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伯爵が激しく抵抗したのは、言うまでもない。
「あんな窮屈な服を着せられたんじゃ、飯も不味くなる」
けれど、ぼく同様、言下に却下され、ヘレナに「着付け」を手伝ってもらいながら、レディ・アモネスにされてしまった。耳を震わせて笑うゼモに、忌々しげに舌打ちしてみせたが、立ったまま、ソーサーごと手に持ち、紅茶を口へ運ぶさまは、なかなかどうして、絵に描いたようなガヴァネス(女家庭教師)である。
「あとは、声さえ変えれば、完璧なのですが」
「なに?」
「じつは昨日、バザールで面白い薬草を見つけたのです。ぼくが常備している、幾つかのスパイスと合わせれば、とある魔薬ができるのですよ。じつはすでにヘレナに頼んで、一晩じっくり煮込んで完成しているのですが」
「なぜ、わざわざおれに話しかけるんだ、美少年」
相変わらず粗暴な口調に眉をひそめながら、ヘレナの表情には、どこか面白がっているトーンがうかがえた。反対に、伯爵は厭な予感に蒼ざめていた。
「ええ。なぜならその魔薬には、声を高くする効果があるからです。たとえ巨人族の血を引く、枯れ木のような声の男でさえ、その薬を飲めば、テノール歌手として舞台に立てます。まして伯爵でしたら、もともと声がお奇麗ですから。カナリヤのようなソプラノが出せるでしょう」
「冗談じゃねえ!」
「どうかご心配なく。薬の効果は一日で消えます。それとも、毎朝飲んでいただくのは、ご面倒でしたか?」
さらに反論しようとして、伯爵は咽を抑えた。紅茶のカップが、ソーサーごと、床に落ちて割れた。
「いっ……一服、盛り、やがった……な」
咽を掻き毟りながら、大衆芝居の悪役のようなセリフを吐いた。が、すでにその声はカナリヤのように澄んでいた。
まるでヘレナの予言が的中したように、日が高くなり始めた頃に来客があった。
「窓に灯りが見えましたもので。新しいご近所さまができたのかと、偵察に参りましたの」
総じて美しいこの国の女たちは若く見えるが、もうすぐ四十に届こうといったところか。昨夕、財布を失敬した貴婦人ほどの厳しさはないが、庶民と決めつけるには抵抗がある。最近、都市部で流行り始めた、ブルジョアジイという言葉が、最もふさわしいかもしれない。
来客は、ボーデン夫人と名のった。隣に住む主婦だという。
しかし男のいないこの国で、マダムだとか主婦などといった身分が存在するのか。「地上の」世界では、今ごろ男たちは、蟻のように駆けずり回っている時刻である。そうしてこのマダム・ボーデンのように、自由を得た女たちが隣近所を誘って、延々と続く「お茶の時間」を楽しむ時刻でもある。
「不しつけではございますが、もし差し支えございませんなら、昼食にお招きしたく存じますわ。こんな可愛らしいお嬢さまがいらっしゃるのでしたら、娘がとても喜びます」
ソーサーごと持ち上げたカップを、上品に口へ運びながら、マダムは言うのだ。
ぼくとヘレナは、彼女を注意深く観察していたが、行儀作法は、地上とかけ離れてはいないようだ。辺境には、とんでもない行儀作法があるもので、例えば、ある地方では、挨拶がわりに、べろりと舌を出すという。そのわけは、悪意を抱く者の舌は黒いと信じられていて、自身が友好的であることを示すために、赤い舌を見せるのだとか。
けれども、ボーデン夫人は、舌を出すわけでも逆立ちするわけでもなく、作法どおりに紅茶を飲みながら、それでもしたたかな視線を、ぼく、伯爵、ヘレナへと移しながら、話し続けていた。もちろんボレは、置物としてでも置いておけないので、別室に閉じ籠めてある。
黒猫は伯爵のゆったりとしたスカートの上で、おとなしくしていた。手持ち無沙汰なのだろうけど、猫の背を撫でるかれの姿は、じつに美しい絵になっていた。ボーデン夫人がそれを見て、満足げにうなずくのが、わかった。
「ヤフーは飼っておりませんの?」
この質問は、なぜか伯爵に向けられたのだ。これまで始終無言だったかれ、いや、レディ・アモネスは、猫の背を撫でる手をとめると、かすかに首をかしげて微笑んだ。
「ええ。どういうわけでしょう、女王陛下のご命令で警備にとられてしまいまして。こまっておりますの」
「まあ、それはお気の毒ですね。お引越しも、さぞ大変だったことでしょう。ほんとうに、近頃は何かと物騒で、お互いに難儀しますわね。ミュルミドンを街中で見ることなんて、めったにございませんのに」
夫人が胸に手を当てるのを見届けて、伯爵はぼくにだけわかるように、ウィンクしてみせた。けっこう本人も、楽しんでいるのではないか?