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ひととおり掃除を済ませ、ヘレナは庭に降りてみた。花の陰から、蝶たちがわらわらと舞い上がった。
つつましやかな小庭だが、花壇があり、樹木が植えられ、煉瓦を敷いた散歩道が作られている。常に森の梢を透かして洩れてくるため、陽射しは夢のように柔らかい。
髪にとまった蝶を払いのけもせずに、ヘレナはうっとりと目を閉じた。相変わらず体調は優れなかったが、そんな気怠さも含めて、決して不快ではなかった。
(これが、生活? わたしが求めていたもの?)
フォルスタッフの使鬼となってから、戦闘に明け暮れていた記憶ばかりが残る。ついに王宮を包囲したときの、ぞくぞくするような快感も、昨日のことのように覚えている。反面彼女は、そんな悪鬼としての本能を、疎ましく思った。
五匹の使鬼たちの中では、ミランダがもっともバランスがとれているのだろう。彼女は悪鬼の能力を最大限に生かし、戦闘に喜びを見出して、ほとんど悩むことがない。
ゆえに、フォルスタッフが王宮に背を向けたとき、最も反発したのも彼女だった。
(でも、わたしが求めていたものは……)
本来、悪鬼が望んではいけないもの。
かつてヴィオラはそれを望み、事実上、ダーゲルドという男を破滅させた。だから懸命に否定し続けてきた。
幼い、憧れのようなものを。それが胸の内に満ちているときは、淡い、けれども強い陶酔にひたされる。未知の、それでいて懐かしい。決して悪鬼が持つべきでない、この感情を。
壁が、揺れた。
(壁が?)
貝殻のように王宮を取り囲む壁。巨大な森の生きた枝と葉で、がっちりと編まれ、膠のような何らかの半固形物で、塗りかためられている。煉瓦や鉄よりも強靭に、侵入者を阻んでいるという。
風による揺れかたとは、明らかに異なる。ざわざわと、その一か所だけが苛立たしげに震えながら、無数の葉を、ぼろぼろと削ぎ落してゆく。
壁が、侵食されているのだ!
ヘレナは門を走り出た。
鉱物人間の姿が、脳裏をよぎった。が、溶かされてゆく壁の範囲はかなり広い。もし向こう側から、強力な火龍が炎を吐きかけているとしたら、ちょうどこのように見えるだろうか。
やがてばりばりと音をたてて、壁の一部が剥がれ落ちた。引きちぎられた葉や枝が、彼女の頭上を舞った。たちまち滑らかな大岩が、転がりこんできた。馬二頭ぶんくらいの大きさ。扁平な円形で、磨き上げた瑪瑙のような光沢がある。まるで奇怪な車輪のように、二つ、三つ、壁の向こうの闇から、ごろり、ごろりと……
彼女は右に左に飛び退いて、岩の蹂躙から身をかわした。
それが巨大な貝殻だと気づいたとき、すでに四体が殻口を彼女に向けて、取り囲んでいた。蓋のない、殻口の中は暗く、舌なめずりするように、触覚の先がちろちろと蠢き、緑色に妖しく光る、二つの眼が覗いた。
妖魔!
しかし、いったいなぜこうも易々と、妖魔の侵入を許したのだろう。王国の外壁は極めて強靭なうえ、忠実にして強力なミュルミドン蟻兵に、守られていたのではなかったか。あるいは、鉱物人間来襲のダメージで、守備が手薄になっていたのか。
いずれにせよ、この四体の妖魔が、彼女に対して殺意を剥き出しにしているのは、確かだった。
(まるで、わたしへ差し向けられた刺客のようだわ。だとすると、むざむざとみずから、罠に飛び込んで行った恰好ね)
殻口からまず引き出されたのは、二本の「腕」だった。
ぬめぬめと粘液に覆われ、指の先に吸盤がついていた。肌の質は、蝸牛とそっくりだ。次に頭部があらわれ、上半身が這い出してきた。髪はなく、二本の触覚が生えており、妖光を放つ目が、病的に見開かれていた。通常の人間の倍以上の巨体である。
妖魔たちは体を仰け反らせ、威嚇するように吠えた。この世のものとは思えない、まがまがしい咆哮。グロテスクなまでに赤い舌。耳まで裂けた口の中の歯は、すべて鋭く尖っていた。