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なぜか、背中に水を浴びたような気分になった。
幽霊。
そんなもの、ぼくにとってはありふれている。
あんまりうようよいるから、ふだんはわざと、視界からカットしているくらい。世の中には、幽霊が見えると言って、庶民から金を巻き上げる霊媒が多いけれど、じつは見るよりもカットするほうが、高度な技術を要する。
そんなぼくが、無邪気な少女の口から発せられた、「幽霊」の一言に戦慄を覚えたのだ。
「幽霊……、ですか?」
あの傲岸不遜なル・アモンの声も、心なしか震えて聴こえた。取り繕うような、けれど明らかに引きつった笑顔で、夫人があとをうけた。
「ごめんなさいね。この子はちょっと、心が昂ぶりすぎるのです。なんですか、昨今の流行でいえば、神経過敏と申しますか。これもひとつの病気、ですわね。ところがこの病気が、小間使いや、あの鈍感なヤフーにまで感染いたしまして、家じゅうがちょっとした幽霊騒ぎ。引っ越しを余儀なくされた次第でございますの」
「奥さまは、ご覧になっていないのですか」と、ぼく。
「もし本当に幽霊が出たのなら、わたくしのもとへも現れるはずです。ドール……これがマジョラムの姉の名なのですが、あの子は、わたくしを慕ってくれておりました」
沈黙のなか、ぼくはフィルタリングを解除して、幽霊をスキャンしてみた。
結果は、ゼロ。
幽霊ではなく、下級精霊が数匹、壁や柱にしがみついて、物欲しげに料理を眺めていた。やみくもに食物に惹かれる喰鬼タイプで、人畜無害。
だいたい幽霊には二つのタイプがあり、第一は場所に憑くもの。新開地や新築の家には、まず出てこない。とはいえ、こんな話もあるから、注意を要する。
パエシュトラといえば、新興商業都市として、賑わいをみせている。街ができて、まだ百年も経っていない。以前は何もない野原で、淋しいでこぼこ道が一本、通じているだけだった。
この道を、武人とおぼしい旅の男が、馬に乗って通りかかった。とつぜん、激しい雨が降り始めた。男は馬を降りて、道のほとりの大木の下に雨を避けた。すると運悪く、落雷がその大木を貫き、男と馬もろとも焼き尽くしてしまった。
それから百年くらい経って、その場所に街が建設された。かつて武人が横死した場所には、金持ちの商人が豪邸を建てた。ところが、その家には怪異が続出し、主人を含めて数人がたちまち死んだ。あとの者たちは、ほうほうの体で引っ越した。
それから家は、次々と持ち主を代えたが、同様の運命をたどり、化物屋敷という評判がたって、ついに荒れるにまかされた。後に、有能な魔法使いが調べてみたところ、落雷で死んだ武人の祟りであることが、判明した。
とまあ、場所に憑く霊は、いかにもしつこいが、引っ越せば怪異はけろりとおさまる。第二のタイプは人に憑く霊で、恨みがあるのか、愛しすぎたか、こいつはどこまでも着いてくる。
マジョラムの姉、ドールの場合は第二のタイプと思われるから、家を移ったところで、追って来ているはずだ。が、なぜかまったくスキャンできなかった。
「マジョラムのお姉さまは、本当にお亡くなりになったの?」
思わず言ってしまった。夫人の表情は、ありありと驚嘆を示していた。
「なぜ、そうお考えになられたのですか」
「フォルスタンテお嬢さまは、ちょっと変わった体質をお持ちなのですわ。ミワ、と申すのでしょうか、もちろん魔法が使えるほど強くはございませんが、なんとなくわかるのでしょう。この家に“本物の”幽霊がいないことを」
口ごもるぼくの代わりに、ル・アモンがいけしゃあしゃあと言ったものだ。じつにきわどい言い訳だが、かれも感じるのだろう。下級精霊がぼんやり見えるくらいのミワがあることは、市場で実証済み。夫人にも娘にも、幽霊は憑いていないのだ。ぽつりと、ボーデン夫人はつぶやいた。
「消えたのでございます。上の娘は、ある日突然。ほかの多くの娘たちと同じように」
「えっ。では、お嬢さまも例の……?」
巧い切り返しだ。知りもしない情報を、知ったふりして引き出そうとする。この男、やはりプロの詐欺師ではあるまいか。
「仰言るとおり、“千年隠し”に遭ったのでございます」
あとで調べたところによると、際だって美しい娘に限り、忽然と消える怪異が絶えないという。サフラ・ジート王国が誕生した千年も昔から続いているという言い伝えから、千年隠しと呼ばれる。
ゆえに、美しい娘が生まれると、母親たちは極度に警戒する。外出時には、ヤフーや腕の立つ小間使いをつけ、寝るときにも寝室にヤフーを一晩じゅう立たせておく。それでも“消える”らしいのだ。まるで蒸発したように、忽然と。
そうして消えた娘は首のない幽霊となって、さまよっていると噂される。たしかヘレナが仕入れてきた情報にも、そんな話が混じっていた。
次に夫人が、なかば独り言のようにつぶやいた言葉は、だからみょうに耳に残ったのだ。
「でも、おかしいのでございます。母親のひいき目に見ましても、ドールはマジョラムと違い、さほど美しい娘ではございませんでした」
緑色の指輪が、不気味な光を放ったのは、そのとき。