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たぶん、たぶんだけど、ルリケガラスが歌うまでは、女王さまは目覚めない。
「そのようでございますわね。わたくしが聞いた噂によれば」
だから彼女たちも、こうして、おばかさんなお喋りを繰り返していられるんだ。ドールはそう考えながら、蜜酒硝子を磨く作業をつづけた。
「あなたさまが聞いた噂によれば?」
「探しているのでございます」
「陛下が? それならば、わたくしが聞いた噂と同じですわね」
「あなたさまが聞いた噂によれば?」
「探しているのでございます。陛下が決して……」
「しぃーっ」
ドールは驚いて顔を上げた。紫の服がはちきれそうなほど、むっちりと肥えたディーダ夫人が、花孔雀の羽根でできた団扇を持っていないほうの手で、自身の口の前に人さし指を立てていた。
一方、服の色が緑であるほかは、ディーダ夫人と瓜二つのドゥーカ夫人は、ともすれば脂肪に塞がれそうな目を見開いて、二つの肘掛椅子の間に横たわる、黄金の寝台を凝視していた。
その上に、女王バブーシュカが眠っているのだ。
女王は決して寝ている姿を、他人に見せようとしない。ただ、このたいへん肥った夫人たちと、そしてドールだけが寝室に同席することを許されていた。
「どうなさったの?」
ドゥーカ夫人の声は、少々苛立たし気だった。
「いまね、陛下が何か仰言ったような気がいたしまして」
「寝言というものでございましょう」
「あら、あなたさまはこれまでに一度だって、陛下の寝言をお聞きになったことが、おありで?」
「ございませんわ。ただの一度も」
肘掛椅子に身を沈めたまま、二人はまた左右から、花孔雀の団扇を上下させ始めた。長い柄の先の羽毛が揺れるたびに、黄金の天蓋から垂れた、薄絹の襞をそよがせる。
横たわる女王の姿は、ぼんやりとしたシルエットと化している。そのうえ絶えず左右から扇がれるため、薄絹が揺れて、濃い霧のように彼女の寝姿を覆い隠す。
寝言はおろか、ドールは寝息すら聴いたことがなかった。時おり、寝返りをうつ音がするけれど、そのたびにドールはびくりと肩を震わせた。なるべく女王の姿が見えないよう、手仕事をこなしながら、懸命に背を向けていた。
女王の寝姿を目の当たりにするなんて、あまりにも恐ろしかった。
「ならば、空耳というものでございましょう。最近は何かと緑魔宮の外が、騒がしゅうございますからね」
二人の夫人は、ほかに仕事を持たない。常に寝室の肘掛椅子に待機していて、女王が横たわれば、花孔雀の団扇で静かに仰ぎ始めるだけ。
食事はドールが運び、彼女たちの前にそれぞれ小テーブルを出して据える。たいへんな量のご馳走を、ぺろりと平らげる。いつ眠るのかわからない。肘掛椅子から立ち上がったところを、一度も見たことがない。すっかり椅子にのめり込んでしまった肥満体が、立ち上がれるかどうか、そもそも疑問である。
あれほど大量に食べるのに、夫人たちの顔は常に蒼ざめていた。
いつ頃からこうして座っているのか、見当もつかないが、彼女らの「噂話」を鵜呑みにすれば、少なくとも千年近くは、ここにいる計算になる。
食事中も待機している間も、二人が口をきいているところをドールは見たことがない。女王は、まるで彼女たちが家具であるかのように、言葉をかけようとしないし、またドールが話しかけたところで、二人は決して応えない。
ただ、女王が眠りに落ちている間だけ、花孔雀の扇を揺り動かしながら、堂々巡りの「おばかさんな」お喋りを繰り返すのだった。
「わたくしが聞いた噂によりますと、滅びの時が近づいていると申します」
顔を伏せていると、ディーダ夫人とドゥーカ夫人のうち、どちらが喋っているのか区別がつかない。
「まさか。これほどまでに、陛下はお美しいのに?」
「花は見えないところから、腐ってゆくものですわ」
「だから……探しているのでございましょうか? これまでに一度も、あらわれたことのないものを」
「それが、すでにいるのだと申します。この国に」
「奇妙ですわ」
「予言があったのでございます。リルケガラスが」
ぎょっとして、ドールは振り向いた。
黄金のベッドのかたわらに、黄金の鳥籠が吊るされていた。リルケガラスは止り木の上で、黒い嘴を下に向け、じっとまどろんでいるように見えた。巻いた冠毛はぴくりとも揺れず、火影に全身の羽毛を瑠璃色にきらめかせていた。
もうしばらくは、歌い出しそうに見えない。
今にも潰れそうな目を見開いて、ドゥーカ夫人が尋ねた。
「リルケガラスが、予言したのでございますか」
「もちろん、この子ではございませんわよ。この子は、歌のほかは何も知りませんから」
まるでドールの疑問に答えるように、ディーダ夫人がそう言った。
「では、紫の部屋に飼われている? あの鳥がまだ生きていたのでしょうか」
「わたくしが聞いた噂によれば、口をきいたのは、三百年ぶりだと申します」
「で、どのような予言を?」
ふっつりと、会話が途切れた。花孔雀の団扇が宙を泳ぐ音だけが、みょうに生々しくドールの耳に響いた。
瑠璃色の鳥は止り木の上で、まどろんだまま。眠りを貪り続る女王のかたわらで、紫の服の夫人が、唐突に口を開いた。
「ついにあらわれたのだと申します。このサフラ・ジート王国に。バブーシュカさまが決して飽きることのない、完璧な美しさをそなえた娘が。それも、緑の繭の外から」
「するとその娘は、異邦人なのでございますか!?」
ドゥーカ夫人が、いつになく不用心に声を張り上げるのと、鳥が全身の羽毛を震わせたのが、ほとんど同時だった。
リルケガラスは、透きとおった人間の女の声と、ドールの聞いたことのない言葉で、唄い始めた。まるで苦しみに満ちたこの世界に、再び目覚めてしまった者に同情を寄せるような歌を、切々と。