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精霊である彼女にとっても、妖魔の森は完全に未知の領域だ。
どんなものが棲むかわからないし、妖魔たちの行動も読めない。むろん、この奇怪なスネイルマンどもが、どんな方法で攻撃を仕掛けてくるか、も。
ヘレナは、氷の剣を物質化させた。青く発光する刀身を見たときは、さすがに、胸を撫でおろす思いがした。
武器がなければ勝ちめはないが、今の彼女に遺された体力では、剣を取り出せるかどうかも、おぼつかなかったから。
肩で息をしているのが、自分でもわかった。剣を物質化させただけで、これほど体力を消耗するのだから、一気にカタをつける必要がある。それにしても……
自嘲的な笑みが、おのずからこぼれた。
かつての彼女なら、こんな得体の知れない化け物ごとき、二、三十匹が束になっても、煩わされはしなかった。その名を知らぬ者とていない、由緒あるウンディーネの眷属ではないか。
フォルスタッフの強力な使鬼たちの中でも、その潜在能力はヴィオラに匹敵する。吟遊詩人たちにそう歌われた、あのヘレナではなかったか。
(来る……)
前方左斜めの一匹だ。地に接した腹部の下から、土煙が舞い上がっている。
彼女は身を低くした。
手首をクロスさせ、目の前に右手の剣を水平に構えると、左手の甲を、柄頭に軽く当てた。あの戦争では、彼女がこのポーズを見せただけで、敵の大隊が総崩れになったものだが。
ざっ。
まるで鴉蛇が地を滑走するような、鈍重そうな姿からは想像もつかない速度で、そいつは突っ込んできた。牙を剥いた不気味な顔が、面前に迫った。
「はっ!」
腕を鉄の棒で殴られたような痛みに、彼女は耐えた。ぎりぎりと、貝殻が切り刻まれるおぞましい音が響き、火花と粘液と地獄的な悲鳴がまき散らされた。
剣を薙いだ方向へ、体を半転させた。横ざまに、まっぷたつに裂かれた貝殻が地面に倒れ、赤や緑の巨大な臓物が四散していた。スネイルマンの身は、墓場と変わり果てた住処から逃れようと、長い腕を必死に振り回していたが、間もなくどうと地面に沈んだ。
ぼっ、と鬼火が燃えて、貝殻以外のすべてが消滅した。
「一匹」
悪鬼そのものの笑みを浮かべ、彼女は唇の端を舐めた。
背後で、いかにも不穏な空気が揺れた。同時に正面の一匹が、こちらはわざと音をたて、吠えながら突っ込んできた。
挟撃だ! 下等な知能しか持ち合わせていないように見えて、学習能力くらいは、備わっているらしい。
彼女は目を閉じた。この場合、視覚は邪魔にしかならない。不動の姿勢のまま、空気をびりびりと震わせて接近してくる、殺気の塊を待ちうけた。
(跳べるだろうか)
今の体力では心もとなかったが、さいわい妖魔どもは地を這うタイプ。引きつけるだけ引きつけておいて、ひと息に浮力をみなぎらせた。体を回転させながら、ぐしゃりと、何かが潰れる音を聴いた。引き続き、呪いに満ちた咆哮が響く。
眼下では、割れた貝殻どうしを融合させ、二体のスネイルマンの体が絡みあっていた。落下する速度を利用して、一体の首を切り飛ばすのは容易だった。
「二匹」
そして振り向きざまに、這いつくばっていたもう一体の額を、真っ向から割った。
「三匹」
断末魔と、蒼黒い粘液がほとばしった。噎せるような鬼火がたちのぼり、恨めし気に彼女を見上げていた首も、蒼い炎とともに消え失せた。
もうかなり、息が荒い。
ヘレナの漆黒の髪は、無数の蛇のようにのたうちながら、氷の剣と共鳴するように燐光を放っていた。この光が消えてしまえば、もはや彼女に反撃する力は残っていないし、それは時間の問題でもある。
「待ってなさい。すぐにエレメントに還元してあげるから。そのほうが、あなたも楽になれますわ」
切っ先を向けると、残りの一匹は身を仰け反らせて威嚇した。他の三体より体が一回り大きく、触覚のほかに、角質の角のようなものが生えて、一層その姿をおぞましく見せていた。
楽になれる。
そう言った自身の言葉に、彼女は苦笑を禁じ得なかった。解体されて初めて「楽になれる」のは、自分のほうではないのか。使鬼の掟を破った苦痛に、これほどまでにのたうち回りながら、いったい何にしがみついて、この物質世界に在り続けようというのか。
柔らかな、魔法使いの笑顔が脳裏をよぎると同時に、彼女は地を蹴った。
螺旋状に回転しながら、大蛇アルベルヒのようにどこまでも伸びるスネイルマンの本体が、突進してきた。
「はああああああっ!」
走りながら両手でつかみ、斜めに引いた刀身が、見る間に光を孕んだ。それは光球となって膨れ上がり、苦痛に耐える彼女の表情ごと呑みこんだ。
「いっ、けええええっ!」