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47(2)

 一階の奥にある“小間使い部屋”に、ヘレナはいなかった。

 ノックしても返事がなかったので、眠っているとばかり思ったのだが。ほとんど寝乱れた跡のないベッドの上に、真新しい衣服が几帳面にたたまれていた。

 彼女たち悪鬼は、基本的にエレメントであって、肉体はない。あるように感じるのは、一時的に周囲のマテリアルを繋ぎ合わせているから。つまり“化けて”いるのだ……そんな理屈が頭をよぎったが、すぐに、彼女は消滅したのではないかという、恐ろしい疑問にぶつかった。

 ベッドの足元に盥が置かれ、血に染まった包帯が、うずたかく積もっていた。縦長の窓が開いたままで、薄手の白いカーテンが微風に揺れていた。

 かすかなハミングが、カーテンの後ろから洩れてきた。

「ヘレナ、そこにいるの?」

 窓をくぐって、煉瓦敷きのテラスに出た。

 テラスはそのまま庭に繋がっており、花壇の草花が旺盛な香りをたちのぼらせていた。庭木と庭木の間に、幾重にもロープが張られ、純白のシーツが何十枚も干してある。やわらかな風に揺れながら、シーツは歌声の主をぼくの視界から隠していた。

「まだ仕事をしちゃだめだよ。休んでいたほうがいい」

 背後ではベルメエルが、ようやく体を曲げて窓をくぐり抜けたところ。三角帽を胸の前で持ち、やけに神妙な面持ちで突っ立っていた。

 歌声が止んで、彼女の気配だけが、シーツの向こうに取り残された。

「ヘレナ……?」

「気持ちの好い天気ですわね」

 覚えず空を見上げたが、緑の繭にさえぎられて、やはり青空は見えなかった。

 どんなに晴れていても、この国では薄曇りほどの光しか届かない。だからこの国にいると、常にまどろんでいるような、ぼんやりとした気持ちにさせられる。起きているのか夢を見ているのか、境界が曖昧になる。

 ベルメエルの鼻先に蝶がとまっている。置物と化したように、かれは微動だにしない。

 市場やボーデン夫人の家でも、こんな直立不動のヤフーを見て驚いたものだが、馬が立ったまま眠るように、まったく苦にならないようだ。この場では何も見ざる聞かざるという、老ヤフーの配慮だと解釈して、「フォルスタンテ」の演技をかなぐり捨てることにした。

 揺らめくシーツの向こうから、また彼女の声が聴こえた。

「ハーミアは消えてしまったのですか」

「いや、指輪の光は健在だよ。かれがとどめをささなかったからね。きっとまた性懲りもなく、襲ってくるに違いない」

「あまり、あの子を責めないでください。わたくしたち悪鬼は、闘争することを宿命づけられています。たとえご主人さまでも、ミワが衰えた以上、戦いを仕掛けなければなりません」

「掟だから? きみもそうなのかい?」

 沈黙のなか、微風が芳香を運んできた。花の香りともまた異なる、しっとりと甘い牧草地のような。

 急に胸を締めつけられる思いがして、ぼくは目の前のシーツを掻き分けた。

「いけませんわ。それ以上、お近づきにならないで。こんな姿を、お見せしたくありませんもの」

 向こう側にも、重ねてシーツが干されているため、彼女の姿は、穏やかに揺れる白い波に隠されたまま。気のせいか、かすかなせせらぎが聴こえてくるようだった。

 傷だらけの裸身を、見られたくないというのだろうか。なぜ服を纏わずに、彼女は外へ出たのだろう。

 あるいは、物質を結合する力が弱まって……

「指輪の中へ、一旦呼び戻そう。そのほうが、何倍も回復が早いから」

「いいえ。ご主人さまのミワは、もはやそれに耐えられないでしょう」

 痛いところを突かれ、返答に窮した。たしかに重症を負った彼女を呼び戻せば、多大なミワが治癒力として使われる。ミワの枯渇は、当然ぼくの死へと直結する。

 でも、だからといって、

「おまえは、ぼくが悪人で暴君で最低の男だということを忘れている。落ちぶれても、王国で最も恐れられた魔法使いだということを」

 返還の呪文を唱えるために、目の前に左手をかざした。彼女が抵抗するのなら、力づくで呼び返すしかない。それが最低の魔法使いのやりかただ。

 薬指に嵌めた指輪に、右手で触れたとたん、青い火花が弾け、指に激痛が走った。

 覚えず体を丸め、ぼくはうめいた。

「主人に逆らうのか、ヘレナ!」

 急に風が強くなり、嵐を孕んだ海のように、シーツをうねらせた。それらが生き物のようにのたうつさまは、巨大な白龍の鱗を想わせた。

 次は襲ってくる。

 そう考えて身構えたけれど、幾重にも連ねられた白波の向こうで、彼女は沈黙を守っていた。無数のシーツのはためきと、大仰なスカートが風になぶられる音が、虚しい不協和音を奏でた。

 いつしかその音は、荒野の中で揺れるぼろぼろの軍旗と、ぼくのマントの重たげな響きにとって代わっていた。あの戦争で、敵の罠に落ち、ヘレナとともに孤立して、窮地に立たされたときの記憶が、まざまざと蘇るのだった。

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