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(たぶん、消えるな)
思ったとおり、床の上でもんどりうつグールの全身は、すでに蒼い炎に包まれていた。異臭がしたが、肉の焦げるにおいではない。氷が溶けて水になるように、グールを構成していた組織が、そっくり炎と化してゆくのだ。
うつぶせにたおれた食屍鬼のほうも、まず首が燃え上がり、続いて体が、手足の末端から炎に包まれた。ヘレナは陰火の舌に足を舐められながら、微動だにしない。おそらくぼくが触れても、まったく熱さは感じないだろう。
食屍鬼の群れに波紋のような動揺が広がる。ヘレナは硬い床に爪の先が触れるほど、さらに姿勢を低くした。美しくて残酷な獣……けれど、彼女の髪は短いまま。依然として剣もあらわれないので、やはりパワー不足は否めない。細い肩が上下しているさまが痛々しい。
背後からは、円形の広間に侵入した連中が、にじり寄ってくる気配を感じる。マント越しに眺めると、中には朽ち木の枝に蔓で巻き付けた石斧を、振りかざしているやつもいる。だとすると、こいつらは我々「人間」と似た姿をした生き物。どれほど大昔か知らないが、この辺りに棲んでいて、何らかの理由で一匹残らず滅んでしまった種族ではあるまいか。
前方へ目を遣ると、燃え尽きた炎の下から、かさかさに干からびた骨が露出していた。邪悪な種族。おそらく好戦的で殺戮に明け暮れ、憎しみと怒りのうちに滅んだ。その亡骸に飢え死にした霊が引き寄せられ、食屍鬼としてよみがえったのだろう。
いくら下等な邪鬼であれ、こんな化け物をいちいち潰していたのではキリがない。この呪われた広間からの退路を見出すのが、得策に違いないのだが。
ぎーぃぃぃぃいいいっ!
猿とも鳥ともつかない叫び声を発しながら、ヘレナの左右からグールが数匹ずつ、飛びかかるのが見えた。すっかり退化しているが、異様に長い腕の下に、コウモリ類を想わせる膜質の翼が見てとれた。ゆえにかなり離れた位置からでも、飛んで来られるわけだが、四肢を広げて宙を泳いで渡る姿は、あまりにも冒涜的である。
「ヘレナは右のやつを屠れ!」
さすがにぼくも、ご主人さま面して高みの見物というわけにはゆかない。腰のポーチの蓋を跳ね上げ、干したザイル虫をいくつか、つかみ取った。
一スーンくらいのずんぐりした褐色の昆虫で、前胸背板の真ん中に黄色くて平たい真円形の突起がある。要するに、大きめの黄金虫に一つ眼を貼りつけたようなやつ。
呪文を唱えるとき、こめかみを刺すような痛みが貫いた。いよいよミワが枯渇し始めている証拠だ。ザイル虫を宙に放つと、黄色い一つ眼が輝き、硬直していた脚や触覚が蠢いた。落下する直前に前翅を広げると、ぶーんと唸りながら、ヘレナの左方から飛んでくるグールの一団へ突っ込んでゆく。
乾燥させた虫の体に特殊な薬草を詰め、霊を封じ込めておいた緊急用の武器。ミイラ化したザイル虫なので、ミ・ザイルと略される。
破裂音とともに、最初にミ・ザイルと接触したグールの五体が吹き飛んだ。よし、うまく機能している。薬草は霊との衝突で破裂する仕掛け。他のグールが方向転換して身をかわそうとしたが、もう遅い。ひとたび昆虫の黄色い眼に捕捉されたら最後、ミ・ザイルはどこまでも追いすがる。
左方で立て続けに破裂音が響いている間、ヘレナは眉間の先で手首をクロスさせた姿勢を作り、右へ跳んだ。充分引き寄せたところで、先頭の一匹の首を切断すると、左右に広げた両手の爪は、両側のグールの肉を腹から顔面にかけて、間違いなくえぐっていた。
燔祭の夜空のように、無数の蒼い火花が中空に広がった。ばらばらになった骨が降りそそぎ、金属の床の上で乾いた音をたてた。彼女が着地したところを狙って、地上と空中から、食屍鬼どもがわらわらと群がる。背後の連中も、斧を投げれば届くほど、距離を縮めてきている。
だめだ。これではほんとうにキリがない。
無数の食屍鬼たちの背中に隠されて、もはやヘレナの姿は見えない。悲鳴も叫び声も聞こえないかわりに、化け物どもの舌舐めずりと、肉を裂くような湿った音が響いた。
万事休すというやつか。
考えてみれば、ここまでミワの落ちたぼくに、彼女がつき従う義務はないはずだ。悪鬼はミワによって拘束されているに過ぎない。今こそ、ぼくを見捨ててどこへ行こうと自由なのだし、それは現在、ぼくから分断されているほかの悪鬼たちにも言えることではないか。
ぼっ、と床の上で、ひときわ大きな陰火が燃え上がった。
瞬時、ついにヘレナが食屍鬼どもに屠られたのだと考えた。
炎の中心に、華奢なシルエットが立ち尽くしていた。ほとんど裸身で、床に届くほど長い髪が、波にたゆたうように揺れていた。ゆうらりと歩み出た彼女の手には、銀色の光を放つ、氷の長剣が握られていた。
戦闘モード完全体……
「ヘレナ」
「お守りしますと申したはずです。ご主人さま、そこをお退きになって」
あんな小さな体で、よく振り回せるものだと思う。氷の長剣の切っ先が翻って、床すれすれの、斜め後ろに固定された。また深々と腰を落とした、無数の蛇のように踊る黒髪になかば隠された彼女の唇を、小さな舌先がゆっくりと舐めた。