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片膝をついて、荒い息を吐きながら、ぼくは城塞を見上げた。ずんぐりとした巻き貝を想わせる奇岩が、高々とそびえ、てっぺんに、人工の城の尖塔が覗いた。
岩をくり貫いた、水上の城塞。
城壁がない代わりに、切り立った崖の真下を湖水が浸している。岩の表面からは、幾つもの尖った突起が突き出し、それが天然の塔としても、機能していたのだろう。城門から砦まで、三十マリートほど。正面にの入り口は、朽ちかけた扉で、閉ざされているのがわかった。
風雨が幾分、収まってきた。城門は口を開けたままなのに、刺客が侵入する気配はない。オックスドラゴンが沈んで以来、攻撃側は不気味な沈黙を保っている。
「ご主人さま、この城は……」
ヘレナが何を言おうとしたのか、ぼくにはよくわかっていた。
城門から一歩入ったとたん、ぴりぴりとエレキじみたおぞましい感触が、皮膚を這い回っていた。髪の毛が逆立つような戦慄。凄まじい妖気の塊に、飛び込んだに等しかった。誰に言うともなく、ぼくはつぶやいた。
「この砦に駐屯した部隊が、少なくとも一度は全滅してるんだ」
「敵襲に遭って?」
「いや、こんな堅牢な砦が、そう簡単に落ちるものじゃない。ただ城を守っていた部隊からの音信が、いつの間にか途絶えている。査察を入れてみると、城の中は血の海で、一人も生きてなかったというんだ」
城塞に跳ね返された風が、方々で旋毛を巻いた。無数の亡霊が唸るような響きは、とても風の音とは思えなかった。
悪鬼でさえも怯えさせるのか、見開かれたヘレナの目を覗きこみながら、ぼくは言葉を継いだ。
「真相は謎に包まれている。王宮側によってひた隠しにされたし、城がうち捨てられて、百年は経つからね。ただ、夜の吟遊詩人たちが唄い継いできた噂話が、残っているばかりで」
「例えば?」
ぼくは肩をすくめた。
必要な情報を得るために、彼女が訊いてくるのは理解しているつもりでも、小柄なことも相まって、外見上は一人の怯えた女の子にしか見えない。
「兵たちは一人を除いた全員が魔に憑かれ、気が狂った。お互いに残酷な方法で殺し合い、魔物をおおいに愉しませながら、ついに一人を除いた全員が死んだ。生き残った一人は、城に貯えられた宝の山の上で笑いに笑った。酒樽を独り占めにして、幾夜も飲み明かし、そしてある三日月の晩、塔のてっぺんから身を投げた」
そして誰もいなくなった。
無意識に、ヘレナが二の腕をさするのを見た。ぼくは両手を広げてみせた。
「ぼくが散文的に話しても、面白味がないけどね。夜の吟遊詩人たちはリュートを弾きながら、これを装飾的な言葉で、情感たっぷりに唄うから」
ひゅう、と風が唸りながら通り過ぎた。その瞬間、雲が蒼い光を孕み、遠雷が轟いた。
「もちろん、奇妙な噂はそれだけじゃない。城がうち捨てられたあとも、夜な夜な砦に灯りがともるとか。剣戟や闘争の声、もしくは、杯を打ち合わせながら、この世のものとは思えない笑い声が響くとか。また、財宝を狙って忍び込んだ盗賊が、一人残らず八つ裂きにされたり、鬼退治気取りの豪傑が、やはり無残な死にかたをしたり。どこまでが真実か、保証の限りじゃないけどね」
夜の吟遊詩人は、一般の歌い手たちと異なり、陰惨な出来事ばかりをレパートリーとする。深夜、寂しい城壁の外などで、かれらが焚火をして唄い始めると、どこからともなく、人が集まって来るものだ。魔物、妖物、怪異、殺人……かれらの暗い唄に好んで耳を傾ける者は、意外に多いらしい。
また雷が鳴り、城塞のシルエットを黒々と浮かび上がらせた。湖を取り囲む森へ目を走らせると、鬼火を想わせる篝火が、ぽつぽつと燃えていた。当たり前だが、依然、包囲は解かれていないのだ。
「これも計算のうちなのか……」
「えっ」
「ダーゲルドさ。わざとこの城へ誘い込んだのかもしれない。もし夜の吟遊詩人が伝えるとおりなら、ぼくたちはお互いに殺し合うか、あるいは魔物に屠られるか……高みの見物を決めこんでいる間に、決着がついてしまう仕掛けなんだろう」
我が師ながら、相変わらず粘着質なまでに、周到だ。ぼくは眉根を寄せた。