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「心とは、古い沼のようですわね」

 風になぶられるマントの音。その隙間から、彼女の声を聴いた気がした。

 もしかするとそれは、ぼく自身の声だったのかもしれないが。

「穏やかな日和のときは、綺麗に澄んで見えますが、ひとたび嵐が起これば、底に沈んだ堆積物が掻き乱され、たちまちどす黒く濁ってしまいます。それが……」

「それが?」

「憎悪なのですね」

 マントが重く、得体の知れない生き物のように、背中にのしかかってくる。嘲笑うようにはためきながら、隙あらばぼくの足をさらい、どす黒い水の中へ叩き込もうと目論んでいる。

 ハーミアからも引き離されたのは、痛手だったと今更思う。風妖なら、ぼくたちの周りだけでも、風向きを変えることができるのだから。

 振り返るまでもない。

 ほとんど真円形に広がる湖水。その周囲をめぐる黒い木立の中に、ドラゴンたちの眼のような、無数の松明が禍々しく揺らめいている。蒼ざめた月が、荒れ狂う水の中で煌々とうずくまっている。

 この湖は、王国軍によって幾重にも包囲されているのだ。空は雲一つなく晴れているのに、湖水が荒れ狂うのは、ダーゲルド・オーシノウが魔風を操っているからにほかならない。

 開戦後、破竹の勢いで、王都のおよそ三分の一を制圧したぼくは、ダーゲルドの参戦によって、たちまちタジール公領の間際まで押し返された。五匹の使鬼たちとの連帯は、ずたずたに分断され、ミワによる指令は攪乱された。もともとの師匠である。ぼくの手の内を見透かされているのは、当然といえた。

 ただ、ぼくに付き添うかたちで配備されていたヘレナだけが、荒れ狂う湖水の上を、ともに歩いていた。

 いや、いくら魔法使いでも、広大な水面を歩いて渡ることはできない。それが許されるのは神だけであろう。この“真月湖”には限りなく細長い、橋がかけられているのだ。

 幸いなことに、吊り橋ではない。けれど欄干も何もなく、朽ちかけた煉瓦が、僅かに水面から頭を覗かせているばかり。しかもその幅は、片方の足をようやく支えるに足りるほど。

 少しずつ、足を交互に動かしながら前進する速度は、陸棲の貝と変わらない。マントが帆のようになびいて、身体を右へ左へ傾かせる。魔風を吹かせながら、ダーゲルドはぼくを嘲笑うために、この無様な綱渡りを演じさせているのだろうか。

 使鬼を送るまでもない。ぼくを転落させるには、下級精霊を群がらせるだけで事足りる。もちろんヘレナは、そのことを警戒して身構えているのだが、前方を見つめることしかできないぼくには、彼女の声しか聴こえない。

 だから、思い出したのだろう。

 はためくシーツの音……声だけしか存在しない彼女……

(なぜ、襲ってこない?)

 奇岩のようにそびえる黒い影が、しだいに大きくなってくる。湖のほぼ中央に立つ古城。ぼくが生まれる二百年ほど前、公領に睨みをきかせるため、王国が築いた辺境の要塞だ。タジール公との和睦が結ばれ、実質的な二重支配が成立するに及んで、うち捨てられた。

 城には魔物が巣食い、駐屯する兵に害をなすのだと囁かれた。そうして廃城になったあとも、このセレーヌ城にまつわる奇怪な噂は絶えなかった。

「ヘレナ、まだ敵は仕掛けてこないか?」

 城門まで、あと百マリートも満たない。あの冷徹なダーゲルドが、みすみすぼくを城へ逃げ込ませるとは考えられない。かつての子弟とはいえ、敵は敵。ひとたび標的とみなした相手は、徹底的に屠るのが、かれのやり方だ。

 ヘレナが守っているとはいえ、ぼくを湖水に突き落とすだけなら、た易いはずだ。おそらく水中には、かれが呼び寄せた妖物がうようよと口を開けて待っているだろう。転落したが最後、再び浮かび上がってくるのは、血に染まったマントだけなのは目に見えている。

「はい、何も。憎悪以外の、何も」

 だとすれば、たどり着く直前が、最も危険なのだろう。ぼくを最大限に永く苦しめ、最も深い絶望へ突き落すために、目の前に餌をちらつかせるのだろう。

 希望という名の餌を。

 まるで神のように。

 だがなぜ、ダーゲルド・オーシノウはぼくを激しく憎むのか。まるで前世の記憶のように、その原因を思い出すことができない。

 なぜ?

 あと三十マリート。

「現れました」

 風が絞り出す悲鳴の底に、野獣めいた唸り声がうずくまっていた。こんな湖の只中に、どんな大型獣が棲まうというのか。かろうじて右方へ目を向けると、蒼い四つの光点が、殺意に満ちた視線とともに、こちらへ向けられていた。その上下を、鎌形の光が四つ、X字型に縁どっていた。

 四つ眼で、長く突き出た角と牙をもつ獣。水面に半身を浮かべて、黒々とうずくまる姿に、ぼくは見覚えがあった。

 牛竜に違いない。

 なるほど、オックスドラゴンなら、水中を密かに接近できる。空域を警戒していたヘレナにも、死角だったろう。言うまでもなくヘレナは水妖であり、水中戦は望むところだろうが、さすがにこれほどのデカブツを瞬時に倒すことは不可能。

 その間に空域から妖物でぼくを攻撃すればよい。もしヘレナが動かなければ、牛竜を突進させるまで。

(落ちぶれても、ダーゲルドの名は伊達じゃない。万事休すというやつか)

 窮地に陥りながら、なぜか溢れてくる愉快さを、どうすることもできなかった。所詮ぼくは悪鬼と同類なのだろう。憎悪と憎悪のぶつかり合う争いの中に、血みどろの愉しみを見出す類いの、最も堕落した人間なのだろう。

 どうしようもなく、口の端から洩れる笑みを蒼ざめた月が照らしたとき、牛竜の背後でまっ黒い、巨大な水しぶきが上がった。

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