49(2)
「灯が燃えている以上、少なくとも先客がいることになるが……」
目を凝らしたけれど、磨き込まれたような平らな床の上に、人影はおろか、動くものの影はまったく見えなかった。ヘレナが囁く。
「あの火は、実体を持ちませんわ」
「わかっているさ」
薪であれ油であれ、あるモノが急速に別のモノへと変わるとき、放出される熱と光。それが炎だと魔法書に書いてある。それとはまた別に、薪も油も用いずに燃える火がある。例えばこの蛍石は、大昔に光を放っていた昆虫の化石を、魔法で蘇らせたもの。また、この世に激しい未練を残して死んだ者の情念が炎と化したのが、鬼火だ。
もしもあの三つの巨大な燭台で燃えているのが鬼火だとしたら、盗賊が巣食っているより厄介だと言える。
「まあ、行ってみるまでだね」
砦に足を踏み入れた以上、もはや引き返せないような気がしていた。昔話に語られる、フェネック狩りの男たちが迷い込んだ料理店のように。何者かが、ぼくたちにフルコースを振る舞おうと、手ぐすね引いているような感覚があった。
むろんそれは決して、愉快なフルコースではなさそうだが。
橋に足をかける。青銅製らしく、幅は、一人がやっと歩ける程度。少年の姿をしたぼくですら、足を交叉させて出さなければならない。どれほど身軽でありたいと願っても、人は宙に浮けない。精霊であるヘレナと異なり、質量という、どうしようもない呪縛から、ぼくたち「生き物」は逃れられない。
水に浸かった支柱は心許なく、歩くたびに金属片がぱらぱらと剥がれ落ち、湖底へ沈んでゆく。
(湖底へ……)
そうだ。
ここが湖と繋がっている以上、最もおぞましい想像は、あの「魚」が入り込めないとも限らないということだ。またしても危なっかしい綱渡りを始めたぼくを、今なら好きなように、おのれの領域へ引きずり込めるだろう。
あまりそうしたくはなかったが、橋の途中で立ち止まり、水中を覗き込んだ。外の嵐が嘘のように、水は静かに湛えられ、蒼い炎が無数の波紋に映えている。不思議なくらい澄んでいるので、底まで覗けそうだが、黒い巨大な影が近づいてくる気配はない。
支柱には巻き貝が多く貼りつき、手長蟹が蠢いているのがわかった。
広間へは、一直線では行けず、交叉する橋から橋へと、じぐざぐに渡らなければならない。途中、幾つかの階段を交えて、一度、湖水すれすれまで下がり、さらに高みにある円形の広間へ上るのだ。
その遅々とした足取りは、もどかしいばかり。だいいち、砦としての機能が、これで果たせるのか。敵の侵入の妨げにはなっても、兵が打って出る場合は、とても困るのではないか。
あるいは、言い伝えにあるように、ここは砦になる前、まったく別の用途で使われていたのだろうか。だからこれほどまでに、ひたすら外部からの侵入を拒む作りになっているのかもしれない。
そう考えたところで、覚えず身震いせずにはいられなかった。
「ご主人さま、あれを」
橋が尽き、見上げるほどの階段が、広間の縁に達していた。いまにもぽきりと折れそうなほど細長く、やはり緑青をたっぷりと吹いていた。途中、幾つかの古い頭蓋骨が、こちら向きに点々と置かれたさまは、まるでわざと飾ったようである。けれどもヘレナが指摘したのは、髑髏ではなく、階段の真ん中にうずくまる、耳の長い小動物のほうだ。
「フェネック?」
別名、砂漠狐と呼ばれる。ザ・ザの乾燥地帯ではよく見かけたし、あんな不毛の土地で、僅かな草の実なんかを囓りながら、よく生きらるものだと、そのたび感心した。けれども、百年以上生きたぼくに言わせれば、逆にこれほど湿った場所では、決して目にすることのない獣だ。
ふさふさした毛の中にみずから身をうずめ、耳をぴんと立てて、こちらを覗き込むように見下ろしている。かつては愛らしく感じた姿が、異様な戦慄を誘う……と、獣は身を翻し、特徴的な尾を揺らしながら階段を駆け上がると、広間の縁へ消える前に、一度だけ立ち止まって振り向いた。
顔に対して不釣り合いなほど大きな目が、燐の燃える色に輝いていた。
「あの尻尾の揺れかたを見たかい。まるで、おいでおいでをしているようだった」
広間は、巨大な銀の盆にほかならなかった。