50
50
夜が明けたのだろうか。きっとそうなのだろう。
けれどもそれは、視覚的にはまったく感知されない夜明けだった。
あれほど空間を満たしていた、様々なもの音が、まるで潮が引くように遠退いていった。たぶんそのことが、夜明けをも意味していた。
浅い眠りを繰り返し、夢と夢の合間に感じる痛みや寒さも、またすぐに次の夢に呑まれた。金属の床の下で、何か巨大な生き物が、ずっと泳ぎ回っている気配がしていた。ときどき滑らかな背鰭が、水面を掻き分ける音さえ聴いたが、夜明けとともに気配も消えた。
(心とは、古い沼のようですわね)
ずっとヘレナの膝に抱かれていた。
ひんやりしているが、それは彼女の体温が、ぼくより少しだけ低いからに過ぎない。精霊が蛇のように冷たいという言い伝えは当たらない。下等精霊ならいざ知らず、彼女たちも生命の炎を燃焼させている以上、体温は持っている。たとえそれが、人間や動物とはまったく異なる仕組みで、作り出されるものにせよ。
(穏やかな日和のときは、綺麗に澄んで見えますが、ひとたび嵐が起これば、底に沈んだ堆積物が掻き乱され、たちまちどす黒く濁ってしまいます。それが……)
おもに子供たちに物語る女吟遊詩人の唄声のように、彼女の声が心地よく耳に染みた。
掻き合わせたマントの間から、手を伸ばした。指先が、彼女の腹部に触れた。やはり少し冷たい、滑らかな肌。柔和な曲線が、そこで愛くるしくくびれていた。いま彼女は、何も身につけていないだろうか。
彼女がかすかに、身をよじるのがわかった。
むなしく肌の上をさまよう、ぼくの手の意志を察したように、小さな掌が上から添えられた。上体をかがめてくれたのか、間もなくどこまでも柔らかな、充実した果実に触れた。幼子に戻ったように力が入らないまま、握りしめると、掌の中心で冬の莟が開花を待つ期待を硬くしていった。
あ……
彼女の吐息が、頬に甘く触れた。
すべては、まやかし。
我が師、ダーゲルドの口から、繰り返し聞かされた言葉だ。目に映るものも、指で触れるものも、耳で聴く音も、においも、味も、すべては、まやかしなのだ、と。嘘なのだ、と。すべては自身の感覚が作り上げた、幻影に過ぎない、と。
ぼくたちは幻影を愛し、幻影を憎み、幻影を渇望し、幻影に裏切られ、幻影に振り回されるうちに、ぼろぼろになって一生を終える、考え得る限り最大級の愚か者なのだ、
あ……
ならばみずから幻影を生み出す魔法使いこそが、愚者の中の愚者ではないか。
ダーゲルドは笑っていた。何も答えてはくれなかったが、いつになくその笑顔は柔和で、哀しげに映った。
なかば夢に呑まれながら、彼女の名を呼んだ。
すぐに唇が重ねられたので、たぶん彼女の耳に届いたのだろう。神殿の奥で立ったまま眠っている円柱の冷たさと、噴水のある廃墟でひっそりと咲いている、赤い花の柔らかなにおいと。すばしっこい小さな生き物が、ぼくの唇を掻き分けた。
かつてぼくは、成長を拒絶した。不老不死だとか、永遠の青春だとかが欲しかったんじゃない。成長したくなかった。だから、あの薬に耐えられたのかもしれない。冷酷なダーゲルドさえ反対し、あきらめ、そして驚愕した。あの薬を使って、体が腐らなかったのは、何百人に一人だと溜息をついた。
それからぼくは見てしまった。何十人もの、不老不死にとり憑かれた魔法使いたちの末路を。即死するか、みずから命を絶った者は、まだ幸福なほうだ。薬液に身を浸したまま百年生きた男。首以外のあらゆる部分が、昆虫や、ほかの下等生物に変化していった男。皮膚や肉が透明になり、臓器と骨が透けて見えていた男。
あ……
何も生み出したくなかった。
きっと、ぼくは、幻影以外の何も。夜ごと五体を引き裂かれるような、孤独と引きかえに。だから結局は、かれらと何ら変わることはない。あの薬で肉体を破壊されなかったこと以外、何も。
いや、もしかすると、若さという殻の中に固定されてしまった自身こそ、最も呪われた存在なのかもしれない。
けれどもいったぼくは何に、呪われたのだろう。ダーゲルドに? あの薬に? 肉体を蝕まれた魔法使いたちに? それとも大神アブラクサスに? あるいはもっと別の何者かに?
(心とは、古い沼のようですわね)
彼女の体温を感じた。
いつのまにか、ぼくの体の下に。精霊の体は、したたかな弾力でぼくを支えていた。何も生み出さない。何も生み出せない。幻影以外の何も、
何も、
何も、
何も、
ほんとうはそこに何もあるはずがない、幻影を抱きしめるぼく自身もまた、幻影に過ぎない気がした。
あ……
身を仰け反らせたぼくの背中に、彼女の指がしがみつこうとした。その手はあまりにも弱々しく、今にも滑り落ちそうになりながら、いつまでも、次の夢に呑みこまれるまで、ぼくの背中に留まっていた。