
その愛らしい姿に少しだけ気分が良くなった気がした。
「もう、海はいいんですか……?」
ベッドの上から元気の無い姿で返事をするファウスト。
その横にバッドエンドも座り、手にしっかりと握られた小袋を差し出す。
「さっき、ワタシ達と同じでノイタールから乗ってた観光客の人が酔い止めの薬をくれたから持ってきたんだ~」
その小袋を嬉々とファウストに手渡し、水をすぐ用意する。
バッドエンドの献身的なその様子と、小袋に視線を移すファウスト。
「……どんな人から貰ったんです?」
得体の知れないその酔い止めの薬に不信感が隠せないでいる。
そんなファウストに水の入ったコップを渡し、その横に再び座る。
そして先程の老人の容姿を思い出す。
「えぇーと、スーツを着ててー、割と背が大きいくて……杖を持ってたおじいさんだったよ!」
その話を聞いてファウストは顔をしかめる。
僅か数名しか乗り合わせていないこの旅客船で、そのような人物は確認できていなかったのだ。
ますますこの薬に不信感が募る。
「怪しいですねぇ……」
そう告げて、小袋から少量の粉を手の平に取り出し確認する。
匂いを少し嗅いでみたいり、すり潰したりしてみるが毒薬の専門知識等無いファウストにはわからなかった。
そんな慎重に薬を調べるファウストをバッドエンドは悲しげな表情を浮かべる。
「おじいさんはアラトの薬だからちゃんと効くって言ってたよ……? それにそんな悪い人には見えなかった……よくわからないけど、あのおじいさんは絶対悪い人じゃないよ。勘だけどさ……」
会って間もない人間を簡単に信用しているバッドエンドにファウストは頭を悩ます。
それが時には自分の命すら奪う可能性がある事を教えておかねばならない。
バッドエンドの頭に優しく手を置き、自分の経験を言い聞かせる。
「いいですか、バッドエンド。世の中に絶対なんて言葉は無いんです。それに……人間という生物はどれだけ信頼を築いていようが何かがきっかけで簡単に裏切ったりするもんなんです。そう簡単に人を信用してばかりだと必ずいつかその身に牙が襲い掛かりますよ」
かつての偽りの親友、ジルの記憶が蘇る。
しかし、そんなファウストの言葉に納得がいかないバッドエンドだった。
自分の頭に優しく乗せられる手をそっと払い、ベッドから立ち上がる。
「……な、何でそんな事言うのさ。……じ、じゃあファウストもワタシをずっと側に置いてくれるって言葉も、今までの言葉全部が嘘なの? ……ファストは、もっと誰かを信用した方が良いと思うぜッ!」
そう言って部屋を飛び出すバッドエンド。
「ば、バッドエンドッ!」
急いで声をかけ、呼び止めるが間に合わなかった。
裏の世界でこれまで生きてきたファウストに他人を簡単に信用しろというのが無理な話だった。
「……ふぅ」
頭痛がまた強くなる。
溜息を吐きながら、ベッドに仰向けになった。
「はぁ……バッドエンドに、疑うという事をしないその考えは危険だという事を伝えたかっただけなんですがねぇ。……まぁ、私も私なんですが」
船酔いで苦しむ中、静かに眼を閉じるファウスト。
ファウストもわかってはいる。
簡単に人を信じる危険性については勿論だが、簡単に人を信じられない危険性についても。
これはあくまで例だが、実際この薬をすんなり信用して飲めば船酔いも治まるかもしれない。
だが、ファウストはその信憑性に疑問を抱き、絶対に飲まない。
この痛みがせっかく晴れたかもしれないのに。
信用していれば助かったかもしれない、本来ならば助かったとしても、しかしそれを無下にしてしまう。
ここでの例はあくまで船酔いの話だが、命だってそうだ。
信用していれば助かった、失わずに済んだ命だってあるはず。
しかし、そういった状況にもしファウストが遭遇した場合、その命は絶対に助からない。
ファウストは他人を絶対に信用しないからだ。
「私達は極端すぎるんですよねぇ、きっと……うッ」
再び嘔吐が胃から込み上げてくる。
すぐにベッドを立ち上がり、涙を浮かべトイレへと駆ける。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
勢い余って部屋を飛び出してしまったバッドエンド。
ただ、大好きなファウストに元気になって欲しい、喜んで欲しいと思っただけなのだ。
なのにそんな気持ちを拒否されたように感じたバッドエンドは船の甲板で悲しみに暮れていた。
潮風がポニーテールの黒髪をなぜる。
「ファウストのアホ……」
自分の気持ちを理解してくれていない、そう感じたバッドエンドは悲しみのあまり涙を浮かべてしまう。
深く麦藁帽子を被る。
そして柵に両手を置き、その上に顔を伏せながら海を見つめる。
「……」
暗い気持ちの中、その雄大な美しい景色が今のバッドエンドには眩しすぎる。
そして今まで深く考えていなかった、いや、無意識のうちに考えないようにしていた事について考えてしまう。
自分の、魔鍵の記憶。
魔鍵であるバッドエンドは大部分を占める記憶を失っていた。
それが魔鍵として当然の事なのか、意図的なものなのかはわからない。
しかし曖昧に憶えている事も多々ある。
歴代の契約者の人物像等は憶えていないが、最近まで契約していたギルバルドの事はしっかりと憶えている。
だが、自分がどういう経緯でギルバルドの手に渡ったのかは憶えていない。
かと思えば遥か以前の記憶で、名前も姿も声も憶えていない契約者に、道具として扱われてきた日々はしっかり憶えている。
まるで不の感情だけを残すように、忌まわしい記憶のみが残っている。
当然、自分という魔鍵が誰に、どの様にして創られたのかも憶えているわけもなかった。
そんな記憶が曖昧なバッドエンドに対し、ファウストとシルビアは楽園についてや、過去の出来事、魔鍵について深く追求してこなくなった。
それはバッドエンドを想っての事だった。
こんな自分の曖昧な記憶について考えてしまうのも、ファウストに嫌われてしまったかもしれないという不安感からくるものだ。
「はぁ……」
涙を浮かべ、深く溜息をつく。
そんなバッドエンドの背後に、あの老人の姿が現れる。
「また会ったのうお嬢さん。……どうしたんじゃ、えらく元気が無いのう」
酔い止めの薬をくれた、背丈の高い老人が心配そうに近づいてくる。
それに気づき、急いで涙を手で拭いながら、バッドエンドが無理をして作った笑顔でその老人を迎える。
「あ、あはは、さっきはありがと、おじいさん」
その様子に疑問を抱く老人が困った表情を浮かべる。
「いやいや、気にせんでいいと言ったじゃろう……で、連れの体調は良くなったかね?」
その言葉を聞くと、せっかく無理して作った笑顔も崩れ落ち、しょんぼりとしてしまう。
そしてなるべく言葉を包んで選び、老人に説明する。
「……し、知らない人から貰った物は、飲めないんだってさ」
「フォッフォッフォッ、なるほどのう。確かにそうじゃ」
そんなバッドエンドの言葉に笑顔でそう答える老人。
しかし、バッドエンドは拗ねた子供のような表情で少し怒ったように言う。
「なんで笑うのさ、おじいさんを悪い人って決めつけてるのと同じじゃないか」
何故か声を荒げてしまう。
自分でもよくわからない。
根拠は無い、だが何故かこの初めて会う老人は信用できる。
バッドエンドがそう信じた老人をファウストは信じてくれず、それに対して何故だか少し不満にだったのだ。
その様子を老人はただ黙って嬉しそうに、だが時々、寂しそうに見つめていた。
「ありがとう、わしの為にそうやって怒ってくれて……だが、こんな老いぼれの為に喧嘩する必要は無い。……その連れだってお嬢さんの気持ちはわかっているはずじゃよ? さぁ、早く仲直りしておいで」
「で、でも……嫌われたかも」
老人は思わず溜息をつく。
そして老人は海の先に小さく見える場所を指差す。
それはシアラ神国だった。
「アダム降臨祭はシアラの一大イベントじゃ、色々な出店や美しい芸術品の数々が展示されておって楽しいぞー。仲直りするなら絶好の場所じゃと思うぞ?」
「んー……」
バッドエンドは初めてのそのアダム降臨祭を想像してみる。
イヴの壁画を盗むまで時間に余裕がある。
それまでにファウストと二人で数々の出店や芸術品を鑑賞して楽しむその姿を想像してみた。
すると先程までの暗い表情が消え、自然といつもの明るい笑顔になっていく。
大好きなファウストとのデートに想いを馳せていく。
すっかり元気を取り戻したバッドエンドに老人も優しく微笑む。
「どれ、わしのような老人が差し出がましいが一つアドバイスをしてやろう」
老人がソッと耳打ちでバッドエンドに助言をしていく。
「おぉー……なるほど!!」
すると、バッドエンドはどんどん目を輝かせていく。
「ありがとう、おじいさん! やってみるよ!」
そう言って、すっかり元気になったバッドエンドは自室に戻っていく。
老人は手を振りそれを見送る。




