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「フォルスタンテさまは、本を読まれて?」
どうやらこのマジョラムという少女は、「大人の話」に区切りがつくのを、今か今かと待ち構えていたらしい。歳の近い娘と話すのは、久しぶりだと言っていたっけ。
もっとも、ぼくほど歳のかけ離れた者もいなければ、まして娘でもないのだが。
「まあ、なんですか、不躾な。お読みになるに決まっているではありませんか、ねえ」
夫人が眉根を寄せた表情には、まだなかなかに艶がある。ちょっと「男心」が疼いたが、もちろん今はそれどころではない。我ながら鳥肌モノだが、なるべく可愛らしく見えるよう、小首をかしげて微笑んだ。
「ええ、本は大好きよ」
「どんな本を読まれて?」
パーラ・ベル・ドッドの本なら、今でも座右にある。
ぼくが生まれる五百年前の魔法使いだが、難解な韻文で書かれた『精霊の書』や『赤い龍の書』などは、未解読の部分が多い。もし、これらの韻文の謎が全て明らかになったときは、魔術の最終奥義が開かれ、恐るべき力を手に入れるだろう。
ゆえに、いまだにベル・ドッドの本を所有していることが、巡邏兵にでも知れようものなら、即座に首を刎ね飛ばされる。いにしえより、権力者の目を逃れながら、地下で書き写されてきたが、世間に出廻っているのは、落丁本や贋作がほとんど。ぼくが師、ダーゲルドから譲られた、ほぼ完全に近い善本には、まずお目にかかれない。
とはいえ、まさかここで、禁断の書の名前を口にもできないので、
「そうね、魔法のお話なんか、よく読みますわ」
「すてき! その本には、たくさんの挿絵が載っていて?」
「そ、そうね。けっこう載っていましてよ」
様々な龍の図説。悪鬼の解説。魔薬の製造法。下級精霊を引き寄せるときの、指の動かし方。古今東西より蒐集した魔法陣等々……おどろおどろしい挿絵には事欠かない。が、もちろん、羨ましそうに目を輝かせている少女は、もっとロマンチックな絵を思い描いていることだろう。
美男で正義感の強い魔法使いが、精悍な龍に乗り、美しい精霊を操っている。最近流行の甘ったるい物語を盛り上げるために、銅版画家たちは、これでもかと技巧を尽くす。
いったいこの国の書物は、どこで作られるのだろう。玄関ホールの本棚を、横目でチェックした限りでは、地上の本が流入してくる場合が、ほとんどではないかと思われる。
興奮に声を震わせながら、マジョラムは言う。
「わたしも魔法のお話は大好きなの。何十冊も読みましたけど、中でも面白かったのがね、フォルスタッフという魔法使いの物語!」
ぼくは絶句した。背中から汗がふき出した。
「これはねえ、むかし本当にあった物語なんですって。まだ若い魔法使いが、たった一人で、王国を相手に大戦争を引き起こすの。五匹の従順で美しい精霊を従えて、悪い王様と、それはもう勇敢に戦いますのよ。とても厚い本ですのに、読み始めたら止まらなくなって、お母さまに早く寝るよう、何度叱られたか知れません。挿絵も、素晴らしいものばかりでしたわ」
むずがゆさに、必死で耐えた。隣でル・アモンが、笑いを堪えているのがわかった。
ここにおいて、「勇敢な魔法使い」はすっかり落ちぶれ果て、かれの「従順で美しい精霊」たちに命を脅かされている。
しかし曲りなりにも、そのような本が出廻っているとなると、彼女たちは、この貝殻の形の王国の外に、もっと巨大な王国があり、髭面の男たちが幅を利かせているという、知識は得ているわけだ。
「今もその本をお持ちですか?」
横から尋ねたのは、アモネスに化けたル・アモン。相変わらず性格のよくない男だ。その一言で、大輪の花のようだった少女の興奮が、たちまちしゅんと萎れた。
「置いて来てしまいましたの。前に住んでいた家に。引っ越しも、慌ただしいものでしたから」
夫人の言葉をさらうように、少女が身を乗り出した。
「ヤフーに任せたのが、いけなかったんだわ! 箱を取り違えるだなんて。ですから、この家にあるのは、お姉さまの本ばかりなの」
「ずいぶん急な引っ越しだったのね。なにか理由があるの?」
ぼくはなるべく、気軽な口調で尋ねた。マジョラムを元気づけようという意図は、けれど、たちまち裏目に出た。今や、少女はすっかり蒼ざめていた。
「幽霊が出たのよ。お姉さまの……首のない幽霊が」
やっと聴こえる声で、うわごとのように、そうつぶやいた。