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「キューレボルン……まさか!」
ヘレナが驚きの声を上げた。
キューレボルンは、彼女たち水妖にとっては、いわば神のような存在だ。真っ黒い、とてつもなく巨大な不定形の姿が、魔法書の挿絵に載っていた。また自身を分裂させ、あらゆる水場に入り込むことができる。水妖はキューレボルンの分身が進化した姿だという説もあるから、彼女たちの父親だとも言える。
妖星じみた四つの蒼い眼を輝かせ、オックスドラゴンは大口を開けて吠えた。かれもまた、驚いたのだろう。ごつごつと尖った唇の裏に、人間とそっくりな、けれど巨大な歯がおぞましく覗き、紫色の太い舌が、奇怪な生き物のように闇の中で震えた。
牛竜は巨体からは想像できない敏捷さで急旋回し、憎悪を籠めて突進してゆく。その先にある水しぶきの主は、まだ姿をあらわさない。が、ぎらりと蒼い光を放つ、三日月形の背鰭が覗いたので、キューレボルンではないことは、確かだ。
魚、なのだろうか。それも、海に棲むボエルなみのデカブツ……
そもそも三百年生きているが、こんな広くもない淡水湖に、十マリート超の巨魚が自然状態で棲息しているなんて話は、聞いた例しがない。年代記をひも解けば、大昔に石と化した怪物の生き残りが、方々にいたらしいが、そんな「ヌシ」たちも、伝説の英雄たちに退治され尽くされたと聞く。
岩盤のような鰭が、また水を叩いたのだろう。大神殿の支柱なみの水しぶきが何本も立ちのぼり、耳を覆いたくなるような、牛竜の声が響いた。
「ご主人さま、今のうちです」
ぎゅっと、ヘレナに手を握られた。表情から驚きが消えており、固く寄せられた眉の下には、けれど希望を示す光が見て取れた。
「うん、急ごう。あいつが何者か、わからないけれど」
なぜこのタイミングで刺客を襲ったのか。牛竜はずっと身を潜めて、機会の到来を待っていたはずだから、もし縄張りを荒らされたのなら、とっくに攻撃を仕掛けて然るべきなのに。
頭上から何度もいやというほど水の塊を浴びるのは、二匹の怪物が間近で格闘しているからだ。そのたびに、足元に叩きつけられるので、あと僅か十数マリートの距離がなかなか稼げない。
怪物たちの咆吼が嵐の夜を切り裂く。海魚の尾鰭とおぼしいものが、一度ならずぼくの真横をかすめ、刃のような銀色の閃光とともに、マントの一部を削り取ってゆく。ヘレナはぼくの手をしっかり掴んだまま、這うように城門へにじり寄る。
彼女は時おり振り返り、励ますような眼差しを送る。得も言われぬ歓喜が、身体の奥底からぞくぞくと湧いてくる。
愉しい!
見上げた城門は、明らかに巨人の首が模されている。虚ろな穴からなる両眼は、不穏な空を透かし、狂気を孕んだ眼差しで見下ろしているように思える。ほぼ円形に、ぽっかりと開いた口の上部には、鍾乳石のような突起が、ごつごつと垂れ下がっている。
(そろそろ来ても、おかしくない頃だな)
巨人の首と見つめあったまま、ぼくは考えた。さしものダーゲルドも、牛竜の足を止められたのは、不測の事態だったろう。空域から第二波を送り込むには、一手間がかかるはずだ。が、それも時間の問題……ヘレナが鋭い声を上げた。
「ご主人さま、上!」
「早いな。さすが我が師、ダーゲルド!」
減らず口を叩きつつ、ぼくは素早く片手の指を複雑に交叉させ、呪文を唱えた。さっきから城門に貼りついている下級精霊たちに、目をつけていたのだ。甲殻類とも昆虫ともつかないかれらは、こんな荒れ地に棲むわりにまるまると肥えて、なかなか頼もしげである。
緑色の光を帯びたとたん、両手の大きな鋏をふりかざし、かれらは次々と甲虫に似た翅を広げた。キーンと鋭い音をたてて急降下してくる敵の精霊たちを、そのまま迎え撃ち、壮絶な空中戦を演じ始めた。
「ナイスです。一気に駆け抜けますわ!」
古代語を交えてヘレナが叫び、次の瞬間、腕がちぎれそうなほど引っ張られた。半ば這うように城門へ飛び込もうとしたとき、凄まじい風が真正面から吹き付けた。かろうじて踏みこたえながら、うおおおおん、という地底から響くような音を聞いた。
鬼が、吠えているのだ。
もしほんのちょっと、中へ飛び込むのが遅れたら、ぼくの身体は無残な姿で、地中にのめり込んでいただろう。無数の、尖った岩の塊が落下してきて、城門の真下に突き刺さったから。
振り返ると、建ち並ぶ墓標のような岩越しに、巨大な三日月形の尾鰭が、水面に高々と翻るのが見えた。オックスドラゴンの全身はすでに水中に没したのか、ただどす黒い血液が、見る間に広がってゆくのがわかった。